冬枯れの景色の町田(1)
【二〇〇一年 一月 冬枯れの景色の町田】
北風が街を吹き抜けて、陽だまりの恋しい季節になった。
年が明けて一月に入り、天気はよかったが、朝晩がとても冷え込む日が続いた。浪人生としての一年間は、終盤にさしかかっていた。
年末から始まった直前講習で、予備校で受ける講義カリキュラムは全て終了する。試験本番が近づいてくる緊張感を肌で感じた。寒さで体調を崩さないように注意しながらの調整が続いていた。
そして、その直前講習も今日で最終回になった。
昼休み、カリヨン広場近くのスズラン楽器で、バンドスコアを眺めていた。
ビートルズの『And Your Bird Can Sing』の力強いイントロのリフを目でなぞっていると、レジカウンターの方から、誰かが店員と話している声が耳に届いてきた。聞き覚えのある声だった。
「はあ、電池でね。ふーむ。なるほど。じゃ、これもらおうかな」
バンドスコアから顔を上げ、書棚の陰から覗いてみると、声の主は英語講師の日向マゴヒコだった。日向が店員の説明を受けながらアンプ内蔵ギターを買おうとしていた。
(そういえば春の頃、最終講義でギター演奏を披露するとヒューガ先生は言っていたけど……。)
見なかったことにする方がいいような気がした。
カウンターを挟んで店員と話す日向に見つからないように、そっと背後を通り抜けて店を出ようとした時、呼び止められた。
「あれ? ヤマトか?」日向が言った。「どうした? この店よく来るのか?」
「あ、あの、たまに休憩時間に、スコアを眺めに」
「そう。楽器やってたのか? ギターか? ベースか? ドラムか? キーボードか?」
「一応、ギターです」そう答えた。そして日向の足元のギタースタンドに置かれているアンプ内蔵ギターを指さして訊いた。「あの、ヒューガ先生。もしかして、それって?」
「おう。今日、君たちの最終講義だから、約束どおりギターの生演奏を披露しようと思ってたんだけどさ、うっかりしててギターをもってくるの忘れちゃって。
しょうがないから買おうと思ったんだ。予想外の臨時出費だよ。4限の講義の最後にやるから。ま、楽しんでくれよ。オレ、専門はドラムだから、ギターはロックンロールしか弾けないけど」
店を出てからも、日向の仕込みの現場を目撃してしまったことで気持ちがたかぶっていた。人がギターを演奏するのを生で観るのは久しぶりだった。
浮ついた心を落ちつかせながらTOPビルの自習室で勉強して、4限の講義が始まる時刻を待った。
本校舎に移動した。直前講習も今日が最終日なので、先行して終了している科目も多く、本校舎のロビーや廊下に学生の姿は少なかった。日向の講義が行われる横長の教室には学生たちが集まりつつあった。
せっかくの日向のライブなのでいい席に座ろうと早めに教室に入り、納得のいく角度の席に座った。
テキストを開いて予習をしながら待っていると、しばらくして教室の後ろのドアから丹波チューターが入ってきた。丹波は困ったような表情でこちらに近づいてくると、こっそり耳打ちした。
「ヤマトくん。ちょっと日向先生が講師室に来てほしいって言ってるんだけど」
日向マゴヒコが呼んでいるという。講義の前に講師が学生を呼ぶという珍しい展開に首をかしげながら、丹波について一階の講師室に入った。
日向が椅子に腰かけ、ギターを抱えたまま「おかしいな。へんだな」とつぶやいていた。他の科目の講師たちも興味深そうに覗き込んでいる。室内には濃いコーヒーの匂いが漂っていた。
「ヤマト。授業の前に悪いね。これチューニングが上手くいかないんだけど、分かるかな? ごめん。思いつく限りで、ギター分かりそうなの、君くらいしかいなかったもんだから」
日向がチューニング・メーターを手渡してきた。日向がギターを抱え、ピックで弦をはじく目の前に、チューニング・メーターの集音マイク部分を当ててみる。メーターが少しも反応しない。
「何かおかしいですね。チューナーの電池が切れてるか、ぶっ壊れてるかのどっちかじゃないですか?」
「やばい、もう時間ないな」日向が壁の時計を見て言った。「ヤマト、何とかできないかな?」
「正確じゃなくてもいいですか? だいたいならチューニングできますけど」
「この際、お願いできる?」
日向に頼まれ、「浪人生としての受験を終えるまでギターには指一本触れない」という決意を約十ヶ月ぶりに破った。日向からアンプ内蔵ギターを手渡され、ストラップを肩からかけた。
Eの音を頭の中でイメージして、まず一弦の開放を弾いてペグを回す。同じEの音の六弦の開放を弾いてペグを回し、だいたい同じ音に合わせる。
次に知っている曲を頭の中で鳴らしながら、憶えているソロフレーズをゆっくり弾いていき、一弦と六弦を弾く箇所で音を微調整する。
あとはハーモニクスを鳴らしながら、六弦5フレットと五弦の開放、五弦5フレットと四弦の開放、四弦5フレットと三弦の開放、三弦4フレットと二弦の開放、二弦5フレットと一弦の開放を合わせて音をそろえた。
いくつかのローコードやバレーコードをジャジャと鳴らしながら響きを確認して、さらに各弦を微調整する。チューニングがだいたい合ったので、日向にギターを返した。
「こんな感じで、どうでしょうか? 適当なので、違和感なければいいんですけど」
日向はコードをジャジャと鳴らした後、続いてロックンロール風のイントロフレーズを弾き、さらに低音弦で刻むようなバッキング・リフを弾いた。
様子を眺めていた講師やチューターから「おおッ!」という歓声が上がった。
「ヤマト、これで大丈夫だ。助かったよ。ありがとう。じゃ、あとで、教室で演奏するから」
講義の開始時刻が迫ってきていたので講師室を出た。狭い階段を上りながら、久しぶりに両手に感じたギターの感触を思い返していた。
廊下から教室の中を覗いた。席はだいぶ埋まってきていたが、五星塔子の姿はまだなかった。日向マゴヒコのライブがあるのに、今日の講義を休んでしまうのはもったいないような気がした。
急いで携帯に登録していた塔子のメールアドレスに短いメールを送った。塔子にメールを送るのは初めてだった。講義が始まるのですぐに電源を切り、席に戻った。
教室のドアが開き、日向がギターをもって現れると、教室中に「おおッ!」というどよめきが起こった。
日向は学生たちの反応に照れたように笑うと、「これは、最後のお楽しみね」と言いながら、教室の隅にギターを立てかけた。
日向の最後の講義を聴きながらも、教室の片隅に立てかけられたギターが目に入る。三日月のような形をしたポップなデザインのアンプ内蔵ギターだったが、さっき手にして弾いてみた時の感触は悪くなかった。
講義の途中、教室の後ろのドアがゆっくりと静かに開いて、五星塔子が中に入ってきた。
もう既に講義は七割くらい終わっていた頃だったので、遅れて慌ててやって来たというよりは、さっき送ったメールを見たか、あるいはチューターに電話で呼び出されるかして、日向のライブだけを観にやってきたという感じの雰囲気だった。
日向がジャケットを脱ぎ、立てかけたギターを手にとって肩にかけた。
「それじゃあ、みんなの合格を祈って、ギターを演奏します」
日向はアンプ内蔵ギターの電源を入れ、ジャジャと二度三度軽くコードを弾いて音の大きさを確かめた。そして軽快なイントロを弾きはじめた。
日向が弾きはじめたのは、チャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』だった。イントロを抜け、日向がバッキングに切り替えながら英語で唄った。学生たちの手拍子が自然に起こった。
最後列の席で、塔子は楽しそうに日向マゴヒコの演奏を聴いていた。
日向が『ジョニー・B・グッド』を弾き終えると、「ヒューガ! ヒューガ!」という歓声とともに教室中からアンコールの声が起こった。
日向はそれに応えて、何故かロックンロールではなく、フォークソング調の日本語の歌を唄った。
「じゃあ、みんな、試験がんばって。合格祝賀会の会場でまた会おうぜ」
アンコールの演奏を終えると、日向は満面の笑顔でそう言って教室を出ていった。
日向を見送って大きな拍手が起こった。浪人生が勉強している普段の予備校の教室には似つかわしくないような、火照った空気が広がっていた。
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




