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ユレルサンカク  作者: 秋沢一文
六章
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めぐる季節の相模原(2)

「……」


「オレ、五星ごせいさんのこと好きだから、ずっと好きだったから、はっきり言うよ。今からでも遅くはない。アメリカにいる彼氏とは別れて、日本に残ってくれ。彼氏の代わりでもなんでもいい。オレが、五星さんのそばにいるから。だから、この日本に残ってくれ……」


「それは……、それは……、無理なんだ」


「どうして?」


「彼についてアメリカに行くって決めたのは、私自身だから」


 塔子は、自分に言い聞かせるような口調で言った。


「……後悔しても?」


「そう。たとえ後悔したとしても、たとえそれが間違っていたとしても、私は自分の信じた道を行きたいの。自分の選んだ道を信じたいの。それが、私の、私なりの生き方だから」


立智りっち大はどうするんだ? 浪人までして、苦労して入った大学なのに……」


「最初は一年か二年、立智大学で勉強して、それから大学のプログラムで留学することも考えた。でも私は元々、大学で英語を勉強したいと思ってたから。


 アメリカで生の英語を勉強できるなら、日本の大学で勉強する以上だから。それで、入学したばかりだったけど、アメリカに行く決断をしたの。だから立智大を辞めても、後悔はないの」


 塔子の迷いのない声に負け、一度視線をそらした。


 中央公園の外周に沿ったカーブの車道を、バイクのエンジン音が走りすぎる。尾を引くように伸びた音が、遠くへ消えていった。言葉が途切れた。


 隣に座る塔子に視線を戻した。植え込みの木々の濃い緑を背景にしたベンチに、ずっと憧れていた黒髪の塔子が座って、こちらをまっすぐに見ていた。


 それ以上、何も言葉をつなぐことができなかった。


「これ……」


 塔子が脇に置いたストローバッグの中から、一通の封書を取り出し、目の前に差し出して言った。


「この中に、向こうに行ってからも使うメールアドレスと、もしこのアドレスが使えなくなった場合でも、必ず連絡が取れる連絡先を書いておいたから。


 今までひどいことをしてきた私に、こうして会ってくれたヤマトくんの気持ちは、大切にしたいの。私は、もう逃げたり、隠れたりしないから……」


 受験の結果が出た頃から、何度もメールアドレスを変え、逃げまわるようにしていた塔子が、自ら連絡先を教えてきたことの意味は、重く、痛かった。


 その封書を受け取るため、手を差し出すことはためらわれた。受け取った瞬間、何かが決定的に終わってしまうように感じられたからだ。


「あ、あの……」言えたのは、そこまでだった。


 塔子が銀の指輪をした左手を伸ばしてくる。そのままこちらの手をとり、右手にもった封書を手の中にねじ込んでいった。


 瞬間的に触れた塔子の手のひらの感触はすぐに消え、手の中に、その一通の封書だけが残った。彼女は相変わらず、冷たい指先をしていた。




 中央公園を出た。駅前の商店街を通り抜けて、塔子と相模大野駅まで歩いた。


 地階のホームに電車が滑り込んでくる音が、案内放送の機械的な音声や、ピザを売る若い女性店員の甲高かんだかい声と混じって、駅の構内に響いていた。


 塔子が改札の前で立ち止まった。塔子に言った。


「ちょっと散歩しながら帰るよ。少し歩きたいんだ」


「出発する前の日に、電話するね。最後に、ちゃんと挨拶をしたいから」


 握手をした。予備校での最後の講義の日を思い出した。塔子は改札を通り、ホームに続く下り階段の方へと進んでいった。


 そして名残を惜しむように手を振りながら、やがてまだら模様の人波の中に混じって消えていった。


 途中から、もう五星ごせい塔子の姿は、はっきり見えなくなっていた。


 塔子の姿だけではなく、構内の電光掲示板も、時計も、自動改札も、歩いてくる人影も、全てのものにもやがかかって見えていた。


 改札を離れ、駅ビルを出た。塔子と駅前で待ち合わせた時、まだ外は明るかった。今はすっかり日が落ちて、相模大野の街は暗がりの中に沈んでいた。


 塔子と歩いた道をたどった。人影の少なくなったコリドー通りを進み、エスカレーターを上る。「季節の橋」のプレートが目に入った。


 塔子と一緒に過ごした日々の情景が、頭の中で延々とめぐった。身体の奥のほうから、熱いものが込み上げてくるのを感じていた。


   ▽


 一週間後、五星塔子がアメリカへ旅立つ日の前日になった。


 昼間に塔子から「準備が整った頃、夜に電話します」というメールがあった。


 相模大野の街で再会し、ほんの短い時間をともにしてから一週間、傍らに塔子がいた四つの季節と、塔子を探しつづけた二つの季節の記憶が、いつも頭の中をめぐっていた。


 ふいに耳にした歌の歌詞や、偶然目に留まったポスターの文字、アカアオボシを連想させるようなアコースティック・ギターの音色、街ですれ違った女性の塔子に似た香り、そんなものをきっかけにして涙が込み上げてきた。


 夜になると、一人で近所の淵野辺公園まで行き、円形の相模原球場の外周の砂利道を歩きながら涙を流した。園内は街灯もまばらで薄暗かった。


 最後の夜も、淵野辺公園に行き、ひばり球場のバックネット裏のベンチに座って、塔子から電話がかかってくるのを待った。


 園内のジョギングコースを走る人の姿もほとんど見かけなくなった頃、携帯が鳴った。画面に塔子の携帯の番号が表示されていた。


 静かに電話に出た。


「もしもし。準備はもう済んだの?」


「うん。もうほとんど」


「今日が最後の電話か……。本当に行っちゃうんだね」


「この携帯も、明日空港に行く前に解約しちゃうから……」


 涙が出そうになる。一呼吸あけ、息を整えてから続けた。


「寂しいな。ラジオの最終回みたいだ。オレ、ラジオ番組の最終回って嫌いなんだ。


 ラジオって声だけだからさ、番組が最終回で終わると、ついさっきまで近くでしゃべってくれてた人が、急に目の前からいなくなるような気がするから。


 寂しすぎるから、ラジオの最終回って嫌いなんだ」


「キャンパス・ラインの、私が出た最後の回も、そんな風にして聴いてたの?」


「あの時は泣いたよ。バイト中だったけど、ヘッドホンしながら、オフィスの机の上で泣いてたよ」


「そんな風に、大切に想って、番組を聴いてくれてた人がいたんだね……」


 塔子がしんみりとした口調で言った。


「いまも話してて、この電話が切れたら……、切れたら……、まるで五星ごせいさんがオレの目の前からいなくなって、この世から消えてしまうような気がして怖いよ……」


「うん」塔子が涙まじりの声でうなずいた。


「オレは、もっと早く、君を見つけたかった……。アメリカにいる彼なんかよりも早く……、ずっと早く、君を見つけたかった……」


 涙が出て声が震えた。


「オレが悪いんだ。見つけられなかったオレが……。もっと早くに君を見つけられてたら、こんな想いをしなくても、済んだかもしれない……」


「うん」


「だから……。だから……」


「うん……。でも、もう、困らせないで……」


 何も言葉をつなげられず、電話越しにお互いの気配だけが感じられていた。長く重い沈黙が訪れた。その空白の重みに耐えられず、作り笑いで言った。


「ごめん。こんな調子じゃ、電話、いつまでも切れなくなっちゃうよね。もう十分話せたから。ありがとう。向こうに行っても元気で。気候が違うから身体を壊さないように」


「ヤマトくん、ありがとう」


「ああ」


「ありがとう」


「ああ。じゃあ」


 電話の向こうから塔子の声が聴こえ、彼女の息づかいを感じている限りは、その電話を切ることができそうになかった。


 名残惜しさを振り切るように、携帯を耳から離した。彼女の声が聴こえなくなり、目の前にあった五星ごせい塔子の姿が消えた。ラジオの最終回と同じように、目の前から消えていった。


 そして比べもののない寂しさが胸を埋めつくした。涙があふれ、その寂しさが夜の公園の闇の中に広がっていった。


 バックネットをふさぎ、球場の芝生をひたした。砂利の道に深く染み込み、街灯のオレンジ色と林の緑を包んで、やがて全てのものを飲み込んでいく。


 それは、広大な闇の中で、たった一人で受け止めなければならない寂しさだった。




 五星塔子は、アメリカへ旅立っていった。

六章「めぐる季節の相模原」篇は、ここまで。ストーリーは、いよいよ終盤へ差しかかります。「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)


〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉

秋沢一氏あきさわ・ひとし /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/

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