【番外編⑧】反逆大和
僕の父親は、海上自衛隊の一等海尉――いわゆる「1尉」だった。
だが、僕がまだ物心ついて間もない頃、彼は任務中の不慮の事故によって、この世界からあっけなく退場した。いわゆる、殉職というやつだ。
父親は、救いようのない本物のミリタリーオタクだった。彼がこの世を去った後、遺された薄暗い書斎は、僕にとって唯一の聖域となった。クラウゼヴィッツの『戦争論』から、最新の防衛白書、世界の重火器図鑑、地政学、さらにはC4ISRシステム(指揮・統制・通信・コンピュータ・情報・監視・察知)の専門書にいたるまで、軍事に関するありとあらゆるジャンルの文献が、乾いた埃の匂いとともに整然と並んでいた。僕はその部屋に引きこもり、飢えた野獣のようにそれらの本を読み漁った。文字通り、貪るように脳のニューロンへと軍事ロジックを刻み込んでいったのだ。
一方で、僕の母親は、絵に描いたような典型的な「毒親」だった。
彼女にとって、夫の突然の死は自己憐憫を肥大化させるための絶好の道具であり、僕はその歪んだ感情のゴミ箱に過ぎなかった。
「あなたが生まれてこなければ」「あなたのせいで私は不幸になった」
毎日のように浴びせられるヒステリックな罵声と、気まぐれに飛んでくる平手打ち。僕にとって、母親という有機体は、合理的な説明のつかない不条理そのものであり、生存を脅かす最大のストレッサーだった。
そんな地獄のような日々の中、ある日、僕は父の書斎の奥にあるクローゼットの天袋から、一つの大きな長方形の箱を見つけた。
それは、1/350スケールの超弩級戦艦『大和』のプラスチックモデルだった。
大人向けに設計されたそのキットは、エッチングパーツやミリ単位の微細な金属部品が数千も詰まった、狂気的なまでに精密なものだった。子供の手にはあまりにも荷が重く、途方もない集中力と時間を要求する代物だった。
僕はそれを、子供ながらに、必死になって組み立てた。小さな指をピンセットで制御し、セメダインの鋭い溶剤臭に鼻腔を突かれながら、何日も、何週間も、何ヶ月もかけて。
母親がリビングでヒステリックに物を投げ、ドアを叩き、僕の存在を否定する罵声を浴びせてくる防音性のない子供部屋の中で、僕はただ、大和の美しい艦線と、46cm三連装主砲の圧倒的な造形にだけ救いを求めていた。それは僕にとって、不合理な現実に対する唯一の防衛障壁であり、僕のプライドのすべてだった。
そしてついに、その「質量兵器」は完成した。灰色に塗装された鋼鉄の巨体が、僕の学習机の上で静かに、そして美しく輝いていた。
しかし、その日の夜。狂乱状態で僕の部屋へと乱入してきた母親は、僕の宝物を見るなり、その濁った目を血走らせた。
「何よこれ……気味が悪い。ゴミをため込んで!」
彼女は、僕が何百時間もの熱量と精神的リソースを投じて築き上げた大和を、乱暴に掴み取ると、容赦なく床へと叩きつけた。それだけでは足りず、ヒールのついた足で、何度も、何度も、ヒステリックに踏みにじった。
バキバキと、硬質なプラスチックが粉砕される無慈悲な構造破壊音が、静かな夜の部屋に響き渡る。僕の魂の結晶だった大和は、一瞬にして、無残なプラスチックの残骸と化して、ただのゴミの山へと還元された。
母親は、荒い息を吐きながら、這いつくばる僕を見下ろして、どす黒い悪意に満ちた声を吐き捨てた。
「こんな死んだ男のゴミに縋り付いて、本当に気味が悪い子供ね! あなたもあの男と同じように、無駄にのたれ死ねばよかったのよ! 私の人生を台無しにした化け物め、二度と私の前にその小生意気な顔を見せないで!!」
壊されたプラスチックの残骸を見つめながら、僕の脳細胞は、怒りや悲しみといった非合理的なエラー感情をすべてシャットダウンした。前頭葉が、感情のシステムダウンを防ぐために、けたたましい戦術的警報を鳴らす。
僕は、床に散らばった46cm主砲の無残な破片を拾い上げ、そっとポケットに収めた。直接的な暴力や刃物による物理的排除など、三流の戦術家がやることだ。僕は子供の華奢な体躯と、その無害な「子供」という属性を最大限に利用し、非対称戦争――徹底的な情報戦と社会的な包囲網の構築を開始した。
母親のスマートフォンの通信ログを監視し、彼女の交友関係や隠された借金、不正な金の流れのデータを冷徹に収集・分析した。そして、それを最も効果的なタイミングで、彼女の親族や職場、近隣住民へと匿名でリークしていった。兵站、すなわち彼女の生活基盤を断ち、包囲網を狭め、敵を精神的・社会的に孤立無援のキルゾーンへと誘い込む。それが僕の描いた防衛計画だった。
母親は日を追うごとにノイローゼになり、ヒステリックに叫び、自ら周囲の信頼を切り捨てて自滅していった。僕が直接手を下す必要すらなく、彼女の人生という歪んだシステムは、自重に耐えかねて勝手にメルトダウンを起こしたのだ。
狂乱し、髪を振り乱してリビングで泣き叫ぶ母親を、僕は冷え切った三白眼で見下ろした。
「私は一方的な『最適化』のプロセスがたまらなく好きなのだ! 泣き叫び、防衛線を自ら放棄し、自爆していく愚者の姿を眺めることほど、脳髄を痺れさせる娯楽が他にあるかね!? 自業自得? 違いますよ。これは、無知という名の致命的な脆弱性を放置したあなたに配給される、当然の『対価』だァッ!!」
喉の奥から、カタカタと乾いた笑いが漏れる。
「攻撃側の主導権は、完全に消失した。これより、我が陣営は防衛フェーズを終了し、無制限の報復プロトコルへと移行します。……泣いて許しを請う準備はできていますか? 戦争を始めたのは、あなたの方だ」
やがて、あの女はすべてを失い、僕の前から完全に消え去った。
静寂が戻った、冷え切った一軒家。
薄暗い父親の書斎に、僕はぽつんと一人で座っていた。
ポケットから、あの時拾い上げた大和の、壊れた46cm主砲のプラスチックの破片を取り出し、机の上に静かに置く。
窓の外を見上げれば、夕暮れの空が酷く美しいオレンジ色に染まっていた。
「神への祈りなど無価値だ。前線で命を繋ぐのは、見えぬ神の恩寵などではない。正確な計算と、整備された火薬の精度だけだ」
僕の頭の中は、すでに新たな戦術図と冷徹なロジックで埋め尽くされていた。
この世界は理不尽に満ちている。だが、だからこそ。
「神が人に理性を与えたのだとしたら、それは祈るためではない。運命という名の理不尽を、論理と火力で叩き潰すためだ」
壊れた大和の破片を見つめながら、僕は一人、底冷えのする笑みを浮かべ、静かに暗闇の中へと沈んでいくのだった。
・一等海尉
海上自衛隊の階級の一つで、幹部自衛官に位置づけられる。諸外国海軍の大尉(Captain/Lieutenant)に相当し、3等海佐の下、2等海尉の上位である。略称は「1尉」。
・ミリタリーオタク
いわゆる軍事オタク。略称は「ミリオタ」。
・カール・フォン・クラウゼヴィッツ
近代軍事学の礎を築いたプロイセン王国の軍人・軍事学者。
・『戦争論』
19世紀前半にプロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツが書いた軍事学の古典的名著。
・防衛白書
日本の防衛省が毎年1回刊行している公式の年次報告書。
・自己憐憫
自分の不遇や悲しい境遇を自ら哀れみ、過剰に自分をかわいそうがる心理状態。
・大和
太平洋戦争中に大日本帝国海軍が建造した、史上最大・最強の超弩級戦艦。広島県呉市の呉海軍工廠で極秘に作られ、1941年12月16日に就役した。
・エッチングパーツ
真鍮やステンレスなどの金属板を薬液で腐食させて加工した、極めて薄く精密なディテールアップ用部品。
・セメダイン
日本の大手接着剤メーカーであるセメダイン株式会社、および同社が製造・販売する接着剤のブランド名。




