めぐる季節の相模原(2)
「……」
「オレ、五星さんのこと好きだから、ずっと好きだったから、はっきり言うよ。今からでも遅くはない。アメリカにいる彼氏とは別れて、日本に残ってくれ。彼氏の代わりでもなんでもいい。オレが、五星さんのそばにいるから。だから、この日本に残ってくれ……」
「それは……、それは……、無理なんだ」
「どうして?」
「彼についてアメリカに行くって決めたのは、私自身だから」
塔子は、自分に言い聞かせるような口調で言った。
「……後悔しても?」
「そう。たとえ後悔したとしても、たとえそれが間違っていたとしても、私は自分の信じた道を行きたいの。自分の選んだ道を信じたいの。それが、私の、私なりの生き方だから」
「立智大はどうするんだ? 浪人までして、苦労して入った大学なのに……」
「最初は一年か二年、立智大学で勉強して、それから大学のプログラムで留学することも考えた。でも私は元々、大学で英語を勉強したいと思ってたから。
アメリカで生の英語を勉強できるなら、日本の大学で勉強する以上だから。それで、入学したばかりだったけど、アメリカに行く決断をしたの。だから立智大を辞めても、後悔はないの」
塔子の迷いのない声に負け、一度視線をそらした。
中央公園の外周に沿ったカーブの車道を、バイクのエンジン音が走りすぎる。尾を引くように伸びた音が、遠くへ消えていった。言葉が途切れた。
隣に座る塔子に視線を戻した。植え込みの木々の濃い緑を背景にしたベンチに、ずっと憧れていた黒髪の塔子が座って、こちらをまっすぐに見ていた。
それ以上、何も言葉をつなぐことができなかった。
「これ……」
塔子が脇に置いたストローバッグの中から、一通の封書を取り出し、目の前に差し出して言った。
「この中に、向こうに行ってからも使うメールアドレスと、もしこのアドレスが使えなくなった場合でも、必ず連絡が取れる連絡先を書いておいたから。
今までひどいことをしてきた私に、こうして会ってくれたヤマトくんの気持ちは、大切にしたいの。私は、もう逃げたり、隠れたりしないから……」
受験の結果が出た頃から、何度もメールアドレスを変え、逃げまわるようにしていた塔子が、自ら連絡先を教えてきたことの意味は、重く、痛かった。
その封書を受け取るため、手を差し出すことはためらわれた。受け取った瞬間、何かが決定的に終わってしまうように感じられたからだ。
「あ、あの……」言えたのは、そこまでだった。
塔子が銀の指輪をした左手を伸ばしてくる。そのままこちらの手をとり、右手にもった封書を手の中にねじ込んでいった。
瞬間的に触れた塔子の手のひらの感触はすぐに消え、手の中に、その一通の封書だけが残った。彼女は相変わらず、冷たい指先をしていた。
中央公園を出た。駅前の商店街を通り抜けて、塔子と相模大野駅まで歩いた。
地階のホームに電車が滑り込んでくる音が、案内放送の機械的な音声や、ピザを売る若い女性店員の甲高い声と混じって、駅の構内に響いていた。
塔子が改札の前で立ち止まった。塔子に言った。
「ちょっと散歩しながら帰るよ。少し歩きたいんだ」
「出発する前の日に、電話するね。最後に、ちゃんと挨拶をしたいから」
握手をした。予備校での最後の講義の日を思い出した。塔子は改札を通り、ホームに続く下り階段の方へと進んでいった。
そして名残を惜しむように手を振りながら、やがてまだら模様の人波の中に混じって消えていった。
途中から、もう五星塔子の姿は、はっきり見えなくなっていた。
塔子の姿だけではなく、構内の電光掲示板も、時計も、自動改札も、歩いてくる人影も、全てのものに靄がかかって見えていた。
改札を離れ、駅ビルを出た。塔子と駅前で待ち合わせた時、まだ外は明るかった。今はすっかり日が落ちて、相模大野の街は暗がりの中に沈んでいた。
塔子と歩いた道をたどった。人影の少なくなったコリドー通りを進み、エスカレーターを上る。「季節の橋」のプレートが目に入った。
塔子と一緒に過ごした日々の情景が、頭の中で延々とめぐった。身体の奥のほうから、熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
▽
一週間後、五星塔子がアメリカへ旅立つ日の前日になった。
昼間に塔子から「準備が整った頃、夜に電話します」というメールがあった。
相模大野の街で再会し、ほんの短い時間をともにしてから一週間、傍らに塔子がいた四つの季節と、塔子を探しつづけた二つの季節の記憶が、いつも頭の中をめぐっていた。
ふいに耳にした歌の歌詞や、偶然目に留まったポスターの文字、アカアオボシを連想させるようなアコースティック・ギターの音色、街ですれ違った女性の塔子に似た香り、そんなものをきっかけにして涙が込み上げてきた。
夜になると、一人で近所の淵野辺公園まで行き、円形の相模原球場の外周の砂利道を歩きながら涙を流した。園内は街灯もまばらで薄暗かった。
最後の夜も、淵野辺公園に行き、ひばり球場のバックネット裏のベンチに座って、塔子から電話がかかってくるのを待った。
園内のジョギングコースを走る人の姿もほとんど見かけなくなった頃、携帯が鳴った。画面に塔子の携帯の番号が表示されていた。
静かに電話に出た。
「もしもし。準備はもう済んだの?」
「うん。もうほとんど」
「今日が最後の電話か……。本当に行っちゃうんだね」
「この携帯も、明日空港に行く前に解約しちゃうから……」
涙が出そうになる。一呼吸あけ、息を整えてから続けた。
「寂しいな。ラジオの最終回みたいだ。オレ、ラジオ番組の最終回って嫌いなんだ。
ラジオって声だけだからさ、番組が最終回で終わると、ついさっきまで近くでしゃべってくれてた人が、急に目の前からいなくなるような気がするから。
寂しすぎるから、ラジオの最終回って嫌いなんだ」
「キャンパス・ラインの、私が出た最後の回も、そんな風にして聴いてたの?」
「あの時は泣いたよ。バイト中だったけど、ヘッドホンしながら、オフィスの机の上で泣いてたよ」
「そんな風に、大切に想って、番組を聴いてくれてた人がいたんだね……」
塔子がしんみりとした口調で言った。
「いまも話してて、この電話が切れたら……、切れたら……、まるで五星さんがオレの目の前からいなくなって、この世から消えてしまうような気がして怖いよ……」
「うん」塔子が涙まじりの声でうなずいた。
「オレは、もっと早く、君を見つけたかった……。アメリカにいる彼なんかよりも早く……、ずっと早く、君を見つけたかった……」
涙が出て声が震えた。
「オレが悪いんだ。見つけられなかったオレが……。もっと早くに君を見つけられてたら、こんな想いをしなくても、済んだかもしれない……」
「うん」
「だから……。だから……」
「うん……。でも、もう、困らせないで……」
何も言葉をつなげられず、電話越しにお互いの気配だけが感じられていた。長く重い沈黙が訪れた。その空白の重みに耐えられず、作り笑いで言った。
「ごめん。こんな調子じゃ、電話、いつまでも切れなくなっちゃうよね。もう十分話せたから。ありがとう。向こうに行っても元気で。気候が違うから身体を壊さないように」
「ヤマトくん、ありがとう」
「ああ」
「ありがとう」
「ああ。じゃあ」
電話の向こうから塔子の声が聴こえ、彼女の息づかいを感じている限りは、その電話を切ることができそうになかった。
名残惜しさを振り切るように、携帯を耳から離した。彼女の声が聴こえなくなり、目の前にあった五星塔子の姿が消えた。ラジオの最終回と同じように、目の前から消えていった。
そして比べもののない寂しさが胸を埋めつくした。涙があふれ、その寂しさが夜の公園の闇の中に広がっていった。
バックネットをふさぎ、球場の芝生を浸した。砂利の道に深く染み込み、街灯のオレンジ色と林の緑を包んで、やがて全てのものを飲み込んでいく。
それは、広大な闇の中で、たった一人で受け止めなければならない寂しさだった。
五星塔子は、アメリカへ旅立っていった。
六章「めぐる季節の相模原」篇は、ここまで。ストーリーは、いよいよ終盤へ差しかかります。「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




