夏のさかりの町田(4)
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八月のはじめ、早めに教室に入って、夏期講習の講義が始まるのを待っていた。
廊下から入ってくる学生は、みんな外の熱気に火照ったような表情で、中には駅前で配っている分譲マンションの団扇で顔をあおぎながら入ってくる者もいた。
土佐ミチスエが、模擬試験の成績表を手にしてやってきた。ミチスエは泣きそうな顔をしていた。
「七月の模試で古文の点数がまた下がっちゃってさ。苦手を克服しようと思って頑張ってたのにこのアリサマだから、もうこれ以上何も手の打ちようがなくて。
このままじゃ古文が国語全体の足を引っ張って……、国語が三科目総合の足を引っ張って……、もうぜったい第一志望なんて受かりっこないんだ」
ミチスエがあまり大げさに言うので慰めた。
「まあ、そう悲観的になるな。誰にでも一科目くらい苦手はあるよ」
スポーツクラブの団扇でミチスエの顔をあおいでやった。
「それで、神社にお参りでも行こうと思って。駅の近くに有名なのがあるらしいんだ」
「ふーむ、神だのみか。まあ、それでも、何もしないよりはマシかな」
「町田天満宮っていう神社」
「天満宮? そうか、菅原道真が祭られてるところなのか。学問の神様だし、それは古文が苦手なミチスエにはぴったりかもしれないな」
次の休み時間、ミチスエに付き合って、さっそく町田天満宮に行ってみることになった。
TOPビルの前の踏切を渡り、カリヨン広場から町田中央図書館まで東西に伸びる人通りの多い商店街を歩いた。太陽は高く昇っていたが、ビル陰も多く、時折通り抜ける風に息をつくことができた。
中央図書館とホテルの裏手を通って右に曲がると、JR横浜線の線路をまたぐ陸橋が見えた。
その陸橋を渡り、最初の交差点を左に折れ、マンションに挟まれた静かな並木道を進むと歩道橋の向こうに町田天満宮の鳥居が見えた。
境内に入って手を清め、石畳を歩いて拝殿の前に進む。ミチスエと並んで賽銭を投げ入れ、柏手を打って拝んだ。参道を挟むように置かれた狛犬と、伏せた牛の像には迫力があった。
「お参りしただけじゃ不安だ。お守りでも売ってないかな?」
ミチスエが弱々しい声を出し、社務所の方に歩いていくので、後ろからついていった。足元に敷きつめられた砂利がサクサクと音をたてた。
社務所の木箱の中には、たくさんのお札やお守り、根付などが並べられていた。天満宮らしく、割合としては学業成就や合格祈願といったものが多く、受験用の合格鉛筆や絵馬も何種類かあった。
その中にあった「就職成就御守」という珍しいお守りに目が留まった。
(就職成就……。美月さんにプレゼントしてあげたら喜ぶかな……。)
「お守り買ってもまだ不安だ。オレ、もう一回拝んでくる」
ミチスエがそう言って再び拝殿の方へ歩いていったので、財布を出して「就職成就御守」を買った。巫女さんに、町田天満宮の赤い文字の入った紙袋に入れてもらった。
境内を出て、商店街のレンガ敷きの道を予備校に向かって歩きながら、考えていた。
(たいして親しくもないのに急にこんなものを渡したら、ひかれてしまうだろうか……。)
勢いでお守りを買ってしまったことを、後悔しはじめていた。
お参りを済ませ、すっかり元気になったミチスエが言った。
「意外と近くてよかったな。勉強の息抜きで散歩に来るのに、ちょうどいい距離だよ。ついでに天満宮にお参りもできちゃうわけだしさ」
「そうだな」
飲食店の店先に置かれた無料の就職情報雑誌のラックが目に留まった。Tシャツにジーンズ姿の若い学生風の男が、ラックの前に立って熱心にページをめくっていた。
(渡そう。せっかく買ったんだし。少しでもご利益があるなら。)
定食屋で、寂しそうに就職活動の難しさを語っていた菊原美月の顔が思い出された。
その日、本校舎で4限の講義を受けた後、美月にメールを打った。
しばらくして、バイト中で店内にいるという返事が来たので、少しの時間だけ出てこられないかと返信して、本校舎の裏手にあるタバタ楽器の通用路まで彼女を呼び出した。
非常階段のところで待っていると、バス通りの方から黒いポロシャツ姿の美月がやってきた。
「どうしたの? ヤマトくんからメールくれたのなんて初めてじゃない?」
「うん、ちょっとね。すぐに渡したいものがあったから」
町田天満宮の小さな白い紙袋を、両手で美月に手渡した。
「これ、美月さんにあげるよ。こないだ友達と一緒に行ってみたんだ」
白い袋の表面に印刷された「町田天満宮」の赤い文字を見て美月が訊いた。
「え? なに? お守り?」
「タバタ楽器にもっていっても良かったんだけど。もしかしたら、こういうのをバイト先にもってくのはマズイのかなと思って。よく分からないけど」
美月が袋を開けた。中から取り出した青紫色の「就職成就御守」を見て彼女は一瞬黙り、やがて嬉しそうに表情を崩した。
そして、弾けるような笑顔を見せて言った。
「ヤマトくん。こないだの話、覚えていてくれたんだ? 嬉しい……、嬉しいな。これ、大切にしなきゃ。今度また一社、面接を受けに行くんだ。さっそく、カバンに入れてもっていくね」
美月が、こちらが想像していた以上の泣き出しそうな笑顔を見せて喜んだので、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
慌てて言葉を付け足した。
「そ、そうだ。前にもらったCDのお返ししてなかったから。それのお返しのつもりだから」
「う、うん。なんでもいいや。嬉しいことに変わりはないから。心にしみるなあ。ヤマトくん、本当にありがとう。それじゃ、私、まだバイト中だから、お店に戻るね」
菊原美月はこちらに手を振りながら、小走りに通用路からバス通りの方へ消えていった。
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八月も半ばを過ぎ、最高気温が三〇度を超える日が、ほとんど毎日続いた。
高校が夏休みの期間に入ってから、現役生たちも早い時間からやってくるので、予備校の自習室は混み合うようになった。
町田中央図書館の学習室の整理券配布にも朝から行列ができ、淵野辺の相模原市立図書館の広い読書室も午前中のうちに席が埋まった。
通常の講義は、各科目週一回のペースで進んでいくのだが、夏期講習は同じ科目の講義が一週間・二週間と集中的に毎日連続で行われるので、予習・復習をこなすのが大変だった。
油断しているとペースが崩れていくので、講義が終わると自習室を覗き、席が空いていなければ淵野辺の市立図書館に移動し、そこも満席なら自宅に戻って勉強した。
夏期講習が始まってから、もうひとつ気になっていることがあった。
八月に入ってから五星塔子が予備校に姿を見せなくなっていた。八月の前半にあった英文法の集中講義には一度も現れず、今日から始まった古文の集中講義の初日にも塔子の姿はなかった。
(他の予備校の夏期講習をとったのだろうか? それとも体調でも悪いのだろうか?)
気になったので、丹波チューターに塔子から何か連絡が入っていないか尋ねてみた。
「八月の初めに本人から連絡があって、なんかちょっと事情があるらしくて、八月いっぱいの講義を休むって言ってたよ。
本人からの電話だったから、事故とか病気とか、そういうことじゃないとは思うけど。家庭の事情とか、そんなようなことじゃないかな」
「はあ。そうですか」
「九月から復帰するんじゃないかな。欠席した講義の内容、本人が補講の申請を出すかもしれないけど、ヤマトくんも模試のライバルのよしみで、何か訊かれたら教えてあげてよ」
塔子が病気でもなく、湘北予備校を辞めたわけでもないことが分かり、ひとまず安心した。
講義が終わってTOPビル六階の自習室を覗いてみたが、後ろの通路に席の順番待ちができているような状態だったので、予備校の自習室は諦めて、電車で淵野辺の相模原市立図書館に移動した。
正面の自動ドアから館内に入った。左手の階段ホールを二階に上る途中で、中学校の同級生のイヨに会った。イヨも湘北予備校の町田校に通っていて、科目は国語の現代文と日本史で重なっていた。イヨはこちらの姿を見つけると、なれなれしい感じに絡んできた。
「あのさ。あのさ。ヤマちゃんが、湘北の教室でお弁当一緒に食べたり、話したりしてる、あの女の子って、聖学館女子の五星塔子ちゃんでしょ?」
「ああ。まあ、そうだけど」
「二人って、霧峰学園と聖学館女子で、神奈川と静岡で、どう考えても全然接点ないのに、いつからあんなに仲良くなったわけ?」
「いや、別に……。入学ガイダンスの時に、ちょっと話してから、その……」
「なに? ナンパ? やるなあ、ヤマちゃん」
「ナンパじゃねえよ」
「いいなあ。普通なら、暗~い浪人生活になるはずが……。どう見たって相思相愛じゃないの。え? 今から楽しみだね、来年の春が。どうせ『同じ大学に行こうね』とか言い合ってるんでしょ」
慌てて、五星塔子とはお互い違う大学を狙っているということをイヨに丁寧に説明した。イヨは「またまた」と言って取り合おうとしなかった。
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〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




