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ユレルサンカク  作者: 秋沢一文
八章(最終章)
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失われた時の相模原(1)

【二〇〇一年 十月 失われた時の相模原】


 そこは、いちばん近く、いちばん遠いアメリカだった。


 JR横浜線の車窓から、在日米軍相模総合(さがみそうごう)補給廠(ほきゅうしょう)の西門が見えた。九月十一日のアメリカ同時多発テロ以降、補給廠内の様子は明らかに変わっていた。


 ゲートの脇には、それまでなかった土嚢どのうが何重にも積み上げられ、機銃をもった兵士が立っていた。以前は、小屋の中に日本人の職員が一人座っているだけだった。兵士は横切る電車をサングラス越しの視線で追っていた。


 テレビで、ニューヨークの世界貿易センタービルに二機の航空機が激突する映像を見た直後、頭に浮かんだのは五星ごせい塔子のことだった。同時多発テロが起きたアメリカは、八月に塔子が旅立っていった場所だったからだ。


 塔子の身を案じて、封を開けぬまま机の奥にしまい込んでいた塔子の手紙を開こうと何度も考えた。そこには彼女のメールアドレスが書かれているはずだった。しかし、迷った末に、その封書を開くことはしなかった。


(事件を口実に連絡を取ろうとしているようで未練がましい……。)


 そんな想いが、封を開くことをためらわせていた。


 アメリカ国内の混乱は連日ニュースでも伝えられていた。電話やインターネットなどの通信網が復旧しているのかどうかも、定かではなかった。


 こちらからメールを送り、もしも返事がなければ、それで余計に心配が増幅ぞうふくしてしまうようにも思えた。


 いつか耳にした、伊勢物語の歌を思い出していた。去年の春、塔子と初めて机を並べて受けた古文の講義で、講師のイワシロが解説してくれた歌だった。


(『名にしはば いざ言問こととわむ都鳥みやこどり わが思う人はありやなしやと』)


 あの時イワシロは、「都という名前を負っているならば、さあ尋ねよう都鳥よ。私の想う人は生きているのかいないのかと」と訳していた。


 当時は実感を伴って理解することのできなかった、その歌に込められた想いが、身にしみて分かるような気がしていた。


 しばらくの間、家に届けられる新聞に注意して目を通していた。


 事件直後の混沌とした状況から、日を追うごとに、被害の実態は詳細に報じられるようになっていった。行方不明者や死亡が確認された日本人の中に、五星ごせい塔子の名前は見当たらなかった。


 アメリカ国内で連絡が取れない日本人の数は、事件一週間後の百人単位から、下旬には数十人単位になっていった。


 そして月が変わり、十月に入る頃には、新聞から日本人の犠牲者や行方不明者に関する記事は減り、テロへの報復戦争に向かう国内外の情勢や議論が紙面を埋めつくすようになった。




 大学では後期の講義が始まっていた。


 語学の講義を受けた後、一人でキャンパスを出て、御茶ノ水周辺を歩いた。


 楽器屋が連なる通りから駅の傍らを過ぎ、神田川の北側に抜ける。湯島聖堂、神田明神をめぐり、聖橋ひじりばしを渡って南側に戻った。ニコライ堂を過ぎた交差点を右に曲がり、病院や大学が建ちならぶ路地を抜けて大通りの交差点に出た。


 信号は赤だった。左前方に目をやると、英治えいじ大学のタワー型の校舎が見えた。正面の入口から学生や教員が出入りしている。


 その横の半円形のラウンジでは、たくさんの学生たちがテーブルを囲んで談笑していた。


(そろそろ、日常に戻らなくては……。)


 仲間たちの姿を眺めながら、そんな想いが頭をよぎっていた。


 交差点の向こうには、急勾配(こうばい)の坂が見える。左手の緩やかな坂を下った先には神保町の古書店街があった。


 角の楽器屋の店内から、エレキギターの音が漏れ聴こえている。クリアな音色だった。誰かが試奏で、軽快なカッティング音を鳴らしているようだった。


 外国で大規模なテロ事件が起きた後も、身近なところの生活に、特に大きな変化はなかった。


 東京の都心にも、多摩川を渡る風にも、郊外の街にも、それまでと変わらない時間が淡々と流れているように感じられた。


 御茶ノ水から相模原の家に帰ると、二世帯住宅の一階に住む祖母が、庭の植木の手入れをしていた。


「あれ、おかえり。早いね」


「うん。今日は、バイト入ってないんだ」


 祖母にそう答えた時、庭の生垣の隙間から、一匹の黒ブチの猫が姿を見せた。警戒心の強い猫のようだった。


 黒ブチは、一度こちらに鋭く目をやっただけで、まるで人を怖がるように、すぐに走り去っていった。


「おばあちゃん。タマ、あれから見てない?」


「ああ、いつの間にか、いなくなっちゃったね。こないだの台風の前くらいまでは、このあたりでよく見かけたんだけどね」


 家に居ついていた野良のら猫のタマが、もうひと月も姿を見せていなかった。


「どこに行ったんだろう?」


「あのタマのことだから、そのうち、ひょっこり帰ってくるかもしれないね」


 祖母はそう言って笑った。


 人(なつ)こいタマの温かい身体や、オヤツのニボシをせがんで頬を擦りつけてきた可愛らしい仕草を思い出していた。

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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉

秋沢一氏あきさわ・ひとし /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/

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