夏のなごりの東京(2)
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九月の第三週の火曜日、菊原美月が町田のアパートを出て、草津へ帰る日になった。
ここ数日、台風の影響で、関東地方は強い雨と風にさらされていた。今日も午前中までは荒れた天候だったが、午後には落ちついてきていた。
部屋の退去手続きを済ませてきた美月と町田のカフェで待ち合わせた。美月は白いシャツの上にゆったりとしたグレーのカーディガンを羽織っていた。
「手続きは全部済ませてきたよ。これで、お気に入りだった、あの部屋ともお別れ。あとは草津に帰るだけになっちゃった。ヤマトくん、今日はありがとね」
「天気も、電車が大丈夫かなって心配してたんだけど。雨も弱くなって、だいぶ収まってきたみたいだ」
カフェの窓から見える濃い雲の空を見上げた。まだ小粒の雨がパラパラとしている。
「こないだ、町田天満宮に行って、前にヤマトくんからもらったお守りを納めてきたの。就職、無事に決まったから。お守りは、願いがかなったら、お礼参りをして返すのがいいんだって」
「そうなんだ」
雨の影響もあるのか、カフェの店内は人が少なかった。空気の中に溶け出したコーヒーの香りが、いつもより濃く感じられた。美月に訊いた。
「電車は、どっちから? 上野? 東京?」
「上野。特急を使って帰るから。でも、上野までは送ってくれなくていいよ。ここに来てくれただけで、もう十分だから」
美月は伏し目がちにそう答えた。
(『私がこの街を出る最後の日、見送ってくれないかな? そしたら、ヤマトくんのこと、ずっと好きでいたこと、きれいな想い出にできると思うから』)
笑顔でむこうを向き、涙を見せないようにして泣いていた美月の小さな背中が思い出された。
五星塔子に心を奪われている間、ずっと待ちつづけてくれていた美月のことがとても不憫に思えた。せめて最後くらいは、彼女の望むような見送り方をしてあげたかった。
「いや、上野まで送るから。今日は、ちゃんと送らせてほしいんだ」
「うん。嬉しいな。ありがとう」
二人で町田から小田急線の上り電車に乗った。東京を南から北へ進み、いくつかの路線を乗り継いで、山手線の円を西から東へ横断するように移動した。
電車の中でも、上野に着いてからも、帰郷する美月のために、先月の塔子との別れ以来沈みきってしまっている心に鞭を打ち、努めて明るくふるまった。
上野で軽い食事をとり、雨が上がったばかりの街なかを二人で散歩した。老舗の商店街を眺め、公園内を歩いた。その後、同じ道を通って駅に戻った。
美月を見送るため、草津行きの特急電車が停車するホームに立った。
列車に乗り込む直前、美月が言った。
「今日は、本当にありがとう。短い時間だったけど、ヤマトくんと一緒に歩けて、いい想い出になったよ。嬉しかった。本当にありがとう」
美月自身の口から「想い出」という言葉が出てきて、それまで努めて明るくふるまおうとしていた緊張が途切れた。心がざわついた。
その「想い出」という言葉によって突きつけられたのは、菊原美月という一生忘れられないはずの女性が、目の前からいなくなってしまうという現実だった。
頭の中が真っ白になり、次の言葉を、つなぐことができなかった。
「……」
「たまにメールしてもいいかな?」
美月が不安そうな目で訊いてきた。
「も、もちろん」
「迷惑じゃない?」
「そんな。迷惑だなんて」
「草津に遊びにくる時は言ってね。温泉はもちろんだけど、冬はスキーやスノボもできるし。ご飯の美味しいお店もいっぱい知ってるから」
「ああ」
「それに、美味しいお饅頭屋さんも」
「うん」
「じゃ、私、行くから」
そう言うと美月は、意を決したように自ら離れていった。乗降口の前で、笑顔で一度だけ手を振り、そのまま列車の中に消えていった。
程なく発車のベルが鳴り、列車は上野駅のホームを出ていった。
(美月さん。どこにも行くなよ。もう、どこにも行かないでくれ。)
美月が欲しがっていた、欲しがっていたはずの言葉を、心の中でつぶやいた。
美月とは別れの握手をしなかった。もし別れの握手をして、もう一度、美月の肌に触れていたなら、その言葉を彼女に言ってあげられたような気がした。
美月を上野駅のホームで見送った後、二人で乗り継いでやって来た道のりを、たった一人で引き返した。
雨に濡れた夜の東京は、いつもより人通りが少なかった。路面の水気をはじく車の音ばかりが目立っていた。
五星塔子はアメリカへ旅立ち、菊原美月は故郷の草津へ帰っていった。気がつけば、東京という街に、一人取り残されていた。
新宿から乗った小田急線の下り急行電車が、やがて町田駅に着いた。
この街で二人の女性と出会い、ともに時間を過ごし、ようやくつかみかけていたこと。手を伸ばし、ずっと探し求めていたはずの居場所の感触。
手のひらの中に捉えかけていたはずだった、そんな感触が、その年、その夏、いっぺんに目の前から消えていった。
当たり前だと思っていたこと。ずっと信じていたこと。正しいと思っていたこと。それらの全てが、崩れ去った。
その日、上野から相模原の家に戻ったのは午後十時過ぎだった。
居間のテレビの画面には、美しい青空の中に二つ並んで伸びた高層タワーへ、その高層タワーとほとんど同じ幅の両翼をもった航空機がまっすぐ突っ込んでいき、
やがて二つの高層タワーからキノコ雲のような濃い黒煙が吹き上がるまでの映像が、繰り返し流されていた。
まぶしいほどに美しい青空が、映画のように刺激的な光景とともに目に焼きついた。
最新のニュース速報が、国防総省ペンタゴンも炎上しているようだと伝えた。
七章「夏のなごりの東京」篇は、ここまで。物語は、いよいよ最終章へ、進んでいきます。「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




