夏のさかりの町田(5)
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九月のはじめ、現役生たちが高校に戻ったため、また自習室には余裕ができた。
二学期の講義の初日が明日に迫っていた。予習は早めに済ませ、夏期講習期間中の集中講義で溜まりに溜まってしまった復習を黙々とこなしていく。
朝からTOPビル六階の自習室に入り、食事とトイレと短い休憩時間以外はずっとそこで過ごした。空調の微かな音も、他の学生たちがたてる細かい物音も、自然と意識の外へ追いやられていた。
ふと顔を上げると、ガラス張りの壁の外は黄昏色に変わり、やがて日が落ちて外は暗くなった。時計を見た。あと一時間半ほどで自習室が閉まる時刻になっていた。
空席が目立ちはじめた。人が少なくなったことで室内の物音の響きが高くなったように感じられた。
集中力が途切れてしまったので、机の上に広げた英語長文読解のテキストとノートを何度かめくり返し、今日手をつけることができた分量の確認だけをしてページを閉じた。
深く息をつき、クリアケースとカバンに勉強道具を全てしまい込んで席を立った。六階から階段を下り、そのまま五階を通りすぎた。
階段の途中で携帯の電源を入れると、電源を切っていた間にメールが一本入っていた。菊原美月からのメールだった。
『いまTOPビルの下にいるんだけど。ヤマトくん、いま自習室? 降りてこられないかな? ちょっと下で待ってるから。もしメール見たら返事くれる?』
もう二時間ほど前のメールだった。ひとまず階段を一階まで下りてみた。
ファストフード店は営業時間を終えていた。立ち食い蕎麦屋のショーケースの前に中年サラリーマンが一人立っていたが、美月の姿はなかった。
踏切の警報音が高らかに鳴り、小田急線の下り電車が厚みのある警笛と車輪の音を響かせながら町田駅のホームへ滑り込んでいく。
メールを打とうかと携帯を開いた時、後ろから急に右腕をつかまれた。驚いて振り向くと、リクルートスーツ姿の小柄な女性が右腕に絡むように抱きついてきていた。菊原美月だった。
「おそーい。待ちくたびれたぞ。なーんでメールの返事くれないのよ?」
美月はいつもと口調が違う。密着されているので右ひじが彼女の胸に当たっている。
「ちょ、ちょっと。美月さん。前にも話したでしょ。湘北予備校の自習室ってすごく厳しいんですって。机の上に携帯置いてるだけで、見まわりのチューターに怒られちゃうんだから……」
「そういう問題ではなーい。そういう問題ではないぞ、ヤマトくん。予備校の自習室にいるのか、中央図書館にいるのか、それとも相模原の図書館にいるのか。
いつ出てくるのかさえも分からないヤマトくんを、ここでずっと待ってた私のしおらしさを、君は評価してくれないわけ?」
やはり美月の口調はいつもと違った。少し酒を飲んでいるようだった。
「は、はあ」
階段を下りてきた湘北予備校の何人かの学生が二人の傍らを通りすぎていった。
五星塔子はまだ予備校に復帰してきていなかったが、知り合いの学生やチューターに目撃されてしまいそうで、不安になった。特にゴシップ好きのイヨなどに目撃されれば厄介なことになる。
右腕に抱きついたまま、美月が思い出したように言った。
「あー、そうだ。ヤマトくんが、こないだ図書館で『エロい小説』読んでたこと。予備校のお友達の前でバラしちゃおっかなー」
(やはりあの時……。図書館で遠藤周作の『深い河』の単行本を開いていた時……。無我夢中で読んでいた内容を、美月さんに覗かれていた……。)
言葉を失いかけながら、急激に込み上げてきた恥ずかしさを振り払うようにして美月に言った。
「こ、子供みたいなこと言うなよ。ガキじゃないんだからさ」
途端に菊原美月の顔が曇った。いつも明るく、ほんのりとした優しさが浮かんでいるはずの口元に、見る見るうちに深い翳が広がった。
美月は、小さな身体に浴びせかけられた言葉を、我慢して飲み込むような淡い表情を浮かべた。短い沈黙の後、美月は言った。
「子供みたい……たしかにね。ヤマトくんの言うとおり。今日、面接官にも同じこと言われちゃった。『いまは子供みたいな夢ばかり語っていられるご時勢じゃないんだよ』って」
右腕に絡みつけていた細い腕をほどいて、美月は地下道に続く階段の方へ歩き出した。
一瞬の間を置いて、線路の下をくぐる地下道を小走りに遠ざかる靴音を追いかけた。黒革のバッグを左の肩にかけた美月の歩幅は小さく、すぐに声の届く距離まで追いつく。
「ごめん。オレ、気に障ること言っちゃったか? 今日の面接、上手くいかなかったのか?」
地下道を照らす照明のひとつの電球が、切れかかっているのか、点滅を繰り返していた。カリヨン広場に続く階段を上りながら、美月が背中を向けたまま言った。
「帰りなよ。今日もお勉強あるんでしょ。マジメな浪人生は、大好きなギターを弾く時間も、遊んでる余裕もないんでしょ」
「放っておけないよ。そんな状態になってる人を」
地上に出てからも、美月は背中を向けたまま夜の商店街を歩いていく。二歩三歩の距離を置いて小さな背中を追った。
ヘッドセットを着けたカラオケ店の店員が、微妙な距離で歩く二人の関係を瞬時に判別できず、声をかけるかどうか戸惑ったような表情を見せた。
黒服のキャバクラの呼び込みも、一瞬だけ近づくそぶりを見せてから、身体の向きを変えた。
営業時間が終わり店内照明の落ちた古本屋の前を通りすぎた。仲見世通り商店街のあたりまで来ると、人影は少なく、客引きもいなくなる。
中央図書館の方へ渡る小さな交差点の赤信号に美月は立ち止まった。車はほとんど通らない。渡ろうと思えば、赤信号を無視して渡ることもできるような小さな交差点だった。
「帰りなよ。忙しいんでしょ」
「だから。放っておけないって」
信号が青に変わっても、美月は渡ろうとしなかった。しばらく沈黙が続いた。
目の前の青信号が再び赤に変わる頃、ようやく美月が口を開いた。
「ヤマトくんがくれた、町田天満宮のお守り。就職成就のお守り。あれ、もらったからね。今度こそはって頑張ったんだけどね。
せっかくヤマトくんがくれたのに、また私が就活失敗しちゃったら……、ご利益ないみたいになっちゃうから……」
渡したお守りが、かえって美月の心に重荷を与えてしまっていたようだった。
申し訳ない気がして、背中を向けたままの美月に言った。
「焦らなくてもいいよ。神様のご利益は、きっと一回きりじゃないと思うから。たぶん。それに、どっかにもっと、美月さんに合ってる仕事があるってことなのかもしれない」
ようやくこちらを振り向いた菊原美月の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「優しいんだね。ヤマトくん。でも、優しすぎる人はモテないんだよ」
夜の街の灯りが映り込む薄い涙の中で、静かに微笑んだ美月の表情は、息を飲むほどに美しかった。会話の余白を埋めるためだけの継ぎ足しの言葉は、もう何も思いつかなかった。
そして美月が、つぶやくように言った。
「ヤマトくん。ほんの少しの時間だけでいいから、私のそばにいてくれないかな?」
(『ねえ、ヤマトくん。そばにいてくれない?』)
いつか五星塔子が、予備校の講師控え室の前で言ったのと同じ言葉だった。ただ、その同じ言葉に込められている感触が違っていた。
「そばにいてほしいの。ほんの少しだけでもいいから……。私の部屋にきてくれない?」
美月のまっすぐな目を見て、その意味が分かった。
「う、うん」
交差点から続くなだらかな上り坂の道を、芹ヶ谷公園の方へ歩いていく。一階にカフェの入った高層マンションの傍らを過ぎると、歩道は狭くなり街灯もまばらになった。
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




