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ユレルサンカク  作者: 秋沢一文
八章(最終章)
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失われた時の相模原(5)

   ▽


 小田急線の伊勢原駅からバスに乗り、大山おおやまに向かった。


 バスは市街地を抜け、高速道路の下をくぐった。やがて民家が建ちならぶ細い坂道に入る。道幅は狭く、バスは前方から下ってくる車と進路を譲り合いながら、ゆっくりと坂を登っていった。


 終点の停留所でバスを降り、せせらぎの聴こえる川沿いの道を歩いた。老舗の旅館、豆腐料理の店、土産物屋が軒を連ねる参道へと進んでいく。


 コマの絵が埋め込まれた石段の参道は、古い観光地のような和やかな雰囲気だった。坂は意外と急で、息が切れそうになった。登りはじめた時には、肌に十二月の風の冷たさを感じたが、途中から汗をかいた。


 追分おいわけ駅から、急勾配(こうばい)の斜面をうように進むケーブルカーに乗る。しばらくすると、気圧の関係か、調子の悪い耳の奥に、時々軽い痛みを感じるようになった。


 途中の不動前駅で、下りのケーブルカーとすれ違い、さらに山の中腹にある下社しもしゃ駅まで登っていく。階段式のホームに降りて駅舎を出ると、崖の向こう側に深い森が広がっていた。濃い緑の匂いがした。


 阿夫利あふり神社の社殿に続く長い階段を中段まで登り、そこにあった手水舎ちょうずやで手と口を清めた。


 背後で、複数の人の話し声がしている。振り返ると、休憩所の前に登山用のアウターウェアを着込んだ一団がいて、談笑していた。


 痛みは治まったが、なお聴きとりづらい耳の中に、懐かしいような感触を覚えた。


 その中の一人の男に目が留まった。ストックとザックを傍らに置き、派手な色のアウターウェアを着ていた。髪はニット帽の中に隠れていたが、浅黒い顔と太い眉は、その人によく似ていた。


 このところは視界もぼやけがちで、目に自信がなかった。服装の違いもあり、その人であるという確証がもてないまま、男の姿をぼんやりと眺めていた。


 茫然ぼうぜんと送っていたこちらの視線に、男のほうが気づいた。


「あ、ヤマトじゃないか」


 名前を呼ばれたことで確信した。男は湘北予備校の英語講師・日向ひゅうがマゴヒコだった。


「ヒューガ先生……」


 日向がニット帽をとり、長い髪を軽く整えながら近づいてくる。


 十二月の山の上は、想像していた以上に風が冷たかった。そんな中で調子の悪い目を見開いていたせいか、両目からうっすら涙が出てきていた。


 日向が心配そうに顔を覗き込んで言った。


「お、おい、どうかしたのか?」


「すいません。このところ体調が良くなくて……。目も耳も、なんかおかしくて……」


 日向はこちらの異変に気づいたのか、軽く肩を叩くと、後ろの仲間たちに何か言い伝えて、階段下の茶屋まで連れて行ってくれた。


 茶屋の中はストーブがかれていて温かかった。


 コマ参道では坂道を歩いて汗をかいたが、ケーブルカーに乗っている間は動いていなかったため、反動で身体が冷えきってしまっていたようだった。


 日向ひゅうががアウターウェアの上着を脱ぎながら言った。


「ヤマト、腹減ってる? なんか食うか?」


「あの、すいません、食欲もないんです」


「そう。じゃ、とりあえず温かいものでも飲め」


 頼んだカフェオレを飲んで、ようやく身体が落ちついてきた。茶屋の中では小さなテレビが点いていて、男女の客がおでんや蕎麦そばを食べていた。


 マグカップを一度口に運んで、日向が言った。


大山おおやまへは、何し来たの? お参り?」


「あの、受験の時、知り合いから大山阿夫利(あふり)神社の合格御守をもらってたんです。もう何ヶ月も経っちゃいましたけど、それを納めに来ようと思って」


「お礼参りか。それは、いい心がけだな……」


 それまでずっと心配そうな表情を浮かべていた日向は、こちらの受け答えを聞いて、体調が安定してきたことが分かったのか、改めて尋ねてきた。


「で、ヤマト。身体の調子がおかしいってのは、なんかあったのか?」


 テレビの音声や、店員の元気な声が響いている山の茶屋には不釣り合いな話のようにも思えたが、予備校の担当講師として五星ごせい塔子を知る日向には、いまここで伝えておくべきことのような気がした。


「あの……、実は……」


 日向ひゅうがマゴヒコに、五星塔子が九月十一日のアメリカ同時多発テロに巻き込まれたこと、報道には出されなかったが塔子の実家で父親と話して彼女の死を確認したこと、それ以来ずっと体調を崩してしまっていることなどを話した。


 一度下を向き、静かに目を閉じた後、日向は口を開いた。


「知らなかった。五星さんが……。ご両親もさぞ辛かったことだろう……」


「実際、何もかける言葉はありませんでした……」


 遠くの席から、客の笑い声が聞こえた。少し酒でも入っているのか、ずいぶんと陽気な笑い声だった。


 九月十一日に塔子がいなくなった後の世界も、身近なところで、そんな風に時を刻んでいた。何事もないように、時は過ぎていた。


 日向は顔を上げて、今度はさとすような口調で言った。


「でも、ヤマト。そのお父さんの話だけどね……」


「……はい」


「オレは、君たちの浪人生としての一年間を、『迂回路うかいろ』だなんて思わないな。別に、自分が予備校講師をしているから言うわけじゃないけど。


 受験で浪人する一年だって、人生のうちの何十分の一かの貴重な時間だ。ましてや、君らのような若い人たちにとっては」


「……」


「もし仮に『迂回路』だとして、君らはそこで何もしないで、ただ突っ立っていたわけじゃない。歩かなきゃ前に進めないのは、まっすぐの道だって、まわり道だって同じだろ。


 人間、生きていれば、いろいろ失うこともあるけど、動きつづけていれば、失うばかりじゃなく、何か本当に大切なものだって見つけられるはずだ。


 たとえ本人が気づいてなくても、見つけているはずなんだ」


 日向ひゅうがマゴヒコの言葉は、強く胸の奥に響いた。


 五星ごせい塔子の死が目の前で確実なものとなった動揺の中で、彼女の父親から聞かされた「ウカイロ」という言葉に、これまで過度にとらわれすぎていたような気がした。


 レジで、一人の男性客が会計を済ませていた。同じグループの面々が、壁際に置いてあった重そうな登山用ザックを背負って、山の茶屋を出て行く。


「今日、ヤマトが大山おおやまに来たのは、いい選択だったと思う。大山は古代からの霊山だ。多くの人々が何らかの答えを求めてこの山に入り、修行を重ねた。


 いまも、オレたちのような登山者をきつける。この山の空気をいっぱい吸って、吐いて、身体の中身を循環させろ。


 いまの君は、確かに心身ともに傷ついてしまっているかもしれない。でも、心の動きは、完全に止まってはいない。ゆっくりでも、一つずつでもいいから、身体の感覚を取り戻していけ」


 重苦しかった胸の空洞に、微かな明かりが灯されていく。


 日向の言葉は、壊れかかっていた内面に、優しく染み込んでいくようだった。

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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉

秋沢一氏あきさわ・ひとし /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/

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