夏のさかりの町田(6)
これからそういった行為をしようとする男女が、どんな風に並んで歩けばいいのか分からなかった。妄想が頭の中をめぐり、足元がおぼつかない。
暗い道の途中に、飲み屋の店内や自販機から光が漏れ出ている場所がある。その光にさらされるたび、動揺した心のうちを照らし出されるようで疎ましかった。
狭い歩道だった。電柱があると、横に並んでいた美月と前後になってかわさなければならない。電柱をよけて側溝のゆるい蓋を踏むとゴトリと低い音が響いたが、それが妙に目立つ音に感じられた。
コインパーキングの角を曲がってすぐの場所に、菊原美月の住むアパートはあった。外観ではそれが音大生用の建物だとは判別できなかった。
美月は出入口にある郵便受けの三〇三号室のボックスを開け、郵便物とチラシを黒革のカバンに入れた。
部屋に着くまでに誰か楽器をもった人とすれ違うかもしれないと想像をめぐらせていたが、誰ともすれ違わず、三〇三号室のドアの前に着いた。
美月は鍵を開けて部屋の灯りをつけ、中に招き入れた。入った場所は小さなキッチンだった。
流し台と、その両脇に冷蔵庫と洗濯機がある。アコーディオン・カーテンで仕切られた向こう側が部屋になっているようだった。
すっかり興奮しきっていたが、余裕のあるふりをしていた。
手を伸ばして内鍵を閉めようとする美月の腕が身体に触れたので、そのまま彼女の身体を引き寄せた。小柄な美月と玄関の段差を使ってキスをした。
その瞬間、頭の中の全てが美月の髪と肌の匂いで埋めつくされた。彼女の首筋に手を伸ばそうとしたが、何も勝手が分からなかった。経験があるふりをして、平静を装うのはそれが限界だった。
「美月さん。オレ……。は、初めてなんだ……」
「うん。大丈夫だよ」
美月は言葉少なになっていた。
「もう少しだけ、我慢できる?」美月は優しく諭すように言った。
美月に促されて部屋に上がった。流し台の反対側に扉が二つあった。そこは、トイレとバスルームのようだった。
アコーディオン・カーテンを開けた美月に続いて、リビングに入った。低いベッドとソファ。小ぶりなテーブルとテレビ、ミニコンポが置かれていた。
部屋の隅に置かれた電子ピアノと、スチールラックに整理して置かれた音楽機材がなければ、ごく普通の部屋だった。
テーブルの近くにクリアケースとカバンを置いた。
美月に促され、シャワーを浴びるためにバスルームに入った。一人暮らしをしている女性の部屋のバスルームに入るのは初めてだった。その状況を考えただけで固くなり、慌ててそれを鎮めようとする。
バスルームの中にある小さな流しの上に、黄色いアヒルのおもちゃが置かれていた。子供が風呂のお湯に浮かべて遊ぶようなものだった。
蛇口をひねり、ボディーソープを手のひらに出して泡立てた。ボディーソープの匂いが美月の香りに重なり、また興奮する。この部屋にくるまでにもう既に何度も起つのを我慢していたので、洗うために少し触れるだけでも起ってしまいそうになる。
バスルームを出ると、服を重ねて入れておいたカゴの上にバスタオルが置いてあった。どうすればいいのか分からなかったので、身体を拭いた後、バスタオルだけを腰に巻いて部屋に戻った。
美月はリクルートスーツを脱いで、上下のスウェットに着替えていた。
「私もシャワー浴びてくるから、もう少し待ってて……」
低いベッドに腰かけ、改めて部屋の中を見まわした。スチールラックには、DTM用のオーディオ・インターフェースや、MTRなどの録音機材、ミキサーかエフェクターのような機材がプラスチックのカゴや箱に整理して収められていた。
立ち上がり、閉まっていたバルコニー側のカーテンを少し開けてみると、防音仕様なのか窓ガラスが二重になっていた。
外の景色が見えたことで、一瞬だけ興奮が冷めた。
(ひと月も予備校を休んでいる五星塔子は、今ごろ何をしているだろうか? 机に向かって勉強しているだろうか? 美月さんと寝たことを知ったら塔子は軽蔑するだろうか? 『童貞は一刻も早く捨てるべし』と言っていたミチスエはどう思うだろうか?)
ベッドに寝転ぶと、壁の向こうから美月がシャワーを使う音が聴こえてきて、また興奮した。
滑らかな肌。胸のふくらみ。丸みを帯びた二の腕。柔らかい髪の香り。どう考えてみても、もうすぐ目の前に現れる彼女の裸体に触れたいという欲求には、抗えそうになかった。
美月がバスルームから出てきた。起き上がろうとすると、美月は「そのままでいいよ」と優しく言った。
バスタオル一枚の姿の彼女はベッドの上に腰を下ろした。ボディーソープの匂いが間近で香り、美月が覗き込むようにキスをしてきた。
ショートヘアの濡れた毛先が頬に当たった。やがて彼女の唇が首筋に落ちてきて、濡れた毛先は胸に沈み込むように触れた。
美月が自分のバスタオルを取り、肌を露わにして、再び唇を落としてくる。上から彼女の身体の突起がこちらの肌に触れた。
胸のあたりに、くすぐったいような感触と、その質量を感じた時、どうしていいのか分からずに訊いた。
「さわっていい?」
「うん」
右手を伸ばした。美月の肌は滑らかだった。とろけるようなぬくもりを感じた。初めて触れる女性の肌に興奮しながら、ぎこちなく美月の二つの突起をまさぐりつづけた。
「いたい……」美月が言った。「いたいよ、ヤマトくん。優しくして」
「ご、ごめん」
美月と身体を入れ替えてからもぎこちなかった。
人差し指や中指で触る方がいいのか、親指の腹で触れるのがいいのか、分からなかった。反応を探りながら唇を寄せて、舌を這わせた。美月が吐息を漏らした。
ボディーソープの匂い、うっすらとかいた汗。舌を這わせた後に、しばらくしてから再び頬を寄せると、滑らかな肌の表面に、微かな湿り気を帯びた冷たさを感じた。
右手を背中から腰へ回し、身体を開かせた。彼女の中に恐る恐る手をやると、軽く触れた指先がすべるほど滑らかになっていた。
添い寝した美月が、こちらの腕を触りながら言った。
「華奢だと思ってたけど、意外と筋肉質なんだね。でも、ヤマトくんの手は、女の子みたいで、丸っこくて、あったかいよ」
「それって、褒められてんだか、けなされてんだか、分からないな」
「褒めてるのよ」
「美月さんの肌も、ツルツルで、すごく触り心地よかった」
「ありがと。温泉地の出身だからね。これだけは自慢できるかも」
隣でしばらく言葉を交わした後、美月が言った。
「明日も朝から授業でしょ。遅くならないうちに帰って。電車がなくならないうちに」
どうすればいいのか分からず、ためらっていた。美月は、「もう大丈夫だから。今日は本当にありがとう」と続けて言った。
着替えを済ませ、クリアケースとカバンをもって菊原美月の部屋を出た。
終電も近くなった町田の街は、人影もまばらになっていた。
(何かが変わっただろうか? 少しは透明な心に近づけただろうか?)
町田駅から電車に乗り、なるべく人のいない場所に立った。使ったばかりのボディーソープの匂いや、髪についた美月の残り香で、周りの人たちに何かを悟られそうな気がした。
家に着くと家族はもう寝静まっていた。部屋に荷物を置いて、改めて風呂に入った。初めて女性の中に入ったものは、少し赤くなっていた。
ふいに美月の身体を思い出してしまうと、また起ってくる。すぐには治まりそうもなかったので、風呂場でもう一度抜いた。
頭の中の妄想は、童貞を捨てた後も、なかなか消えそうにはなかった。
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




