めぐる季節の相模原(1)
【二〇〇一年 八月 めぐる季節の相模原】
水面で、真夏の空気が揺れていた。
小田急線の電車が境川をまたぐ。高架から見下ろす水は澄んでいた。八月も中旬に入った。今日は、相模大野の駅前で五星塔子と待ち合わせていた。
町田駅を発った電車は、ゆったりとした速度のまま、相模大野駅に着く。ホームに降り、改札を出たところで塔子から電話がかかってきた。歩きながら、その電話に出た。
「もしもし。もう着いた?」
「ヤマトくん、どこにいるの?」
「どこにいる? 何が見える?」
「いまケーキ屋さんの前」
「あ、その店は分かるよ。いま行くから。そこで待ってて」
改札の前の人波をよけて歩いた。駅ビルを出てすぐ右側にある洋菓子店の前に、五星塔子が立っていた。きれいな黒髪の横顔が覗いていた。
新横浜での別れ以来、久しぶりに見る塔子の姿だった。塔子は駅の方から来るとは思っていないらしく、まるで見当違いな方向に目をやっていた。
後ろから声をかけると、塔子は驚いたように振り返った。塔子は黒のカットソーを着て、手に小さなストローバッグをもっていた。バッグの紐の部分を握る、彼女の細い指先に一瞬見とれた。
「今日は先に見つけてやろうと思ってたんだけど。まさか、後ろから来るとは思わなかった。ヤマトくんには、いつも先に見つけられちゃうな」
「五星さんがどこにいたって、オレは見つけるよ。こっちじゃ電波の入らない沼津のFMラジオでしゃべってたって、こうして見つけたくらいなんだから」
塔子が笑った。目の前で彼女の笑顔を見るのも、久しぶりだった。
二階デッキからエスカレーターを降りて、賑やかなコリドー通りをまっすぐ進んだ。通りに出る手前で、再びエスカレーターを二階に上った。デッキの縁に「季節の橋」というプレートが埋め込まれているのが見えた。
デッキを渡り、デパートの中を通り抜けると、グリーンホールが見えてきた。もう客の入場が始まっているらしく、出入口に行列ができていた。
二人分のチケットを係員に渡してロビーに入った。ロビーでは、揃いのTシャツを着たスタッフがアカアオボシのCDを売っている。
大ホールに入り、チケットに印字された番号の席を探した。二つ並んだ席の右の方に塔子が座った。
席に着くと、右側の塔子が静かな口調で言った。
「今日は、来てくれないんじゃないかと思ってた」
「え?」
「相模大野の駅で待ってた時も、ヤマトくん、怒って来てくれないんじゃないかと思ってた」
「どうして? だってオレの方から一緒にライブに行こうって誘ったんだよ」
「うん。でも、なんとなくそんな気がして」
塔子がそう感じるのは、自分がした行いに罪悪感をもっているからだろう。
しかし、もし彼女がそんなつまらない罪悪感を胸に抱いたまま、ここに座っているのなら、それを少しでも取り除いてあげたかった。塔子に言った。
「久しぶりに五星さんに会えるのに、オレがそんなことするわけないさ。念願だったライブに、ようやく一緒に行けるっていうのに……」
「……」
「だって、そうでしょ。五星さんを好きで、ずっと一緒にいたいって思ってるのは、オレの方だよ」
「……」
塔子が黙った。先日の電話での話をぶり返してしまいそうだった。
せっかくのアカアオボシのライブを台無しにしたくなかったので、今日は込み入った話をするつもりはなかった。ステージ上では、薄明かりの中でスタッフがギターのセッティングをしている。
「あ、オレ……、オシッコしたくなっちゃった」
わざとバカらしい口調で言って席を立った。本当はトイレになど行きたくはなかった。
ロビーに出て、ざわついた心を落ちつかせようと何度か深呼吸を繰り返した。壁に貼られたイベントの告知ポスターやフライヤーを眺め、適当に時間をつぶしてから大ホールの席に戻った。
塔子の左側に座った時、すぐに気づいた。彼女がひじかけの上に載せている左手の指先に、自然と目が留まった。塔子は、左手の薬指に銀の指輪をはめていた。左手の薬指にする指輪の意味くらいは、さすがに知っていた。
しかし、ロビーに出て一度は落ちつきかけていた心を執拗にかき乱したのは、指輪それ自体ではなかった。さっき相模大野の駅前で待ち合わせた時、小さなストローバッグの紐を握っていた塔子の指先には、指輪などなかったのだ。
(『五星さんを好きで、ずっと一緒にいたいって思ってるのは、オレの方だよ』)
塔子がにじませた罪悪感を取り除いてあげようと懸命に言葉を探し、思わずこぼれてしまった本音に、彼女は左手の薬指に指輪をすることで答えていた。
ロビーに出ている短い間に、自分の左側に座る男から最も見えやすい左手に、塔子は指輪をしたのだ。彼女が無言で何かを語ろうとしているのが分かったが、何も気づかないふりをしてやり過ごした。
ギターデュオ・アカアオボシのライブが始まった。二人のギタリストの巧みな掛け合いに酔いしれる。
甘くせつないバラードや胸を締めつけるようなハーモニーもあって、それらは、こうしている間にも、塔子と過ごせる時間が刻一刻と少なくなっていくせつなさと重なった。
アンコールの最後の一曲まで、アカアオボシのライブを堪能した。
グリーンホールを出た後、ホールの建物の前に広がる中央公園のベンチに塔子と二人で座った。
丘の上に立つドーム型のあずま屋と、緑の芝生、所々に植えられた松の木が、ブドウの房のような形をした街灯に照らされている。
当たり障りのないことから話そうと、塔子に、沼津のベイサイドFMのDJをやるようになった経緯を尋ねた。
「大学への入学とほとんど同時にアメリカに行く決断をしたから、日本にいる間に、前から興味があったラジオのDJを経験してみたいと思って。高校の時の放送部の顧問に電話で相談したら……」
「あ、あの。『NG集』を作るのが好きな先生?」
「そう。先生に相談したら、地元のベイサイドFMなら顔がきくから紹介できるって言われて。それで、プロデューサーのヒゴさんを紹介してもらったの」
城の石垣のような噴水から、岩肌を伝って池に水が流れ落ちている。真夏の夜の空気の中に、柔らかな水音が広がっていた。
「アメリカには、どれくらいの期間、行く予定なの?」
「二年か三年か、まだよく分からないけど。もしかしたら、彼や私が向こうで就職してしまうかもしれないから。そしたら、ずっと向こうで暮らしていくことになるのかも。日本に戻るかもしれないし、まだ何も決まってないよ」
(ずっと会えなくなる……。もう二度と会えないかもしれない……。)
塔子と一緒にライブを観て、こうして隣に座っていられる時間が、仮のものであるという現実を改めて意識する。
救いようのないせつなさで、気持ちがたかぶった。今日のライブを哀しいものにしたくないという一心で抑えていた、塔子をなんとかして日本に留まらせたいという想いが息を吹き返してくる。
「オレは、去年の春に、予備校で初めて五星さんを見つけた時から、ずっと五星さんのことが気になってた。浪人生だったから、それを抑えつけようとしていたけど……。ずっと好きだった。
だから、『一緒に立智大に行こう』って言われて本当に嬉しかった。オレが想ってるだけじゃなくて、五星さんの気持ちもオレのほうに向いてるって、そう思えたから……」
「私は、それを……、ヤマトくんのその想いを……、もてあそんだの」
五星塔子は自分を責めていた。もうこれ以上、沸き立ってくる想いを抑えられなかった。
「会ったこともない相手のことを悪く言うのはフェアじゃないかもしれないけど、
そのアメリカの彼が本当に五星さんのことを考えていたなら、アメリカに行く前に『一緒にアメリカで暮らそう』って言うべきだったんじゃないのか?
五星さんは、そいつと一緒に東京の大学に通うために、高校生の頃からずっと勉強してたんだろ? 苦しい受験を戦っていたんだろ?
なら、そいつは、五星さんの気持ちなんて、まるで分かってないじゃないか。そんなやつのところに、君を行かせられないよ」
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




