旅立ちの日の新横浜(2)
やがて快速電車が町田駅のホームに滑り込んだ。反対側の3番線に停車している各停電車に乗り換えるため、一度ホームに降りた。
知っている街の匂いがした。新横浜には感じられなかった匂いだった。
ホームに佇み、快速電車と、それを時間差で追いかけるように出て行く各停電車をやり過ごした。電車がいなくなり、大きくひらけた視界に、見慣れた街の景色が見えた。
無意識のうちに改札を出ていた。あてもなく街をさまよった。
塔子と歩いた駅までの道、塔子と昼食をとったファストフードの店、カフェ、TOPビルの自習室、湘北予備校の教室……。
塔子と並んで街を歩いた記憶が、意外と少ないことに気づく。塔子の姿はいつも、予備校の教室や自習室の風景と一緒に刻まれていた。
それを上書きするように、街の至るところに埋まっている記憶の影があった。
中央図書館の書棚、味噌汁の美味い定食屋、レンガ敷きの通り、町田天満宮、タバタ楽器の通用路、アパートまでのゆるやかな上り坂、後姿を見送ったカリヨン広場の角……。
菊原美月の寂しそうな小さな背中が思い出された。
反射的に携帯を取り出してメールの履歴を開いた。美月から届いた、たくさんのメールの履歴がそこにあった。
(美月さんに会いたい……。)
美月からの一番新しいメールを開いた。
『エレアコのAGX-700。お店に入荷されたよ。見にきてね。』
商店街を抜け、踏切を渡り、バス通りに出た。そして、タバタ楽器に向かった。
二階フロアに行くと、いつもの黒いシャツの制服を着た菊原美月がいた。美月は変わらない笑顔で出迎え、こちらのスーツ姿を見て言った。
「あれ? なんか珍しい格好だね」
「うん。今日、予備校の合格祝賀パーティーだったんだ」
「そうか。おめでとう。ヤマトくん、毎日よく頑張って勉強してたもんなあ」
美月は感心するような口調で言った。
「さっそく、ギター見てみる?」
美月について一階の楽器フロアに行った。新品の楽器のいい匂いがした。
男性店員がチューニングしてくれたAGX‐700を受け取り、椅子に座って弦をはじいてみた。柔らかい響きがした。「エレアコですけど。生でも結構いい音出しますよ」と男性店員が付け加えた。
久しぶりにギターの弦を押さえたので、左手の指先が痛くなった。
「いまミディアム張ってますけど、もし弦が重たく感じるようならライトかエクストラ・ライトに張り替えると弾きやすいんじゃないかと思います」と男性店員が説明した。
柔らかい音色が気に入ったので、そのギターを購入した。付属のハードケースに入れてもらって店を出た。
帰り際に美月が「もうすぐバイト終わるから」と耳打ちしてきた。近くのカフェで待つことにした。
一時間ほどして菊原美月がタバタ楽器の制服から私服に着替えてやってきた。美月は赤紫色のロング丈Tシャツの上に、薄茶色のカジュアルなワンピースを着ていた。
コーヒーカップを口に運び、ソーサーの上に戻しながら、美月が言った。
「でも、珍しいな。パーティーの会場には予備校のお友達もたくさんいたんでしょ。普通、勢いで二次会とかに流れ込んだりするんじゃないの? 大学生のコンパみたいなノリでさ」
「早く町田に戻ってきたかったんだよ……。そ、それだけだよ……」
よどみながら答えた言葉に何かを感じとったのか、美月はわざと冗談めかすようにして言った。
「え? 早く町田に? 念願のギターを買うために? それとも私に会うために?」
「相変わらずだな。ギターだよ。ギター」
言い放った言葉に、美月がむくれたような表情を見せたので、さらに言った。
「楽器屋の店員として、その反応はまずいだろ。でも。無事に試験に合格できたのは、美月さんのくれた大山阿夫利神社のお守りのご利益かもしれないよ。オレって、本番に弱いタイプだからさ」
「ヤマトくんがそう思ってくれてるなら、嬉しいよ」
後から店に入った美月のコーヒーカップが空になる頃、彼女が静かに言った。
「ギター、さっそく弾きたいでしょ。よかったら、うち来て弾く?」
「う、うん」
カフェを出ると、美月は、「ささやかながら二人でヤマトくんの合格祝いをしよう」と言って、アパートに着くまでの店で食材や酒を買っていった。
三〇三号室に入り、美月がキッチンで食事の準備をしてくれている間、アコーディオン・カーテンで仕切られたリビングで、買ったばかりのギターをハードケースから取り出して弾いた。
ひと通り弾いてから、美月のもっていたマルチ・エフェクターを借りて、音色を変えて遊んだ。
適当な数字を指定してエフェクターを通すとエレクトリック・シタールのような音になったので、ビートルズの『Norwegian Wood』を弾いた。
その後、美月が用意してくれた彼女の手料理で食事をし、酒を少し飲んだ。
食事を終えると美月が曲をリクエストしてきた。美月のリクエストに応えながら、知っている曲は弾き、知らない曲は雰囲気だけをまねた。
そして美月が、『ジョニー・B・グッド』を弾いてと言った。うろ覚えだったので、初めは手探りでたどたどしく弾いた。しかし徐々に、フレーズを思い出してきた。
ノリのよいロックンロールのリズムに乗ってギターを弾いていると、日向マゴヒコがその曲の生演奏を披露してくれた日の光景が思い出されてくる。
その記憶に引きずられるようにして、教室の最後列の席で、日向のライブを楽しげに眺めていた五星塔子の姿が思い浮かんできてしまった。
町田に戻ってきてから何とか鎮まっていた感情が、急激に沸き立ってくる。そのうち目の前が見えなくなり、やがてギターが弾けなくなった。
気がつくと、菊原美月が抱きしめてくれていた。柔らかい香りの中に包まれていた。
「何かあったんだね。ヤマトくん。でも、私はここにいるから。私はここにいるからね」
美月を抱いた。ただ慰めてくれる身体を求めて美月の部屋に来たのか、それとも他の何かを探しに来たのか、分からなかった。
美月の肌は温かかった。心のむなしさを埋めるためだけに彼女を抱いているのか、よく分からなかった。
「ヤマトくんの手は、女の子みたいで、丸っこくて、あったかいよ。前からずっと、そして今も。ずっと、あったかいままだよ」
クローゼットに入れたスーツの上着のポケットの中で携帯の振動音がしていた。
合格祝賀会の会場から誰にも告げず消えてしまっていたので、ミチスエあたりが夜になってから二次会の誘いのメールをよこしたのだろうと、気にも留めず、夢中で美月の身体を抱いていた。
何度も何度も美月の身体を求め、疲れ果てて寝込み、その夜はそのまま彼女の部屋に泊まった。
朝、美月がキッチンで朝食の準備をしている音で目が覚めた。
「あれ? 起きちゃった?」
美月の声に「うん」とだけ答え、低いベッドから起き上がり、窓辺に立った。わずかに開けたガラス窓から、草木の匂いがまじったさわやかな風が吹き込んできていた。
こちらに目をやって美月が言った。
「ここ、近くに芹ヶ谷公園っていう広い公園があってね。大きな森があるから、時々こういう気持ちのいい風が入ってくるんだ。
私、草津の出身でしょ。緑の多いところで育ったからね。緑の匂いを含んだ風が吹き込んでくるような場所って、結構好きなんだ」
美月が用意してくれた朝食を食べ、コーヒーを飲んだ。
本棚に、前にこの部屋を訪れた時には見かけなかった本が、何冊も並べられていた。「音楽療法」という言葉がタイトルに入っていた。美月に訊いた。
「あの、『音楽療法』って何?」
「あ、音楽の効果を利用して、病気の治療や、障害の克服をしたりすること。短大はポピュラー音楽科だったんだけど、選択科目に『音楽療法』があって。興味があったんで履修して少し勉強してたんだけど……。
音楽療法士っていう資格があってね。試験を受けたり、勉強会に参加したりすると取れる資格なんだ。もしかしたら、これをもってると就職にも有利に働くかもしれないって思って。
元々興味ある分野だったからね、改めて勉強してみることにしたの」
「美月さんに、合ってるような気がするな。あの『ツクヨミ』っていう作品集に入ってた曲も、すごく癒される曲が多かったし。あんな曲が書けるなら、そういう仕事も」
「ありがとう。でも、ちゃんとした形で音楽療法士の資格を取るためには、臨床経験を積まなくちゃならなくて。それができる施設を探すのが、なかなか大変なのよね」
それから午前中は美月の部屋でゆっくり過ごし、彼女が午後からタバタ楽器のアルバイトに出るというので、スーツに着替えた。
ギターのハードケースをもって美月の部屋を出た。途中まで一緒に歩き、街なかで別れた。
町田駅のホームでハードケースを下ろした。ようやく空いた右手で、スーツの上着のポケットに入れていた携帯を取り出し、開いた。
昨夜の着信がそのままになっていた。届いていたのは、五星塔子からのメールだった。
『ごめんなさい。ヤマトくんの気持ちも考えず、傷つけるようなことを口にしてしまいました。
ヤマトくんが英治大に進み、私が立智大に進むことになったのは、結果として良かったことだったと思っています。
ヤマトくんは私のことを友達だと言ってくれましたが、私には、ヤマトくんの友達でいられる資格はありません。いまはそれだけしか言えません。』
塔子がメールを送ってきたアドレスは、連絡が途絶える前と同じ携帯電話会社のもので、アットマークの前の部分だけが変わったものだった。
彼女がこちらからのメールを受け取りたくなくてアドレスを変えたのは、どうやら間違いないようだった。
(なぜ? どうして急に?)
疑問が渦巻いたが、これ以上、彼女を刺激しても、また連絡を絶たれてしまうだけのように思えた。
たった一本だけ、これが最後のつもりで、塔子にメールを入れた。
『何も言えないというなら、今はもうこれ以上は訊きません。でも、五星さんの中で一体何があったのか、話せる時がきたら教えてください。
何故こんなことになってしまったのか、一体何がいけなかったのか、五星さんに話してもらわなければ、この先もずっと気になったまま、過ごしていかなくてはなりません。
今すぐでなくてもいいから、話せる時になったら教えてください。五星さんはオレの大切な友達だから。』
送ってからしばらく経っても、宛て先不明を知らせる英文字だらけのメールは送られてこなかった。そのアドレスは正しく、メールは無事に彼女の携帯に届いたようだった。
しかし、塔子からの返事も戻ってくることはなかった。
四章「旅立ちの日の新横浜」篇は、ここまで。次回以降、物語は、新しい展開へ。「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




