新しい季節の東京(1)
【二〇〇一年 四月 新しい季節の東京】
桜の花の香りが、春のぬくもりの中に溶け出していた。
皇居外苑の日本武道館で行われた入学式が終わり、スーツ姿の英治大学の新入学生たちは、学生証の交付を受けるため、御茶ノ水キャンパスへ移動しはじめた。
指定された集合時刻までには、まだ十分な余裕があった。
千鳥ヶ淵の水面にかかる桜も見事に咲いていた。ニュースでよく耳にする靖国神社の開花標準木というものを見てみたくなり、歩道橋を渡って神社の境内に入った。
大鳥居をくぐり、大村益次郎の銅像を眺めた。境内には桜がこんもりと咲きほこっていたが、どれが標準木なのか分からなかった。
大鳥居の下から青い空を見上げると、遠くのビル群の中に英治大学のタワー型の校舎の先端部分だけが見えた。
その日から、大学生としての生活が始まった。入学ガイダンスを受け、シラバスと学内雑誌を参考に受講する科目を選び、履修届けを書き、週末はサークルの新入生歓迎コンパに参加する。
講義も徐々に始まり、新しい生活をこなすのに忙しくなっていった。
新入生歓迎コンパに参加したいくつかのサークルの中からひとつの軽音楽サークルを選び、入会することに決めた。
先輩たちの話から、スタジオやライブハウスを借りるのに結構な金がかかることが予想されたので、アルバイトを探すことにした。
書店や飲食店の店先で配布されている無料の求人雑誌を眺めて見つけたのは、相模原市の橋本にある「GOマーケティング」というリサーチ会社でのアルバイトだった。
JR横浜線の橋本駅から歩いて行ける場所にあったので、家からも近く、便利そうだった。
求人欄に載っていた番号に電話をしてみた。
「はい。ジー・オー・マーケティングです」
電話に出た女性の声で、「GOマーケティング」は、「ゴー・マーケティング」ではなく、「ジー・オー・マーケティング」と読むのが正しいということが分かった。その電話で、面接を受けることが決まった。
さっそく履歴書を書き、橋本に赴いて面接を受けた。
「うちは、テレビCMのオンエア回数とか、ラジオ番組でかかる楽曲のオンエア回数とかを集計して、データ化して、放送局や広告会社に提供する仕事をしてまして……」
若い面接官はそこまで言うと、一度履歴書に目を落とし、また続けて言った。
「えーと、ヤマトさんは、相模原在住の方ですね。英治大学の学生さんで、軽音楽のサークルに入っているということですが……。音楽はどんなものが好きですか?」
「洋楽だったらビートルズとか……、オールディーズ的な古いものが好きです。邦楽は最新ヒットも含めて、古いものから新しいものまでなんでも聴きます。インストの曲でしたら、ギターデュオのアカアオボシなんかが好きですね」
「そうですか。私もアカアオボシは好きで、よくCDを聴くんですよ。たしか、アカアオボシの二人は、八月に相模大野のグリーンホールでライブをやるみたいですよ」
「え? そうなんですか。知らなかったです」
若い面接官と、ひとしきりギターデュオ・アカアオボシの話で盛り上がった。
「なるほど。じゃあ、ヤマトさんはラジオ部門の方が向いてるかもしれませんね」
程なくしてGOマーケティングから採用の連絡があり、アルバイトの初日を迎えた。
最寄りの淵野辺駅から八王子方面行きの電車に乗った。矢部駅を過ぎると、線路の北側にブロック塀に囲まれた広大な敷地が見える。
在日米軍の相模総合補給廠だった。九〇年代初頭の湾岸戦争の際に、この施設に保管されていた大量の物資が中東へ向けて運び出されたという話も聞いたことがあった。
橋本駅で電車を降りた。京王線の改札へ続く二階デッキの途中で駅舎を出て、駅前の通りを反対側に渡った。
地上に下りて県立高校の正門の横を通りすぎ、住宅街の中の路地を進んでいく。高校の敷地に沿って左に曲がり、長く続く壁沿いを歩いた。
変電所の角を右に曲がり、しばらく歩いて国道16号まで出た。その角にGOマーケティングの社屋があった。
コンクリート打ち放しの社屋に入ると、デスクのカイがGOマーケティングの社内を案内しながら業務内容を説明してくれた。カイは四十歳くらいで、金髪のミュージシャン風の男だった。
「全国のラジオ局で放送された番組を録音したテープが、放送局別にこの棚の引き出しの中に収まっています。
ラジオ部門のアルバイトの方には、この中から私に指示されたカテゴリーの放送局のテープを取って各自の机にもっていき、デッキとヘッドホンを使って番組を聴いて、
番組の中で流された曲のタイトルとアーティスト名を、データベースを参照しながら抜き出して、パソコンのエクセルに入力するまでの作業をやってもらっています」
「はい」
「仕事全体の流れとしては、同じ番組を複数のアルバイトの方にチェックしてもらって、上げてもらったデータをさらに比較検討してデータの精度を高めていくという作業があるんですが、
これは私たち社員が行いますので、アルバイトの方には、その元となるデータを録音テープから拾っていくという地道な作業をお願いすることになります」
「はい。分かりました」
「当然、スピードは早く、なおかつ正確にできるというのが理想です。最初はなかなか上手くいかないとは思いますが……。
慣れてくると、早送りや巻き戻しを駆使して、DJの曲紹介の部分を勘で頭出ししたり、適当に早送りして次の曲のイントロ部分を再生させたり、
次の曲に行くまでの無駄なトークの部分をぴったり飛ばしたりできるようにもなります。
ちょっとオカルトっぽい話になっちゃいますけど、よく理屈は分からないんですが、勘でできちゃう場合があるんですよ。
そう、辞書の何気なく開いたページに、今まさに調べようとしていた単語が載っていた時みたいな感じです」
(受験勉強なんかをしていると、確かにそういう経験をすることがある。)
「ああ、なるほど。そんな感じですか」
「いままでの部分で何か質問はありますか?」
「あの。もし知らない曲で、DJの曲紹介もない場合は、どうするんでしょうか?」
「そういう場合は、私とか、社内に楽曲について詳しい人間がいますので。もしも分からない曲があったら、その都度、訊きにきてください。それでは、まずヤマトさんには……。
そうですね、地方のコミュニティFM局の番組をチェックしていってもらいましょうか。わりとシンプルな番組構成が多くて、とっつきやすいと思うので」
「分かりました」
「よく分からないことは、何でも遠慮なく質問してください」
カイの指示をなぞりながら、さっそく作業を始めてみた。棚から地方FM局のテープを机にもってきて、デッキとヘッドホンを使って放送を聴き、曲名とアーティスト名をエクセルの表に打ち込んだ。
作業内容としては理解できたが、スピードを上げていくのはなかなか難しそうな気がした。
周りの先輩アルバイトたちの様子をうかがうと、彼らは馴れた手つきで黙々と作業を進めていた。
休憩時間に社屋の外へ出た。建物の脇に設置された自販機で缶コーヒーを買う。栓を開けた時、近くで同じように缶コーヒーを飲んでいた男と目が合った。知らない人だったが、反射的に会釈をした。
「新人さん? バイト?」男が話しかけてきた。
「はい。ラジオ部門のヤマトです」
「そうか、ラジオ部門か。オレはテレビCM部門のイナバ。オレも本当はさ、ラジオとか音楽が好きだからそっちの部門に行きたかったんだけどね。
うっかり広告クリエイターの勉強してますなんて面接で言ったもんだから、こっちにまわされちゃって参ったよ」
「イナバさんは社員の方ですか?」
「違うよ。派遣。先月大学を卒業したんだけど、就職決まんなくてさ。しかたないから派遣会社に登録して、今月の頭からここで働きはじめたんだ。まあ、世間でいうところのフリーターってとこかな」
なかなか就職が決まらず、楽器屋でアルバイトをしている菊原美月のことを思い出した。
美月といい、イナバといい、大学を卒業した人がみんな就職で苦しんでいた。大学生になったことで、それがより現実的で切迫した問題として、他人事ではないように感じられた。
「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




