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【番外編②】不条理

『その頸部 の拘束具は何だ。物理的・解剖学的に気道および頸動脈を圧迫する位置にある。動作阻害用の奴隷具か』


いつか、あの小さな戦術家は、スクワールの首に()められた鉄の輪を見て、一切の感情を排した冷徹な声でそう言い放った。 その時、スクワールは明るく笑って答えたのだ。


『わたしたち獣人は、人間様の街に入るにはこれをつけなきゃいけないの。そうしないと、あぶない怪物扱いされちゃうからねっ!』と。


それは嘘ではない。だが、この粗雑な刻印が彫られた焼け焦げた鉄の輪が首に擦れるたび、スクワールの脳裏にはどうしても「あの日の焦げた匂い」と「家族の断末魔」がフラッシュバックしてしまう。


――数年前。深い森の奥にあった、名もなき獣人たちの村。


「炎の魔法を広げすぎるな。毛皮の価値が落ちる」「逃げ道は土壁で塞いである。若い個体は労働力として生け捕りにしろ。抵抗するなら足を砕け」


そこに、人間たちの怒りや憎しみは一切なかった。ただ淡々と、事務的な「害獣駆除」と「資源回収」の作業として、剣と魔法が振るわれていた。大雑把な炎と土の魔法。しかし、ささやかな植物魔法しか持たない獣人たちにとっては、それは抗うことのできない絶対的な蹂躙だった。


「スクワール! こっちへ!」


父親が、血だらけの腕で幼いスクワールを抱き寄せ、燃え盛る家屋の陰へと走る。しかし、直後に地面から突き出た土の槍が、父親の太ももを無慈悲に貫いた。


「がぁぁっ!?」 「あなたっ!」


母親が悲鳴を上げ、父親を助け起こそうとする。だが、重装歩兵の冷酷な剣が、父親の背中を無造作に叩き斬った。


「あ……お、とうさん……?」


血飛沫がスクワールの頬を濡らす。倒れ伏し、痙攣する父親。


「逃げなさい……スクワール! 生き、て……ッ」


母親はスクワールを突き飛ばし、瓦礫の隙間へと押し込んだ。直後、母親の髪を人間の兵士が乱暴に掴み上げる。


「ほう、こいつの毛皮はそこそこ上質だな。傷をつけずに殺せ」


「やめ、やめ――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!」


兵士の手から放たれた炎が、母親の顔面を至近距離から焼き尽くした。 生きた皮膚が焼け(ただ)れ、眼球が 破裂し、肉と髪の毛が 炭化 していく酷く甘焦げた悪臭が周囲に充満する。母親は狂ったようにもだえ苦しみ、やがて動かなくなった。


「お、おかあ、さん……っ、おかあ、さん……っ」


瓦礫の隙間で、幼いスクワールは声にならない悲鳴を上げながら、ガタガタと震え、両手を握り合わせていた。


掌状の殻檻(イン・ア・ナッシェル)


自身の周囲を覆うようにクルミの殻を発生させて身を隠したが、恐怖で魔力が安定せず、それは酷く薄く、不完全なものだった。


「おい、この瓦礫の下に一匹隠れてるぞ」 「チッ、手間をかけさせやがって」


兵士の無機質な足音が近づいてくる。 ガンッ! 剣の柄で殴りつけられ、脆いクルミの殻はあっけなく砕け散った。


「ヒッ……!」


スクワールの細い腕が乱暴に掴み上げられる。兵士が笑いもせず、ただ淡々と剣を振り上げた。 スクワールはぎゅっと目を閉じ、死の恐怖に震えた。 その時だった。


「――〈 葦紙の回生 ( パピルス・フリップ ) 〉!」


凛とした、しかし微かに震える声と共に、鋭い突風が巻き起こった。 周囲の炎の熱を奪い、土煙を巻き上げ、兵士の目をくらませる精密な気流の刃。 風がスクワールの周囲を包み込み、兵士が怯んだ隙に、誰かの手がスクワールの腕を強く引いた。


「……こっちです。声を出さないで」


へたり込むスクワールの前にいたのは、分厚い羊皮紙の古書を抱えた人間の少女――ニューだった。親のフィールドワークにこっそりついてきて迷い込んだのか、その服は泥だらけだった。 ニューは自分より小さな獣人の少女の手を、強く、しっかりと握りしめた。 それは、人間と獣人という種族の壁を超えた、初めての温もりだった。


だが、二人が森の出口へ向かおうとしたその矢先。


「――おい。そこで何をしている、人間の小娘」


背後から、血濡れた剣を持った部隊長が立ち塞がった。その視線は、ニューの背中に隠れるスクワールを冷酷に射抜いている。


「その獣人は、売り物だ。勝手に持ち出されては困るな」


絶体絶命の窮地(きゅうち)。ニューは、抱えていた古書をぎゅっと胸に押し当て、恐怖で震える膝を必死に抑え込みながら、部隊長をキッと睨みつけた。


「……違います! この獣人は……私が、古代語の研究用に買った『奴隷』です!」


その言葉に、部隊長は感情の抜け落ちた目でニューを見下ろした。


「ほう、奴隷だと。ならば、なぜ『印』がついていない?」


チャリン、と。 部隊長の腰から外された無骨な鉄の輪が、ニューの足元へと放り投げられた。 『従属の輪』。 村を焼く炎で熱せられていたのか、粗雑な刻印が彫られたその拘束具は、赤黒く熱を帯びていた。


「所有者だというなら、今ここで『刻印』を刻め。少しでも躊躇えば、密輸の罪でお前ごと切り捨てる」


「っ……!」


剣の柄に手をかける部隊長。 ニューは膝をつき、自身の掌が火傷で焼けるのも構わず、震える手で熱い鉄の輪を拾い上げた。


(ごめんなさい……ごめんなさい……!)


熱気と死の匂いが立ち込める中、ニューの震える手が、粗雑な刻印が彫られた冷たい鉄の輪を、スクワールの細い首へと近づけていく。


「っ……! いやだっ!!」


死の恐怖と本能的な警戒心に苛まれたスクワールの肉体が、ニューの意思に反して拒絶反応を起こした。 リス獣人特有の強靭(きょうじん)な後肢の筋繊維が、無意識下で最大収縮を引き起こす。スクワールはニューの手を振り払い、無酸素運動における爆発的な運動エネルギーで後方へと跳躍してしまったのだ。


「あっ……!」


ニューの悲鳴。だが、逃げ出した先には冷酷な重装歩兵たちが待ち構えていた。


「チッ。やはりただの害獣か。逃げるなら足を砕けと言ったはずだ」


部隊長が舌打ちすると同時に、一人の兵士が身を翻し、空中に逃れたスクワールへ向けて容赦なく鉄靴を振り下ろした。 グシャッ!! 「あ゛っ!?」 踏み砕かれたのは、足ではない。リス獣人が複雑な三次元空間での慣性モーメントを完全に制御するための絶対的な器官――自慢のふさふさの『尾部(尻尾)』だった。 姿勢制御の要を物理的に圧殺され、スクワールは為す術もなく地面に叩きつけられる。


「ひぐっ、あぁっ……!」


尻尾の骨が砕ける激痛に身悶えするスクワール。その背中を、兵士が分厚いブーツで無慈悲に踏みつけ、完全に固定した。


「馬鹿な小娘だ。奴隷の首輪の嵌め方も知らんのか。貸せ」


部隊長はニューの手から鉄の輪を奪い取ると、地面に這いつくばるスクワールの首元へと容赦なくそれを押し当てた。 カチリ。 意図的に気道および頸動脈を圧迫する位置で、無機質な金属音が鳴る。


「がっ、ひゅっ、あ……っ!?」


粗悪な内側の突起が容赦なく皮膚を削り、頸部をギリギリと締め上げる。物理的に呼吸を阻害する悪辣な構造。 ここで、スクワールの肥大化した聴覚器官が、彼女に最大の地獄をもたらした。 人間には感知できない高周波の音響インテリジェンスすら捕らえるその敏感すぎる耳は、気道がひしゃげてヒューヒューと漏れる自身の呼吸音、皮膚が擦り切れる微かな音、そして兵士たちの無機質な心臓の鼓動を、逃げ場のない爆音のノイズとして脳髄の奥底まで直接響かせたのだ。 それらすべてが鋭利な刃となって聴覚神経をズタズタに切り裂いていく。 スクワールは白目を剥き、首を掻きむしりながら痙攣(けいれん)した。


部隊長は痙攣するスクワールの腹を無造作に蹴り飛ばすと、感情の抜け落ちた声で吐き捨てた。 「合格だ。だが、所有物ならもう少しちゃんと躾けておけ。泣き声が耳障りだ」 怒りも憎しみもない、ただの「事務処理」。それが、弱者にとってどれほどの絶望であるか。ニューは血の滲むような思いで、ピクピクと痙攣する彼女を抱きしめることしかできなかった。


***


――現在軸。魔法都市ルパカトの宿屋の一室。


ニューは、ベッドの端で眠るスクワールのふさふさの尻尾を優しく撫でながら、静かに語り終えた。目の前で両親が惨殺されたこと、そして息もできない拘束具を無理やり嵌められたこと。 部屋は、凍りつくような静寂に包まれていた。昼間、酒場でスクワールが明るく『従属の輪』について語った際、フォグがそれを「非効率な差別による内部不和など、外敵を前に自ら背中を差し出す愚行でしかない」と切り捨てた言葉。それが、ニューの胸の奥に仕舞い込んでいた過去を吐き出させるきっかけとなったのだ。


「……ほんとだねぇ」


窓辺に寄りかかっていたキャラメルの声は、いつもの気だるさを纏ってはいたが、その奥に静かな怒りが滲んでいた。


「優れた形質を持つ生物学的な 塩基配列の多様性を否定し、痛覚と恐怖という生命の警告システムをただの『道具(ツール)』として悪用する。あはは……進化の袋小路(ふくろこうじ)に向かってフルスロットルな連中だねぇ」


キャラメルはゆっくりと歩み寄り、眠るスクワールの頭をぽんぽんと撫でた。


「この子の 大脳皮質や身体構造は、そんな無能な連中よりずっと美しいのにね。……ニューちゃん。君の行った 緊急避難(トリアージ)は、生物の生存戦略として極めて正しい判断だったよ。君がこの子を救ったんだ。胸を張りなよ」


「キャラメルさん……」


壁にもたれかかっていたフォグもまた、軍服の襟元をギリッと強く握りしめていた。


「……非効率だな」


その声は、地底から響くような底冷えのする冷徹さだった。


「効率的な労働力からあえて尊厳と身体機能を奪い、恒常的な苦痛と恐怖で縛るなど、 人的資源運用における最悪の欠陥構造だ。狂気にすら劣る、三流の愚行だな」


フォグの三白眼が、どす黒く(にご)り、爛々(らんらん)と輝き始める。だが、その怒りの矛先(ほこさき)はニューではなく、この異世界の理不尽な構造そのものに向けられていた。フォグは軍服の襟を正し、威圧感のある声で低く告げた。


「貴様のその自己犠牲の精神と、スクワールを保護する防衛線は評価に値する。これより、我が陣営はお前たちを『戦術的保護対象』と認定する」


フォグは悪魔のような笑みを張り付け、言い放つ。


「安心しろ、ブラウン・ニュー。今後、お前たちの平穏を脅かす不合理な敵性勢力が現れれば、この私が現代戦術という名の絶望を叩き込み、 神に祈る暇すら与えんさ」


「少年、それ『友達になったから守ってあげる』って言えば可愛いのになぁ」


「黙れ! 私は純粋に戦力保護の観点から言っているだけだ!」


赤面して怒るフォグを見て、ニューは涙を拭い、思わずクスリと笑みを零した。 理不尽な差別に塗れた異世界。しかし、科学と軍事という絶対的なロジックで世界を蹂躙するこの二人の前では、そんな下らない思想など、意味を成さないのだと確信できたから。

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