【番外編①】ボクとキャラメル
第漆話参照。
「……私の、不覚だ。未知のエネルギーコンバートにおける、予備の安全係数を誤るとは……」
視界がぼやける。フォグは重い瞼を押し上げた。
――妙だ。軍服の重量感がない。それに、右半身を覆う、この過剰に高密度で温かい『有機的質量』はなんだ。
首を動かすと、乱れた白衣の襟元と、豊満な双丘が視界を塞いだ。
キャラメルが、フォグの小さな身体を特大のクッションか何かのように両手足で強固にホールドし、自身の胸に顔を埋めさせていたのだ。
「なっ、なななな、な、何だこの不法占拠はぁぁぁっ!?」
「んぅ……分子間力の、結合エネルギーが……すー……」
暴れるフォグをよそに、キャラメルはだるそうな寝息を立てている。だが、その眉間には苦しげな皺が寄り、額には冷たい汗が浮いていた。
***
――夢の底。焦げた匂いがする。
『純血のバグだ』
『忌まわしい。あの出来損ないは奥の部屋から出すな』
襖の向こうから聞こえる、親族たちの冷たい声。
薄暗い部屋の中、ツンとした消毒用アルコールの匂い。布団の中で、細すぎる手がシーツを握りしめて小刻みに震えている。
『お姉、ちゃん……ハァ、ハァ……ごめん、ね……僕のせいで……』
『謝らないで』
彼女は、フラスコとビーカーが並ぶ机から振り返り、小さな口に手作りの褐色の結晶を含ませた。
『ほら、これを舐めて。還元糖と乳脂肪分の結晶。糖分は前頭葉の栄養だよ。すぐに楽になるから』
『……ん、甘い。お姉ちゃんのキャラメル、だーいすき』
キャラメルの包み紙を持つ、私より小さな手。
指に染み付いた試薬の匂いと、弟の口から漂う甘い匂い。
それだけが、狂った一族の中で生きる彼女の唯一の救いだった。
しかし――。
パチッ、パチパチッ。
赤々と燃え盛る炎。舞い上がる火の粉。熱風が頬を焼く。
『あ……あぁ……っ』
炎に包まれていく小さな身体。彼女は膝から崩れ落ち、ただその業火を見つめていた。
その時、強烈な異臭が鼻腔を突き刺した。
タンパク質――アミノ酸が焼け焦げる、酷い臭い。
それと混ざり合うように、弟が最期までポケットに握りしめていた「キャラメル」が熱でドロドロに溶け、焦げる甘ったるい匂い。
『ちがう……』
息ができない。心が、砕け散る。
前頭葉が、感情のシステムダウンを防ぐためにけたたましい警報を鳴らす。
『人が死んだんじゃない……! これはただの化学変化だ! アミノ酸と還元糖に熱が加わって生じる……メイラード反応が起きているだけだ! そうだ、そうなんだ……!』
炎の前で、彼女は両耳を塞ぎ、絶叫するように心の中で繰り返した。
***
『貴様……もしかしてだが「あの世界」から来た口か?』
見知らぬ森。重厚な外套を着た、軍事オタクの生意気な少年。
『あー……やっぱり。少年も転生者ってやつ? ボクの名前は、す……』
言いかけた瞬間。少年という存在を見たせいなのか鼻の奥に「あの時の甘焦げた匂い」がフラッシュバックした。
喉がひきつる。白衣のポケットの中で、手がガタガタと震える。
「――」
彼女は震える手をポケットの奥に隠し、極めて軽いノリを装って、目をキラキラと輝かせた。
『ねぇ少年、ボク憧れがあってね。せっかく異世界に来たんだから、和人みたいなダサい本名じゃなくて、かっこいいカタカナ系の名前にしたくてね。そうだなぁ……』
にっこりと、笑う。
『キャラメル・メイラード! ボクの名前はキャラメル・メイラード! どうだい、かっこかわいいだろ少年!』
***
「んぅ……少年を……隔離しないと……システムのエントロピーが……」
うわ言とともに、キャラメルの腕にさらに強い力がこもる。
「んぐふっ?! け、血流が……! キャラメル、覚醒しろ! この破廉恥な化学反応物質め、即座にこの包囲陣を解接しろ……ッ!!」
フォグの華奢な骨格。高い基礎代謝が生み出す温かな体温。
それは、かつて失われた弟とあまりにも似ていた。
「あ、それね。ベッドが一つしか空いてなくてね、お姉さん、気絶しながらも『少年を……隔離しないと、システムのエントロピーが……』ってうわ言を言いながら、お兄ちゃんを絶対に離さなかったんだよ!」
「引き離そうとしたのですが、すごい力で……」
ベッドの脇で、スクワールとニューが呑気に笑っている。
「ち、違う! 誤解だ! このような過度の熱移動を伴う肉体接触は、軍事的なパーソナルスペースに対する重大な領空侵犯であり、戦術的にも――ッ!」
「……いかないで」
「なっ……」
フォグの抗議が、ぴたりと止まる。
見上げれば、自分を胸に抱き込むキャラメルの目尻から、一筋の透明な雫が伝い落ちていた。
「ずっと……離さないからねぇ……」




