夏のさかりの町田(7)
▽
翌朝、いつも通りの時間に起きて、相模原市立図書館に向かった。
町田に行くと、昨夜の興奮を思い出して妙な気分になりそうだった。まず地元の市立図書館の読書室で勉強して、頭を切り替えることにした。
講義は4限の英文法からだったので、昼すぎに読書室を出て食事に行き、そのまま町田に向かった。
講義までまだしばらく時間に余裕があった。足は自然と、TOPビル六階の自習室に向かう。五階からの階段を上りきった入口近くで五星塔子と会った。ひと月ぶりに見る塔子の姿だった。
美月とのことがあったため、まっすぐ塔子の顔を見ることができない。
それでも、いつもと変わらない平静を装って話しかけた。
「ずっと休んでたみたいだったから、心配したよ」
「ちょっと、色々あってね」
「夏バテで体調でも悪かったのかと思ってたんだけど……」
「うん。身体はなんでもないの。平気」
少し気になる言い方だったが、そのまま聞き流した。カバンからノートを取り出し、塔子の前に差し出した。
「これ。夏期講習の古文と英文法のノート。講義、全部休んじゃったでしょ。貸すよ」
「ありがとう。助かるなあ……」
二冊のノートを受け取りながら塔子は続けた。
「でも、最近ちょっとね、なんとなく勉強に疲れちゃったというか、一生懸命勉強することに疑問を感じてきちゃってね……」
「急にどうしたの? 五星さんらしくもない。やっぱり夏バテ気味なんじゃないの?」
五星塔子は黙って首を横に振った。そして訊いてきた。
「ヤマトくんの目標はなに?」
改めて訊かれて少し戸惑った。
「それは……、だから、第一志望の英治大学の法学部に受かることだよ」
「その先は?」
(その先……。)
言われてみれば、その先の目標は何もなかった。何か具体的な将来の職業像でも固まっていたなら、大学の法学部に進むことも、その目標の一環だと、自信をもって言い切れたかもしれなかった。
いつも頭の中で考えていることを、素直に話すしかなかった。
「オレは、その先の目標を決めるのは、大学に入ってからでも遅くはないと思ってるんだ。だから、今の時点では、ちゃんとしたことは言えないよ。
でも、五星さんは、大学で英語を勉強したいって、前にはっきり言ってたじゃない?」
「大学で英語を勉強したい……」塔子が何故か言葉をかみしめるように言った。
「そうだよ。言ってたじゃない、春の頃に」
「そうだ。そうだったよね」
暗く沈んでいた塔子の顔に笑顔が戻った。そして、さらに訊いてきた。
「ヤマトくんって、受験する学校、もう決めた?」
「いや、まだ。チューターとの相談もあるし。最終的に志望校を決めるのは、十月か十一月くらいでいいんじゃないかな」
視線を漂わせて、考え事をするようなそぶりを見せながら塔子は言った。
「あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なに?」
塔子が、こちらの目を見ながら言った。
「ヤマトくん。私と一緒に、立智大学を受けない? 同じ大学で勉強しない?」
「……」
全く想定できていなかった塔子の急な提案に、何も言葉をつなげなかった。
塔子は「ちょっと考えておいてね」と恥ずかしそうに言うと、さっき渡した古文と英文法のノートを胸に抱えて自習室の中に消えていった。彼女の背中で、束ねた黒髪が左右に揺れていた。
立智大学を受けるということがこれまで一度も頭に浮かばなかった理由は、五階フロアの掲示板に貼られている「入試スケジュール一覧」を見て分かった。
それは、現役生の頃から法学部系統の学部ばかりを選んで受験していた上、常に第一志望か第二志望に入れていた中政大学の法学部と試験日程が重なる立智大学の法学部を、受験校の候補からいつも外して考えていたからだった。
逆に、塔子が受験する立智大学文学部の試験は法学部の二日後だったので、中政大学法学部と英治大学法学部の試験日のちょうど間に入り、中一日の良いペースで受験することができるはずだった。
しかし今さらあえて文学部を受験することもないかと、塔子から提案された立智大学という進路を改めて否定しかけた時、ふとある考えが頭に浮かんだ。
(小説家の和泉順三郎が講師として教えている文芸科って立智大学じゃなかったか?)
その足で本校舎の入試情報コーナーに行き、受験案内と端末を使って調べた。立智大学は和泉順三郎の出身校で、彼が現在も、立智大学文学部の文芸科で教鞭をとっていることが確認できた。
さらに、土佐ミチスエが立智大学の経済学部を第一志望校として狙っていることも分かり、立智大学を受験することに、より具体的な興味が湧いてきた。
(塔子とミチスエと同じ大学に通う……。意外と面白いかもしれない……。)
数日後、本校舎の階段ですれ違った塔子に言った。
「立智大、受けてみることにするよ。法学部は、中政大と試験日が重なって受けられないけど。文学部なら英治大と中政大とも併願できるし。
文学部の文芸科でオレの好きな小説家の和泉順三郎が教えてるから、文芸科だったら入っても面白そうだなって思うんで」
「文学部? 私と同じ日の試験?」
「そう」
「ヤマトくんが同じ試験会場にいるなんて、なんだか心強いな」
そう言いながら、塔子は嬉しそうに笑った。
それから何日かして、塔子から、貸していた夏期講習の集中講義のノートが戻ってきた。最後のページにポストイットのメモが貼ってあった。
そこには携帯のメールアドレスが書かれていて、下に手書きの文字が添えられていた。
『私のメルアドです。ヤマトくんと同じ大学で、一緒に勉強するのが、私の新しい目標です。』
塔子の気持ちがこちらに傾きつつあることを、彼女の態度と言葉の端々に感じていた。
▽
夏から秋への境目は、いつも曖昧だった。静かな雨の気配が近づくと、ひと雨ごとに路上から夏の余韻は奪われてゆき、徐々に秋は深まっていった。
十一月に入り、試験日程と合格発表日、入学手続き締め切りのタイミングなどを見比べながら、受験する大学を絞り込み、志望校を決めていく時期に差しかかっていた。
家の外階段の下で、野良猫のタマが寒そうにしていた。四本の足を覆うように身を低くして座り込み、無駄な動きをせず、ただじっとしている。
「行ってきます」の挨拶の代わりに頭を撫でたが、寒くて機嫌が悪いのか、タマは面倒くさそうに目を細めるだけだった。
町田に行き、予備校の本校舎の一階にある小さな面談室で、丹波チューターとの個人面談に臨んだ。
十月に行われた三回目の全国模擬試験の成績が英・国・社の三科目とも下がってしまったので、少々重い気持ちでパイプ椅子に座っていた。
分厚い青いファイルを開き、過去三回の模擬試験の成績の推移がプリントされたシートを見ながら、丹波が言った。
「この時期は、夏期講習で現役生がどんどん力を伸ばしてくる頃だから、浪人生がこういう風に成績を落としちゃうケースってよくあるんだ。なので、まあ心配ないとは思うけどね」
「は、はあ」
「こういう場合はね、焦って新しい参考書や問題集なんかに手を出すよりも、今までの講義のテキストをもう一度復習する方がいいよ。
初めの頃に勉強して忘れてしまっているような内容を固めなおしつつ、もう過去問集で実践演習をやりはじめちゃう方が効率的だと思うね」
模擬試験の成績が下がったのは、菊原美月と彼女のアパートで身体の関係をもち、五星塔子に誘われるまま立智大学文学部の受験を決めた直後のタイミングだった。
色恋にうつつをぬかして成績を下げてしまったという罪悪感が強くあった。もう一度気持ちを引き締めなおす必要性を感じながら、丹波からのアドバイスを聞いていた。
「まあ心配はしてないけど」
丹波が繰り返し言って面談は終わった。
五星塔子がこちらに気持ちを向けてきているのを感じるようになると、一度は菊原美月と身体の関係をもったにもかかわらず、心は五星塔子の方へ大きく傾きはじめていた。
ただ、ポストイットのメモに書かれていた塔子の携帯のメールアドレスには、まだ一度もメールを送っていなかった。
予備校の講義でほとんど毎日のように顔を合わせていたので、それで連絡は取り合えていた。
今からあまり深入りして、さらに成績を落とせば、また現役生の時と同じように受験に失敗してしまうという恐怖心もあった。
美月はあれからもよくメールを送ってきていたが、模擬試験の成績が下がってしまったことや、受験本番に向けての追い込みの時期に差しかかっていることなどを返信すると、「がんばってね」と年上の女性らしくこちらの立場を気づかってくれた。
送ったメールの内容は嘘ではなかったが、気持ちが塔子の方に傾きつつあるのを自覚していたことで、美月のことを騙しているような感じがして、嫌な気分になった。
勉強の息抜きにタバタ楽器を訪れても、美月の姿を見ると、つい黒いシャツの制服の下に隠されている滑らかな肌の感触を思い出してしまう。頭の中が妄想であふれてしまい、バンドスコアを眺めていても落ちつかなかった。
タバタ楽器からは自然と足が遠のくようになり、バンドスコアを立ち読みしたい場合はカリヨン広場近くのスズラン楽器に行くようになった。
町田という街にいると、五星塔子と菊原美月という二人の女性のことをどうしても考えてしまうので、予備校の講義や模擬試験など、必要な時だけ町田に移動し、自習は淵野辺の相模原市立図書館を中心にするようにした。
休憩時間に、図書館の一階の端末で和泉順三郎の本を検索した。
和泉が講師として教鞭をとっている立智大学文学部の文芸科を受験することに決めたことで、元々好きな小説家だった和泉順三郎に一層興味が湧きはじめていた。
前にTOPビル三階の古本屋で見たことがあった、和泉順三郎が翻訳したドナルド・ウォーカー・スミスの『New York Suburbia ―ニューヨーク郊外―』が書棚にあることが分かり、借りることにした。
それは、評論とエッセイの中間くらいの文章だった。現代文の勉強にもなりそうだったので、夜布団に入って眠りにつくまでの間その本を読むことにした。
二章「夏のさかりの町田」篇は、ここまで。ヤマト、塔子、美月の関係は、このあと一体どうなるのか・・・。「評価」「ブックマーク」「感想」などいただけますと、とても励みになります。よろしくお願いします。(秋沢)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




