夏のさかりの町田(3)
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夏場になり、TOPビルの自習室での勉強がマンネリ気味になってきていた。
気分を変えるため、町田中央図書館の学習室で勉強してみることにした。
JR町田駅のホームに降りて普段とは逆方向に進み、市営駐車場側の改札口から外へ出る。二階デッキを進んだ。
百円均一ショップの前を通り過ぎると、中央図書館が見えた。ホテルに隣接した、真っ白な壁の建物だった。
屋外の熱気にさらされながら朝九時台に配られる学習室の整理券をもらい、長いエスカレーターを五階まで上った。五階フロアからは階段を使い、書庫の隣にある学習室に入った。
軽く見まわしてみたが、知り合いは一人もいなかった。昼まで集中して勉強した。
休憩をとろうと学習室を出た。映写室の横を抜けて、長い階段を五階まで下りる。五階から四階にエスカレーターで下りながら、ふと先日の五星塔子との会話を思い出した。
塔子の出身高校がカソリックの学校だと聞かされた時、頭に思い浮かんだのが遠藤周作の小説『沈黙』だった。そのまま四階の文芸書のコーナーに向かった。
町田中央図書館の書棚にあった単行本の『沈黙』は、文庫版のものとは違って、古い日本地図がデザインされた表紙だった。その地図に描かれた日本列島には北海道がなかった。
拙い知識の中で、キリスト教やカソリックに対して抱いている漠然としたイメージは、この小説に影響されている部分が大きいように感じられた。
五星塔子という女性を少しでも理解したくて『沈黙』を再び手にとってみたが、あまりヒントにはならないような気もした。
遠藤周作の棚に『沈黙』を戻し、まだ読んでいなかった『深い河』を手にとった。
たまたまページを開いたところが、美津子という女が気弱で無垢な男子学生をマンションに連れ込んで誘惑するというシーンだったため、思わず入り込んで読み耽ってしまった。
美津子は、清教徒の学生を誘惑したフランスの小説の登場人物になぞらえて学生仲間から「モイラ」というあだ名をつけられている、という設定の女だった。
書棚の前に立って本を読んでいる間、背後を何度か人が通ったような気配を感じていた。内容に夢中になっていたので、それほど気にはしていなかった。
そのうち、それと同じ人影が、左側に柔らかい香りとともに留まった。
「へえ、音楽だけじゃなくて、小説も好きなんだね」
声に反応して振り向くと、菊原美月が立っていた。タバタ楽器の制服ではなく、胸元にフリルの入ったブルーのシャツを着ていた。
服の色とのバランスのせいなのか、館内の照明のせいなのか、髪色がいつもより黒っぽく見える。
慌てて、手にしていた『深い河』のページを閉じた。男子学生が美津子に誘惑されるシーンを熱心に読み耽っていたのを、美月に知られてしまいそうだったからだ。
美月は『深い河』の表紙に目をやると、「ふーん。渋いの読んでるんだね」と言いながら本を自分の手にとり、ページをめくりはじめた。時々手をとめて文章を眺めている。
美月が問題の部分を読む前に話をそらそうと、適当な思いつきの話題をいくつか彼女に振った。
「あれ、今日って、仕事は休みなんですか?」
「うん。私、バイトだからね。今日はシフトが違うのよ」
「この図書館、よく来るんですか?」
「たまにね。ここのすぐ裏に住んでるから。ここから、芹ヶ谷公園の方に少し行ったところ」
そう言うと美月は、『深い河』のページを閉じ、こちらに差し出しながら訊いてきた。
「借りるの? この本」
「い、いや。また今度にします」
美月は無言でひとつうなずき、手にした本を書棚に戻しながら言った。
「ヤマトくん。お昼ご飯、もう食べちゃった? まだなら一緒に行かない?」
美味しい定食屋さんがあるという菊原美月について図書館を出た。手近な階段からデッキを下りて、商店街の中を少し歩いた。
屋外の明るい空の下に出たが、美月の髪はやはり前より黒っぽくなっている感じがした。気になったので美月に髪色のことを尋ねてみた。
「え? 分かる? ちょっと落ちついた色に戻したんだ。こないだ就職の面接があったからね。お店の人とか、普段会ってる人って、なかなか気づいてくれないんだけど」
「黒っぽい髪も、よく似合ってますよ」
「ありがと」美月は横顔で照れたように笑った。「お世辞でもうれしいよ」
何か言葉を返そうとした瞬間、「ここのお店だよ」と美月が言った。
定食屋と聞いて古くさい店を想像していたが、コンクリートの階段を地階に下りて入った店内は、壁の色からテーブル、椅子、店員の服装、調味料の容器、装飾の小物まで、統一感のある雰囲気で小ぎれいにまとめられていた。
昼時で女性の客も多かった。
写真付きのメニューを見て、揚げ物の定食を選んだ。美月は煮物の定食を注文した。
品のよい切子のグラスの水を飲みながら、美月に訊いた。
「あのバイトって、もう長いんですか?」
「町田のタバタ楽器は四月から。学生の頃にも他の楽器屋さんで少しやってたけど」
「学生の頃?」
「一応、音大を出てるの。短大だけど。卒業したのは今年の三月」
菊原美月からもらった『ツクヨミ』というタイトルのCDに入っていた楽曲の音色を思い出した。
(あのCDに収められていた曲も、確かに素人離れしたものが多かった。)
「音大の人って、どこで練習するんですか?」
「学校の練習施設もあるけど、アパートが音大生対応で防音仕様になってたりするから。時間が限定されてるところもあるけどね。うちは一応、二十四時間、いつでも音を出せるんだ」
「へえ。すごいな」
美月はこちらの顔をまじまじと眺めると、目を細め、弾けるような笑顔を見せて言った。
「急に目が輝いたね。ヤマトくん。やっぱり音楽、好きなんだ」
店員がお膳をテーブルに運んできたので、そこで一度会話が途切れた。
米粒が立った白飯を口に運び、揚げ物をかじった。いい香りを漂わせている味噌汁を一口すすってみた。魚と昆布のだしがよく出ていた。
美月は小鉢の細切りコンニャクの和え物を美味しそうに食べている。よほどその和え物が気に入っているのか、「ああ、美味しい」を連発しながら満面の笑みを浮かべていた。
「美月さん。ずいぶん、うまそうに食べるんだね」
「私、コンニャク大好きなんだ。地元の名産品だからね」
「地元?」
「言ってなかったね。私、群馬県の草津出身なの。分かる? 群馬の草津って」
「あ、あの。温泉の」
美月は煮物を口に運びながら、「そう。あの草津」と大きくうなずいた。
食事を終えると店員が緑茶を入れてくれた。さっぱりとした渋味のあるお茶だった。
内側と外側がツートンカラーになった小ぶりの茶碗を口に運びながら、美月に訊いた。
「さっき、就職の面接を受けたって言ってましたよね?」
「うん。本当は短大を卒業して、そのまま普通に就職したいって思ってたんだけど、一年間就活しても全然決まらなくて。
いま四年制の学生でも、ものすごく厳しい状況みたいで。音大で、しかも短大のポピュラー音楽科でしょ。全然つぶしがきかないっていうか……」
「やりたいのは、やっぱり、音楽に関連した仕事?」
「初めはそれなりにこだわってたけど、一般の企業に就職したいっていう気持ちもあって。途中からは、もう何でもいい、どこでもいいみたいな感じになっちゃって……」
ため息をつくように一呼吸入れて、美月は続けた。
「なので卒業した後は、フリーターしながら時々就活して、空いた時間に音楽をやるような感じの生活。でも、やっぱ就活の方がずっと厳しいね」
「タバタ楽器みたいな楽器屋さんに社員として就職するってのは、ダメなのかな?」
「楽器屋さんの仕事はもちろん好きなんだけど、ずっとやっていくとなるとね。もっと他に何かあるんじゃないか、ふさわしい場所があるんじゃないかって思えてきちゃうんだよね」
そこまでゆっくり話すと、美月は急に謝った。
「ゴメンね。暗い話で」
「いえ。いいですけど……。でも、美月さんって明るくて、あんな素敵な曲が作れて、仕事もマジメにやる人なのに、どうして採用してもらえないんだろう?」
「たぶん。それは……、私自身に迷いがあるからだと思ってる」
「……」
「他の誰かのせいにするのは簡単だけど、正直、私自身が迷ってるから。あんまり誰かのせいにはできないな……」
菊原美月は寂しげな表情でそう言った。
いつもタバタ楽器の店内で明るい笑顔を振りまき、冗談まじりに絡んでくる美月に、初めて陰の部分を見たような気がした。
美月と、携帯の番号とメールアドレスを交換して店を出た。来た道を引き返し、中央図書館の裏手のレンガ敷きの通りで別れた。
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【参考文献】
遠藤周作(1996) 『深い河 ディープ・リバー』 講談社(講談社文庫版)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/




