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 この迷宮に終わりはあるのだろうか。

 潮がそんな不安を感じるようになったのは、下級夢魔族襲撃を蹴散らして二十分ほどが経過してからである。

 そもそも道案内をする燃燈毬だって実際に足を踏み入れるのは始めてだという。

 昔、見た地図を頼りに潮が進む方角を指示しているのだ。その昔というのは彼が生まれる以前であることに疑いを持たない。

 地上で言うならば、東京都の中野区、練馬区、世田谷区に跨がる広大な地下迷宮は、もはや地底都市と呼べるほどの規模であると判明していた。

 しかも、彼らは水平移動してるのではなく、立体移動、つまりどんどん地下深くへ潜っているのだ。

 五月の気温は巻き戻され、厳冬の肌が凍てつく空気に変わっていた。

 薄着のエマ=クエーガーは露出している色白の肌を摩擦で温めようとしていた。二の腕である。

 毬は早々に寒さを訴え、今は潮のジャケットを羽織っている。

 災難はその彼であり上着を奪われ、さらに強奪した子供を背負わされている。

「煙草は吸わないのね。見た目によらず。まあ、当然よねぇ。次の角を左に三回、立て続けに曲がってぇ」

「左に三回連続で曲がると元に戻ってくるんじゃねぇのか?」

「いいのよ。薄暗くてわからないでしょうけど、微妙に下り坂になっているから、今走ってきた道の下を通るのよぉ」

 解説をしてくれるので安心していたのだが、捉え性のない潮は言われた通りに曲がりながら質問をした。

「犬屋敷にはいつ到着するんだ?時間がないって言っていなかったか?」

「もうそんなに時間はかからないわ。ここって敵の侵入を阻むのを目的に作られたから、無駄に入り組んでいるだけよ」

「それは歴史の授業で習ったからいいんだが、なんだってそんな地下に犬屋敷なんか作ったんだろうな」

「一六三七年に勃発した島原の乱やポルトガルとの貿易を中止したりなんかして、徳川幕府は軍備増強に迫られたらしいわ。国内の各藩領に力を示す必要があったのよ」

「なるほど、それで?」

「まあ、増やしすぎたのよぉ。戦国時代でもあるまいし無駄飯食らいの侍がそこら中に溢れていたと言うわ。そこで幕府は考えたのぉ。江戸城大手町の城門前に奉じられていた、幾つかの美姫を他の場所に移そうと。ここはその政策の一つね。社に見立てた屋敷を作り参拝者の警護をする名目で参拝料を取り、おまけに役に立たない侍に仕事を与えた。建築と警護の二つも。建築から五十年ほどが経って、悪法、生類憐れみの令が発令され人が訪れることはなくなったというわ」

「なるほど。ちゃんと理解したぜ。その頃はまだお前さんは生まれてなかったのか?」

「本当に?後でテストするわよぉ。私が生まれたのはそれから百年ちょっと後よ。十一代将軍、家斉公の時代なの。毬のように可愛い子だったから、そのまま毬になったらしいわ」

「もっと捻れよ」

「うちの父は天然ボケだったからぁ。飼い犬だって、犬壱号、弐号って呼んでいたもの」

「幾つもの幕府に使えてきた偉人が天然とか聞きたくねえよ。親父さんが作った法律なんてまだ普通に使われてんだろうが。無限受胎の法とかな。八剣士が使った七つの美姫全部は都内各地に奉納されているよな?その時に一斉にやったんじゃないのか?」

「別に深い意味はないでしょうけど。その時代の事情というか都合によるわね。ちなみに聖剣システィーナが七つのうち一番最後に大手門から移動することになったわ。私の指示なんだけど、忠犬ハチ公の銅像があそこに建ったときにね。忠犬と聖剣を掛けたのぉ。どう~?」

 どうっと聞かれても困る。返答に窮した潮は別の話題に変えた。

「八剣士なのに美姫が七つっておかしくないか?数が合わないぜ」

「あなた本当にこの世界で生まれて育ったの?そんなの常識だと思っていたけど。い~い?室井智の聖剣システィーナ、燃燈刹那は賢者の鞭グレイス、源恭介が流星弓ライズリーン、蓮池ルリの双剣ライカとフウカ、雲霧斬左衛門の聖槍ソーシャ、渋川穂高が黄泉の王笏エリカ、甲良竜之介は巨人の斧ルファード。奉納されているのは以上の七人分七つよ。最後の一つ闇の衣クレオパトラは美姫の持ち主である赤帝が保有しているわ。ちなみに美姫と呼称されているのは、八つ全てが女性名をもっていたからよ。ここには渋川穂高が使った黄泉の王笏が奉じられているわ」

「美姫は室井智の所有じゃないのか?」

「違う違う。室井智は赤帝から賭博で巻き上げただけよ。赤帝は八回連続で負けたらしくて、さすがに最高位のクレオパトラまでは差し出せないと思ったらしいわ。天草四郎討伐に付き合うということで見逃してもらったらしいけど。それも討伐後は美姫を赤帝に返すという約束を無視して、自身の血族にしか解けない封印を施して姿を消したのよ。怒り狂った赤帝も室井智を追ってどこかに行ってしまったわ~」

「……とんでもないペテン師だな」

「その後、赤帝は諦めたらしいわよ。まあ、いつかは全ての封印が解かれるでしょうってね。エルフ以上に寿命を持っている方だから、気長に待つことにしたのでしょうね。あの人こそどこにいるのやら」

 エマ=クエーガーが後日談を加えてきた。その口ぶりはまるで知人がどこかに引っ越しした数日を語るようである。

「エルフの方でも有名人なの?」

「有名というか、最後にあったのは一昨年よ。変わらず綺麗な人だったわ」

「え~?私もあったことないのに!サインもらっておいてぇ」

「気まぐれな人だから、来ない時は何十年も顔を出さないのだけど。ほら、私って螺旋樹の里では螺旋樹の苗木を育てているのよ。螺旋樹って、世界安定のためにあらゆる不浄を吸収しているじゃない?ときどき痛んだ所に苗木を植え付けて補強するのが私の役目なのよ。放っておくと幹の表面が剥がれ落ちて『螺旋樹の欠片』なんておっかない魔物になっちゃうじゃない。それを防いでいるのよ。だから、赤帝も里に来た時には必ず私の作業場でお茶を飲むわ」

 お茶は関係ないだろうが、この色情エルフがそんな大役を任されていると、初めて聞いたのは潮だけではなかった。

「あなたが人間界に滞在している間は、誰が螺旋樹の世話を代わりにみているのかしらぁ?」

「放置よ」

「おい!」

「大事な役目を放ったらかして、どうして里から出てきたの?」

「愛する人のお手伝いができるのなら、多少、螺旋樹が傷物になっても構わないわ。あの樹って丈夫だからそうそう駄目にならないし、すぐに治るわよ」

 自分たちの信仰対象への言葉とは思えなかった。

「そうねえ」

「納得するんじゃねえよ!なんなんだ、お前らは!」

 歌舞伎町最強などと囁かれる自分が酷く矮小な存在である気がした。

「はい、到着。リーゼント戦車停車。降ろしてぇ。上着ありがと。返すわ」

 少し汚れてしまっているジャケットを脱いで手渡し、自身の臭いをクンクン嗅いで確かめた。

「安い香水ねぇ」

「うるせえよ」

 格安店で買ったとはいえ、ちゃんとしたブランド品にケチを付けられれば文句も言いたくなる。

 木の枠で作られた通路はすぐそこで終わっていた。

 やはり、暗闇に包まれていたが、そこには今までとは違う広い空間があるのを肌で感じていた。風の流れが変わったのだ。

 毬が創りだした光源もすっかり小さくなっている。

 再びその光を大きくして前方に放った。

 光は遠ざかり三人は闇に隠された。

「あの夢魔族が約束を守っていたら、二人を助けるわ。もし、破ったなら瞬殺決定よぉ」

 物騒な宣言をした毬を先頭にして歩き出した。

 蛍のようにか弱い光を放っていた光球が天井に向かって登っていった。

 どこまで行くのかと心配し始めた頃、弾けた。

 周囲は日中の光度に晒され、毬が指定した犬屋敷が姿を現す。

 同時に何者かの轟音が轟く。

「木挽町の歌舞伎座に似ているな」

 耳を塞ぎ率直な感想を漏らしたのが潮であった。

「そうね。デザインとしては全くと言っていいわ。老朽化はこちらのほうが進んでいるでしょうけど」

 通路から石畳が一直線に伸びる先に、歌舞伎座があった。

 派手な着色、日本風建築ともかけ離れた二階建ての建物の屋根にマガラスと若菜がいた。

 背後から羽交い絞めにされてはいるが生きている。しかも、その手には聖剣となにやら棒状の物を握っていた。

「黄泉の王笏ぅ」

 一目見て看破した毬は言葉を失った。

「遅かったね。退屈だったからここの美姫を開放してやったよ。お礼はないのかい?それにさっきの私の声でお前たちが来たことを知ったブルーノが、ようやく受肉を再開したことだろうね。残り半分、数分といったところかな。約束は守ったよ!この犬屋敷のどこかにいるブルーノを探し出して受肉を止めてみせるがいい!」

 格調高く、もはや勝利宣言に等しい雄叫びを上げる。

「ま、毬ちゃん!」

 若菜が悲痛に叫んだ。

「もう無理よ!楽にしてちょうだい!お願い」

 彼女の意図を正確に把握したのは毬だけである。

 他の者には人質になるくらいなら死を選ぶという覚悟のように聞こえた。

「おい!諦めるな!」

「そうよ、もう少し頑張ってくれれば、いま私が助けるわ!」

 次々に声援を送る。しかし、それももう腹を括った若菜の決意を変えることはなかった。

「判ったわ。せめて一思いに苦しまないようにしてあげる。動かないでぇ」

 毬は右手を若菜に伸ばし集中する。

「おい!」

 制止は間に合わなかった。

「ああー!」

 短い悲鳴を残して若菜は力を失ったように崩れた。両手にしていた聖剣と黄泉の王笏が離れ、屋根から落下する。それが地面に落ちるのと、右側で水を撒いたような音が重なった。

「本当に殺しやがった!助けに来た仲間を殺すなんて、お前は狂っているー!」

 マガラスはもはや動かぬ若菜を投げ捨てた。逆らうことも出来ずに転がり、屋根瓦から美姫たちの後を追う。

「若菜!」

 死体と知りつつエマ=クエーガーは残り少ない魔力で風の精霊を集めた。せめて身体を持ち帰ろうと思ったのだ。

 彼女の身体は見えない膜に受け止められた。途端、その瞳が開かれ表情は生き生きとしている。

「かかったわね!鞠ちゃんと私の演技に!三浦さん、美嘉ちゃんはこの建物の中に間違いなくいるわ!」

 策というのがせめてもの強がりであった。

 風の精霊に包まれて着地した若菜は、毬が明後日の方向を見ているのに気がついた。

「鞠ちゃん、あんまり見ちゃダメよ!」

 事実を知るのは毬だけである。

「おっしゃ!ナイス演技!後は美嘉ちゃんだけだ!ここは任せたぞ!魔女っ子!」

 力を取り戻した潮は疫病天人を背負い駆け出した。若菜も毬たちの方に向かって走り出す。聖剣システィーナと黄泉の王笏エリカを拾うのを忘れなかったのはさすがだと褒めたかった。

 目が合った時、少し頬が赤くなっていたのは気のせいだと思い直して潮は、歌舞伎座を模した犬屋敷に突入した。

「まったくこの私を騙すとは、とんだ雌狐たちだ。だが、九天の支配者よ、君には戦う力など残されていないだろう。魔力を消費し尽くした魔術師など赤子の手を捻るようなもの。少し面倒臭い男もブルーノを探しにいった。私の勝利を揺るがす者はいなくなった!さらにー!」

 毬たちがやってきた通路から下級夢魔族マホーラガの大群が押し寄せてきた。

 出口を塞ぐつもりでいままで出番を控えさせられていた魔獣たちはどれも血に飢えていた。膝ほどの高さしか持たぬ四足歩行の獣たちでもこれほどの数が揃えば立派な脅威である。

 地上からの援軍などは期待できない。 

「私が直接手を下すまでもないということだな!」

 勝ち誇る夢魔族は歌舞伎座の上で腕組みをし、戦闘に加わる様子も見せない。

「第五位のマガラス。まあ、五番目くらいではこんなものでしょうねぇ」

 完全に格下だと侮った毬の一言は、マガラスを刺激した。

「かかれぇ!食い荒らせ!胃袋を満たすのだー!たらふく喰らったお前たちを私が食してやろう」

「せっかくダイエットに成功したのに!」

 ついつい非難する若菜が毬たちと合流した。

「若菜!」

 抱きついてくるエマ=クエーガーを引き剥がし、黄泉の王笏を毬に渡した。

 五人の女声が背中合わせに彫刻されている王笏は、細部に渡るまで職人が手掛けた美品であった。長さは腕くらいはある。

「……な~に?」

 行為の理由が掴めず毬が問いかける。

「こういう時は伝説の魔術具を使って一気に蹴散らすのでしょう!」

「都合よくいかないわよぉ。使い方も知らないし」

 衝撃を受けたのは若菜である。

「ちょっと!じゃあ、この圧倒的不利な状況でマガラスを小馬鹿にしたのはなんでよ!」

「腹いせ。もしくは、イタチの最後っ屁~。とにかく時間を稼いで~」

 夢魔族の嘲笑が耳朶を叩きつけてきた。

「得意の転移魔術では視界の外まで逃げられぬ!術を施してある場所までの長距離を飛ぶほどの魔力も残ってはいないのだろう!お前は今日ここで死ぬのだ!」

 もはや希望すら無いような気がしたのだ。



「美嘉ちゃん!聞こえたら返事をしろ!」

 広く複雑な施設を無闇に走り回り、大広間から小部屋に至るまで捜索する羽目になった潮は、喉が枯れるまで呼びかけると決めていた。

「美嘉ちゃん!」

 応じる言葉はなく、彼自身がドタバタと走り回る騒々しい物音だけがした。

 劇場として設計されているのは間違いない。

 客席から舞台まで用意されていて、これらが使われたことがあるのかどうかを考えることはしなかった。時間の無駄であったからだ。

 埃は厚く積もり花粉症ではない潮でも、鼻水が垂れてくるのを我慢しながらの大音声である。

「……探している間に受肉が終わっちまう」

 客席を突っ切るように作られた通路で潮は立ち止まった。

 絶望的に呟いた。それが彼らの狙いそのものである。

「阻止する。他人の思惑を邪魔するのは俺の十八番だろ。……響子!練習したアレをやるぞ!絶対不幸幻滅流!殴技!奥義、連鎖する極限!」

 蜷局を巻いて潮の拳から肘にかけて負の力が収縮した。

 その闇に属する力は疫病天人から溢れるものであり、それを操っているのは潮自身だった。

 異常なまでの攻撃性を有した右腕を朽ちている床に叩きつけた。

 衝撃は波紋状に広がっていき、空間を伝わり床、柱、天井全てに損傷を与えてさらに拡大していく。

 可視効果としても絶大な威力として映るが、それは肉体を持たない霊的存在の者にも尋常ではない大津波として押し寄せるのだ。

 歌舞伎座は崩壊を始め、内部にいた潮は今更ながらに思い至る。

「俺が中にいるじゃあねぇか。生き埋めか」

 背中の疫病天人が呆れた顔をしていたのを彼が目にすることはなかった。



 何が起きたのか、破壊され崩れ始める犬屋敷を呆然と見守っていたのは外にいた若菜たちである。

「どういうこと?」

 自然な問いかけに答えられるのは、このときも燃燈毬であった。

「空間を捻じ曲げる結界の応用。範囲内の空間を微振動させて起こすショックウェィブよぉ。リーゼントの仕業かしら?あの技ならば私の結界も壊せるわぁ」

 わずか数秒で倒壊した犬屋敷である。

 その一番高い所で見物を決め込んでいたマガラスも巻き込んで土煙は、地下空間を覆い尽くした。

 急いで気道を確保しなければ呼吸もできなくなるほどの粉塵である。

 この機を逃す毬ではない。すぐ後ろに迫っていたマホーラガの群れも足を止めていた。

 彼女は若菜とエマ=クエーガーの手を引いて崩れゆく犬屋敷に走った。


 

 堪らず廃屋から出てきたブルーノを発見して、潮は笑った。次に目を見開いた。

「……美嘉ちゃん」

 名を呼ぶのが精一杯だった。大塚美嘉がブルーノの身体から顔面と右手首のみを残して受肉されていたからだ。

「潮くん」

 生気を失った唇が動く。

「助けに来てくれたのにゴメンね。ごめん」

 それが最後だった。

 デザートの最後の一口を食べるように、ツルリとブルーノの胸部に顔が消えた。

「美嘉ちゃん!」

「遅い。俺は完全体となった。実にいい気持ちだ。お前のその絶望に満ちた顔は」

 間に合わなかった。潮の脳みそはそう受け入れた。同時に認めたくないと否定した。

「吐き出せ!」

「俺を倒しても大塚美嘉は戻らぬ。後はこの右手を食えば……」

 横っ腹からは右手首がだらりとぶら下がっている。

「食わせねぇよ!」

「手首だけを持ち帰って、後生大事にするのか?趣味の悪い男だ」

 潮の絶叫によってかき消されたブルーノの言葉である。夢魔族自身の手足は完全に再現されていて、もはや美嘉の腕などは不要のように思われた。最後の一口まで食らうと宣告したブルーノに潮が迫る。

 大男は足元が悪くても両足を踏ん張り腰を回転させた。大振りの拳は宙を殴るのみである。

「魔力はお前のほうが上のようだ。しかし、当たらなければどうということはない。使い熟せもしない力を、その身に宿しただけのお前など敵ではないのだ!」

 ブルーノの手には一輪の薔薇があった。赤い深紅のそれから刺が放出され潮を穿つ。

 身体の力を入れて鋭い針の攻撃に耐えた。響子がかなりの部分を中和してくれていなかったら、今の一撃で命まで失っていただろう。

「特に名などはないのだが、ローズニードルとでも呼ぼうか。美しい花ほど刺を持つという」

「なんとぉ!」

 瓦礫を吹き飛ばし現れたのはマガラスである。

 こいつは犬屋敷崩壊とともに足場を失い生き埋めになっていたのだ。身体中かすり傷だらけである。

「ついに肉の身体を得たのかい。後はこの場にいる連中を皆殺しにすれば終了だねえ!いい!いいぞ!」

「誰がおとなしく殺されてやるかよ!」

 白いスーツを血に染め上げて潮が踏み出した。

 埃はまだ収まってはいない。若菜たちがどこにいるのかも判らなかった。それでも戦うつもりだった。

 あの右手だけでも助けたかった。ブルーノの腹を見た。さきほどまで在ったはずの手首がなくなっていた。それすらも取り込まれたということだ。

「くっそおぉ!」

 誰に向かってのことでもないだろう。そう叫ばずにはいられなかった。

「観念しろ。苦しまずに送ってやろう」

 薔薇の華が向けられて、一枚の花びらが落ちる。

 それが潮の額を貫通するとブルーノは確信していた。たかが人間一人を始末するのに充分な殺傷力を持った一撃だと。

 赤い花びらがリーゼントに弾かれるなど想像もできなかっただろう。

 鋼鉄までとはいかなくとも、木材ならば穴を開けることができるのだ。それを固められただけの毛髪が防ぐなど。

「……俺のトレードマークに何しやがる。てめえの末路は決まった。死ねよ」

 半融合となっている疫病天人をもっと引き寄せて、潮は左手にいるマガラスを無視することにした。狙いはブルーノただ一人である。

「美嘉ちゃんの仇!星の彼方まで行って来い!」

 防御を考えぬ猛烈なダッシュは夢魔族を苦笑いさせただけである。

 今度は数枚の華が舞い渦を撒いて潮を襲った。

 切り裂かれスーツのいたるところが赤く染まる。

 傷を受けてから血が吹き出すまで少しばかり時差があった。それは花びらが持つ鋭さの証左でもあった。

 痛みを無視しとにかく前に出ることを決意していた潮の歩みを止めるには、その時間差が仇となる。

 花びらが彼を傷つけて、彼が痛みを感じるまでの刹那の間に、ブルーノを射程に捕らえることができたのだ。

「絶対不幸幻滅流!殴技!深淵の衝撃!」

 左拳がブルーノを撃ち抜いたかと思った。しかし、夢魔族もやはり一筋縄ではいかない。

 右の掌で凶悪なヤンキーパンチを受け止めた。その右腕が肩まで吹き飛んだ。

 魔力では潮が勝る。そう言っていたのはブルーノではなかったか。

 受肉し得たばかりの身体をいきなり傷つけられたことより、右腕を失ったことよりも人間が放った拳に驚愕した。

 その間にも潮は次の一撃を放った。

 前蹴りである。腹部に喰らったブルーノは、とにかく距離を取ろうと後ろに飛び退った。

 追撃に移る潮の前に毬が出現した。他の二人も連れて短距離転移してきたらしい。

「どけ!」

「この場はこれまでよぉ。大塚美嘉救出に失敗し二匹の夢魔族を相手にするには私たちは消耗し過ぎているわ。撤退よ」

 短い腕が触れてきた。

「ふざけんな!」

 彼の拒絶は、どこか見覚えのある場所に響いた。

 斬り裂かれた石像は彼がやったものだ。

「縦穴か。魔女っ子!」

 どうしてここに転移できたのか。理由は彼女が石像に掛けた肩巻きに、転移に必要な術を仕込んでいたのだと、説明をするよりも先に食って掛かる潮を鎮めたかった。

「ブルーノを倒せてもマガラスまでは無理だったでしょう。本当にこれが最後の魔力よ。一か八かを賭けるには担保が大きすぎるわ」

 若菜とエマ=クエーガーを見た潮はどうにか冷静さを取り戻した。そうせねばならなかった。

「どうやってここから地上に帰るの?」

「わたし、とても嫌な予感がするわ」

 疑問は若菜でなんとなく察したエマ=クエーガーが諦めを含んで言った。

「そうよ。エマ=クエーガーが私たちを運ぶのよ」

「風の精霊たちに嫌われそうだわ」

「その代わり若菜ちゃんが好きになってくれるってぇ」

 無責任な発現である。

「これだけ頑張ったんですものキスくらいじゃ納得出来ないわ」

「いいから早くしてよぉ。あの二匹、追ってきているわよ~。ここで待ち受けるなんて言わないでよ」

 見上げて来る視線には感情といえるものはなかった。否と言うこともできた。しかし、救いたくても救えなかったと。自信を打ち砕かれた潮に反論することはできなかった。ここでの戦いに固執する必要はないのだ。

 四人はそれぞれ手を繋ぎエマ=クエーガーの飛行精霊術で浮遊を開始した。地上が目前に迫った頃、縦穴の底に二匹の夢魔族が現れたのを目視できた。あいつらもさらに追ってくるつもりだろうか。

 地上には国防省陸軍の精鋭たちが陣取っているというのに。

「来るんだな。だが、あいつがいるのなら俺の出番はもうなさそうだぜぇ。美嘉ちゃんよ、仇は大好きだったあいつにとってもらいな」

 口の中だけで呟いた。



 自力で脱出してきた四人を出迎えたのは常盤幕府次代将軍とされる常盤六連だった。

 軍服をまとった彼はやはりまず燃燈毬に状況を尋ねた。

「民間人の救出は失敗よ。被害者は大久保孤児院の職員、大塚美嘉。夢魔族のブルーノに受肉されたわ。もうすぐ出て来るわよ」

「そうですか」

「そうですか、じゃねえよ!」

 潮が六連に詰め寄り襟首を掴んだ。無作法どころではない。不敬罪で投獄されるほどの蛮行であった。血気立つ将校たちを止めたのは関係を知る藤崎すみれである。それを見た毬が不動を命じた。

「美嘉ちゃんが犠牲になったんだぞ!殺されたんだぞ!スカしてんじゃねぇよ!」

「ふん!今回の尊い犠牲が彼女であったというだけだ。夢幻受胎の可能性は誰もが内包しているのだ。個人的な感情に囚われると次はお前が孕むことになるぞ」

 忠告ではなく警告でもなく、単なる事実を述べた。たいして強く握られていない掌を一振りで払い、潮を無視して毬に語りかけた。

「本陣でお休みください。夢魔族が二匹ほどならば毬どののお手を煩わせることもございません。ご案内しろ」

「待てよ!話はまだ終わって……」

 まだ納得の行かない潮が六連の勲章だらけの肩を掴んだ。背後に大きな影が忍び寄る。轟加奈子だった。

 彼女は潮の首筋に手刀を入れて昏倒させた。

「こんなもので気絶するとは、そうとう疲れていたのだろう。意地を張るのはいいが戦力外だな。こいつも本陣に運んでくれ」

 大男、潮は四人がかりで運送されていった。

 その列を最後まで見送ることなく常盤六連は腰の剣を抜いた。

「大塚美嘉。覚えているぞ。騎馬戦の折、君からの視線がどれほど俺の力になったことか」

「……私たちの間では、大塚美嘉は三浦潮に惹かれているということでしたが?」

「それは間違いだな。もしくは、シャイな彼女のことだ周囲を騙すためにそう言っていたのかもしれん。あの決戦の中、俺は常に彼女の視線を受け取っていた」

 その決戦には潮も参戦していたのだから、もしかしら彼女の視界に六連も含まれていたのだろう。

「まあ、いいんですけど。強い力が上昇してきますよ」

 冷静に注意喚起するすみれだった。

「大塚美嘉の仇は俺が討つ!ブルーノだったな」

「同学年のよしみで私も手伝いますわ」

 広い縦穴を巡る城壁の上に彼らはいた。そこに二匹の夢魔族が降ってきた。

 一番兵士が密集する箇所を選んで着地したのだろう。そこには普通の軍服とは異なる衣服の者たちが待ち構えていた。

 飛行能力をもっているのがブルーノでその彼に運ばれてきたのがマガラスだった。

「始末せねばならぬ人間が大勢いるな。今夜は祭りか」

「お前の完全体を祝して大いに遊ぶぞ!なあ、ブルーノよ!」

 なるほど、すでに右腕を喪失している方が大塚美嘉を喰ったやつだと認識した。

「残る方を頼まれてくるか、大尉」

「構いませんが、軍命ならばそろそろ命令していただけませんか。士官学校の先輩に対してとはいえ、それでは示しがつきませんよ」

「大尉を越える軍人になれたら、命令を下そう」

「私は大尉で、あなたは将軍ではありませんか」

 若い陸軍幹部。時に陸軍卿などと呼ばれる有能な将軍である。

「階級の問題ではないよ」

 苦笑する六連から少し離れて藤崎すみれが鉄槌を構えて待機した。

 単独でより上位の夢魔族の相手をすることになった轟加奈子も抜刀する。徳川に仇なすとされる妖刀正宗である。彼女の身長では長物も少し短く感じるくらいだ。

 ただでさえ江戸時代と現代では身長が違うのだ。

「手出しはならぬぞ!ここは任せてもらおう!」

 将校たちが人垣の輪を作り、兵士たちが雪崩れ込むのを防いだ。

 


 遠くから兵士たちが騒ぐ声が聞こえてくる。

 見世物としてはこれ以上のものはないだろう。

「六連さんとすみれさん大丈夫かしら?」

「心配はいらねえよ。あいつは昴さんの弟なんだからな。それに片腕がないやつに負けるなんて有り得ない」

 いつの間にか起きていた潮が口を開いた。

「あら、起きていたの?あなたを一発で気絶させるなんて、あの加奈子さんって大きいだけじゃないのね」

「俺より五センチも小せえくせに強いんだよな。昔から知っているだけに俺の動きなんかもお見通しだから、あの人には勝てる気がしねえ」

 大きく息を吐き、疲れたように肩を落とす潮の相手をしていたのはエマ=クエーガーである。

「そうよぉ、加奈子ちゃんがもし男性だったら、私が剣聖に推挙していたわ。女性初の剣聖でも良いのだけれど、それにはまず実績を積んでもらわなくちゃね~」

 折りたたみ机が三枚連結されたテーブルに並べられたパンを齧って、毬が補足した。

 作戦行動中の本陣とはいえ、急に持ち運び出された器材は意外と少なく、大きなテントは無駄に広かった。

 誰も言葉を発しない時間が数分流れた。

 ようやくトイレから若菜が女性兵士に案内されて戻ってきた。

「あ、私も行ってこようっと」

 エマ=クエーガーが席を立った。

「さて、この新しく開放された美姫をどうするかよね。やっぱり魔務省で管理保管なの?」

「そうねぇ。それが無難よね。聖剣だってまだ調査途中なんだしぃ」

 机には大剣システィーナと短い錫杖エリカが並べて置かれている。

「次々に持って来られても困るのよね。調べられるのは私と九天の魔術師しかいないのだから。九天だって今は三人しか日本にいないし、関東はゼロよ。無期限長期出張で」

「省庁の人材不足は深刻なのね」

 日常会話をする余裕が二人にはあった。しかし、学友を殺されたばかりの潮は違う。

「なあ、女王。お前、元の世界ではテロに遭って、気がついたらこっちに居たって言っていたよな。そのテロでは知人友人も死んだかもしれないって。心配になったりはしないのか?正直、俺には判らなかった。いや知らなかったんだと思う。知人にもう会えないってことがどういうことか。だが、今は理解できるぜ。友達の死をヘラヘラ笑いながら話したお前の異常性をな!」 

「……」

 返す言葉はなかった。いや、明確な返答は容易にできるのだが、それを口にはしたくなかった。

 小首を傾げて誤魔化そうとする若菜を観察していた毬が、次の菓子パンを袋から開けた。いちごジャムパンを手で千切り口に運んだ。

「悲しくないわけではないし、胸を痛めなかったわけでもないわ」

 言い訳をしているような気持ちになった。こんなありふれた言葉は潮に届かないだろう。

「それは俺が教えてやろう」

 天幕の外から声が降ってきた。大声というわけはないのに、耳にしっかり運ばれたそれは精霊術を使ったものだと見抜いた毬は素早く黄泉の王笏を手にした。聖剣は彼女が持つには大きすぎるのだ。それを見た若菜はシスティーナを持ってから、天幕の外に飛び出した潮を追う。外ではすでに誰何が始まっていた。

「誰だ?てめえは!ああん!」

 人相悪く輸送車の荷台、幌の上に満月を従えて男と女が立っていた。

 大男の腕の中にはエマ=クエーガーが捕まっている。月光の影になってすぐには気が付かなかったが、六連に世話係を頼まれた女性兵士が二人共惨殺されている。首の頸動脈を切られたものと思われた。夥しい出血がコンクリートに広がっていく。

「室井若菜。七月七日生まれ二十歳。八歳でイギリスに留学、グラマー・スクールに選抜され合格。ケンブリッジ大学に進学し帝王学を修得。専攻科目は経済。日本人最年少の十四歳で卒業。十六歳で帰国。祖父が経営するクロスライン社の社長秘書のようなことをしながら、退屈しのぎに通い始めた日本の高等学校を卒業後、大学にも進学予定。俺の知っている情報はこんなものだな。そこのチンピラ、なぜ室井若菜が他人の死に鈍いのか。こいつは優秀過ぎるんだよ。どこからかは不明だが、こいつは幾つもの予想される未来を予め想像していたんだろう。お前さんにとっては不意の死だったのだろうが、そこのお嬢さんにとっては違う。予測した結果の一つにすぎないのさ。だから、受ける衝撃はとても少なくて済む。冷徹というか冷血。冷淡。あらゆる事象を読み解いてしまうこいつのケンブリッジ大学でのアダ名は、氷結の女王」

 突っかかろうとする潮の肩に手を乗せて、若菜が何かを思い出した。

「加藤新一と雲霧操。もっと早く気づくべきだったわ。加藤さんも新一さんもどこにでもある名前だったから。記憶探偵社スパローズの夢案内人、加藤新一!確か三年くらい前にドリームダイヴ中に意識不明となり昏睡状態となっていたわね。本体は港区の国立病院で預かっているわよ」

「俺はお前さんの先祖が開発したドリームダイヴコンピュータシステムの被害者だぜ。まさか、事故に遭うと異界に飛ばされるなんて欠陥商品もいいところだ」

「よく言うわよ。夢案内人と依頼者は有線で結ぶことになっていたはずよ!無線で他人の意識に入ろうとしたから、不慮の事態になったのでしょう。当方に責任義務はない案件ってことでスパローズの社長さんとは話がついているのよ」

「酷い経営者だ。自分でやらせておいてそれかよ。まあ、いいさ。向こうに帰ったら、ドリコンの危険性を世にアピールしてやるぜ」

「……帰れるの?」

「そいつを確かめたくて、智教強硬派は日々奮闘しているんだが、お前さんがこっちに来たことで、可能性が見えてきた。この世界から戻った奴は歴史上一人しかいない」

 それが最初の帰還者、室井智ということか。

 ドリームダイヴコンピュータシステムを使用中に異界へと強制的に飛ばされた彼らは、この世界にさぞかし驚いたことだろう。そして、開発者である室井智が大勇者として扱われていることをすぐに知ることになるのだ。

 元の世界に戻りたい一心で彼らは徒党を組み、手段を模索している。

 室井智の名に引かれた異界の者たちが強硬派となったのは自然な流れだろう。

「どうだ?お前さんだって帰りたいんだろう?金が欲しいなら用意する。男も女も美形なのを揃えて、死ぬまで奉仕させてやる。避妊も徹底させる。教祖に祭りあげてやるから俺たちと手を組まないか?」

 若菜は足元を見た。

 女性隊員の血液が靴にまで達していた。

「あなたたちは法を犯してしまい、この世界に来た。無線でのドリコン使用は違法なのだから。戻ってもまず裁判よ。でも、いまは常盤幕府のお裁きを受けなさい!無関係の人をこんなに殺して、手の届かない異界に逃げようなんて、そんなの許さないわ!」

 ――ドリコン使用中?

 脳裏に閃くものがあった。

 室井智が約半年もの間、あちらの世界で行方不明になっていた記録はない。ならば、彼がここで天草四郎討伐に加わったのは十代後半から二十歳過ぎのフリーター時代、クロスライン社起業前ということになる。

 世界初のドリコン、アルカナシリーズ二十二機を発表したのが三十二歳だったことを考えると、彼はドリコンを使わずに異界を訪れたことになる。

 そして、若菜も超高層建築物である軌道エレベーターから落下して、目を覚ますとここにいた。もちろんドリコンを使ってはいなかった。

「まさか、私たち一族には異界の壁を越える能力があるなんて思ってないでしょうね?」

「だから、その可能性を調べたいんだ。手伝ってはもらえないか?」

 意外にも紳士的に懇願しているようにも見えたが、彼の太い腕の中にはエマ=クエーガーがいるのだ。まったく女性を人質に取ることでしか対話ができないのかと憤る。

「エマ、トイレは済ませたの?」

 さんざん苦しませてくれた尿意を思い出した。

「ええ、簡易トイレから出てきて歩いていたら、後ろの二人が倒れていて。声を上げる事もできなかったわ」

 プライドの高い彼女が暴漢の手に抑えられて為す術もないとは。戦地から離れたことで彼女は帯剣すらしていなかったのだ。

 そんなか弱い女性を羽交い締めにして、協力を要請する輩と手を組む気にはなれなかった。

「私の答えはノーよ!私だって向こうの世界に戻りたいわ!でも、だからといって、この世界の住人を傷つけていい理由にはならないのよ。向こうに必ず帰還するわ。そうしたら、あなたたちが戻ってくる方法も探すと約束する。それまでおとなしく生活していなさいい。エマを放しなさい!」

「交渉決裂ねー!そうなるって言ったじゃないのよ!おっと、燃燈毬、動かないでよね!まずはこのエルフを殺しちゃおうかしら?都庁でも邪魔してくれたわね」

 最初の交渉は加藤新一が行うことにでもなっていたのか、それまで一言も口を開かなかった雲霧操が短刀を取り出した。

 転移魔術を発動させる前には魔術陣を構成しなければならない。毬の場合は術を神速で完成させ、さらにそれを脳内に完全にイメージとして出現させることができる。魔術を使えない者には予測不可能なのだ。しかし、同じ魔術師である雲霧操には微妙な魔力の変化、集まり方で毬が動くタイミングだけは直前に読むことができた。

「雲霧操ぉ。ご先祖様は仲間だったのに。どうして武闘派になったのぉ?」

 室井智の七剣士の一人、聖槍ソーシャを使った雲霧斬左衛門のことだ。

「それよ!いいかい?あんたんとこの燃燈家やら源、蓮池、渋川、甲良は元が武家だったり魔術師の家系だ!でも雲霧は違う!農民出の英雄なんか五年で廃れたわ!槍まで取り上げられて、また鍬を振るう生活に嫌気がさした斬左衛門の孫、仁左衛門は凶行に走り数百人のならず者を率いた盗賊の頭になってしまった!以降、雲霧家は陽の目を浴びることなく、むしろ太陽から隠れて各地を放浪する羽目になったんだ!あんたんとこの先祖なんかに合わなければ!私たち子孫がこんな苦しい思いをすることはなかったんだよ!」

 世間への恨みを晴らすために武闘派となったのか。

「さあ、聖剣はいらない。黄泉の王笏を寄越しな。エルフと交換だ」

「使えるのかしらぁ?」

「もちろんさ。世の中をひっくり返すには美姫の力が必要になる。斬左衛門はいつかこういう日が来ると信じて、美姫の能力について文書を残していた。記録の破棄を命じた燃燈家にすらない詳細な説明書さ!魔術師の私には聖剣よりそっちの方が都合がいい」

「それは智教信者としてはどうなのよ!加藤さん!」

 明らかに個人的感情で動いている操の狂気を仲間が放っておく理由が判らない。

「いいんじゃないか。幕府が荒廃すれば俺たちも動き易い。一言で武闘派と言ってもさまざまでな。俺はこいつとつるんでいるが、横の繋がりはほとんどないんだよ。お前さんの居場所を突き止めるのに、魔務省の職員に金を握らせてそのブレスレットの魔術パスを仕入れたのがこいつだ。別に組織立って布教活動しているわけじゃないから、他の奴らには教えてない。こいつが人類を抹殺したいというなら止めはしないさ」

 非人道的な思想だ。しかし、法などに頭から束縛されることを考えない人間にとっては、他者の死など無関係事項でしかないのだろう。法で裁かれないのであれば、殺人を躊躇うハードルは一気にその高さを下げるのも事実だ。

 ましてや酷似しているとはいえ、異界の住人だ。今は共に行動している雲霧操ですら加藤新一にとっては、取り替え品の消耗器材と変わらないのだろう。

 その考えを真っ向から否定した若菜の手がどかされた。潮である。

「いよぉ、マッチョ。まずは礼を言っておくぜ。こいつが優秀だとか冷徹だとか氷結の女王なんて言っていたな」

 マッチョとは加藤新一のことだろう。筋肉隆々としていて、寒空の下、タンクトップ一枚だ。

「こっちの住人たちをあんたら異界からの来訪者がどう思っていようが、俺には関係ねえな。だがな、女王の口、声でお前と同じ言葉が吐かれなくて助かったぜぇ。こいつが自分を優秀とか冷徹とか説明する、そんなムカつく台詞を聞かせてくれなくした、その礼を決めさせてやる。エマ=クエーガーを解放してケツ捲くれよ。今回は見逃してやるぜ!チビ助!」

 操の高笑いが響いた。

「チビ助だって!確かにあんたより少し、あのチンピラのほうが高いかな。最初から皆殺しにしちゃえばよかったのに」

「あまり悪い印象を持ってほしくなかったんだが」

「なら、都庁を襲撃なんかするんじゃないわよ!」

 そのお陰で時間を取られ若菜を押し倒す計画を潰されたエマ=クエーガーが怒りを思い出した。

「交渉決裂なら美姫を手に入れいる。黄泉の王笏を手に入れてくれたのは幸運ね。私ついてるわ!」

「まあ、仕方ないな。交換の仕方だが……」

「誰が応じるなんて言ったよ?」

 スラックスのポケットに両手を突っ込んだ潮がどんどん前に出る。一歩歩くたびにエマ=クエーガーの首元に短刀が食い込む。

 堪らず彼の背後から若菜が抱きついて留めた。

「ダメよ!彼らは本気よ。エマは楽に美姫を手に入れるだけの道具。あの子が死んだら力づくで奪えばいい。それくらいにしか考えていないわ。三浦さんここは抑えて!」

「リーゼント、交換しましょう。兵士がこちらに気づいたわ。彼らはエマ=クエーガーの命より美姫を優先するかもしれないわぁ」

 黄泉の王笏を持つ毬が決断を下した。

 ギリッという歯軋りは潮からだった。

「きっちり落とし前つけてやるからな!」

 すでに臨戦態勢に入った彼はまだ疫病天人を出してはいない。彼自身の気迫が加藤新一という猛者の背筋を凍らせた。

「いいだろう。俺もチビ呼ばわりされた礼はしなくちゃな」

 輸送車の荷台からエルフを抱えたまま飛び降りた新一は、彼女を手放した。

「二歩だけ前に進め。それが俺の間合いギリギリだ。王笏が投げられたら自由にしろ」

 言われるがまま歩いた。背中にはただならぬ殺気を感じ取りそれ以上は動けなかった。

 毬は黄泉の王笏を下から投げた。天高く投じられたそれが弧を描く始めるよりも早く、エマ=クエーガーが駆けた。

 背中に斬撃を受けなかったのは、一瞬だけ彼女のほうが早かったからだ。

 潮も走っていた。加藤目掛けて。

 人質の解放を確かめた燃燈毬は、得意の空間転移で黄泉の王笏へと跳躍した。動いている物体への転移はおおよその位置にしか行けず、手を伸ばしても目標に届かない。

 飛行の魔術を使うか魔糸で絡めとるか悩んだ時、王笏に鞭が巻き付いた。

 毬が使う魔糸と同様の魔術のようだ。

 それを手繰り寄せ黄泉の王笏を手に入れた操は、飛行魔術で空に逃れた。

 ようやく少しだけ回復していた魔力を消耗してしまった毬は、三メートルくらいの高さから自由落下した。

 体重が軽いこともあり衝撃は関節で吸収できたようだが、すぐ隣には危険な加藤がいた。

 言葉もなく降り落とされる大振りのナイフの腹を弾いて、軌道を変えたのは潮の蹴りだった。

「そんなものを使わなくちゃ俺に勝てねえのかよ」

「見くびられたものだな」

 獲物を投げ捨ててボクシングのファイトポーズで構えた。軽快なフットワークから経験者かもしれないと警戒する。

「気をつけて!加藤新一は記憶探偵社に入社する前はプロボクサーだったのよ!最終ランキングは東アジアクルーザー級二位よ!強敵だわ!」

 助言は若菜からだった。

「ちっ、先に言えよ」

「それだけじゃあないぞ!こっちの世界に来るときは普通、精神体でなければならない。つまり、この世界の何かの身体を借りなくてはならないんだ。夢魔族の受肉に似ていると思うだろうが、やつらよりルールの幅は広いようでな。俺が受肉したのは漁港に水あげされたマグロだ!死んだ魚の身体で俺はこの世界で活動できるようになった。金槌だった俺が海水浴を楽しめるようになったんだよ!おまけにドリコンスキルも再現できる。肉体強化で俺はさらなる力を得た!ふん!」

 上半身の筋肉が異常な盛り上がりを見せた。バランスの悪いことこの上ない。上野動物園で見た灰色熊、グリズリーを連想させた。

 首が短く肩にめり込んでいるようにも見えた。筋肉を発達させた究極の姿であろうか。

 巨大な拳が潮に伸びる。まともにガードするほど馬鹿ではない彼は、受け流そうとして力負けした。

「ぐお!」

 少しかっすただけで激痛に襲われた。

 反射的に飛び退いていなかったら、肩を掴まれて身動きが取れなくなっていただろう。後は動かなくなるまで殴られて終わりだ。

「このチビ助が!まっとうな人間じゃねえのなら、俺だって遠慮はしないぜ!響子!」

 またひょっこり顔を出した響子は、新一ではなく夜空を見上げた。

 目の前の筋肉男よりを遥かに凌ぐ脅威を感じ取ったのだ。

 まったくの無風だったのだが、王笏の魔力が増大すると春の嵐を運んできた。その風力は急激に強まりをみせている。

「ああ、いけないわぁ。黄泉の王笏を発動させるつもりねぇ。こんな人口密集地ではダメよぉ」

 美姫に対して全くの無知ではない毬が珍しく悲鳴を上げた。

「エマ=クエーガー、撃ち落とせるぅ?」

「すでに魔術障壁を張られているわ。今の私の魔力では不可能よ。リーゼントのアレは?」

 地下の犬屋敷を崩壊させた能力のことを指している。

「取り込み中だ!」

「いや、待て。操、俺まで巻き込まれないか!」

「そうよ!あんたも死ねばいいじゃない。私、早漏って嫌いなのよ!でも、パートナーだから仕方なく、気持よくしてあげたのよ。何度も飲み込んであげたじゃない」

「違う!俺は早漏なんかじゃあない!」

 必死に弁解するが、藻掻けば藻掻くほど絡みつく荒縄のように無駄なことである。

「エマ!鞠ちゃんの身体を確保して!魔術が使えないのなら、この風に吹き飛ばされちゃうわ!あなたもテントの中で何かに掴まっていて!ここは三浦さんと私でなんとかするから!」

 そう言ってみたもののすでに天幕は上空に巻き上げられていた。

 真夜中の三時。

 中野区に突然出現したハリケーンは停滞し、被害を拡大させていく。

 微風の発生から一分も立たずに猛烈な暴風域を作り上げた黄泉の王笏は、まだ本領を発揮していなかった。

「おかしいわ。こんなに凄い嵐なのに風の精霊が全然集まらないどころか、この一帯から逃げ出していく。精霊がみんな!これはどういうことよ!」

 何かの器材が収納されていたらしい、鉄製の箱のなかに避難したエマ=クエーガーと毬である。この箱はかなり重量がありそうでまだ安全だと思われた。

「何も変じゃないわぁ。黄泉の王笏は不浄なる悪霊を操るのよ。この台風も悪霊が引き起こしているのよ。もっと上を見てみて。この辺りに巣食っていた悪霊、怨霊の類が操の更に上で渦を巻いているのがみえるでしょう?」

「じゃ、リーゼントの切り札も?」

「あー、それなんだが俺の周りは相変わらずの無風なんだよな。響子って悪霊も避けて通るのか。お前、そんなに嫌われ者だったんだな」

 疫病天人が小さな拳を作り潮の頭をポカポカと殴りつける。年齢的には毬とそう変わらない十歳以下なのだが、毬ではこれほどの愛らしさはないだろう。ただしこちらは疫病神候補である。

「なるほどね。本当だわ。あなたの周囲だけ嘘のように風が吹いていないのね」

 なんとか潮の近くに寄ってきた若菜である。

「この事態を打開する方法は雲霧操を倒すこと。もしくは集まった怨霊を殲滅するかの二択ね。少し考えさせて」

 この世界がアストラル界にとても近い位置にあると仮定する。

 それは正解のような気がした。

 だからこそ、ドリームダイヴコンピュータシステムに取り込まれたフェシスや夢魔族によってもたらされるドリコンスキルに似たものを、そのマスターであった加藤新一が行使できたのだ。最初に体現した者は不明である。しかし、可能だと誰かが示してくれたのならば、やってみる価値があった。

 先達者、室井智が元の世界に戻ったという前例に救いを求めて、武闘派たちが彼の信者を装い集ったように。

 ドリコンならば若菜も使ったことがある。しかも、初期シリーズの傑作アルカナシリーズの一つだ。

 ――でも、恋人サクラの能力はマスターの補助と補強がメインだから、こういう場面では不適格ね。今この場で必要なスキルは全てを壊す力よ。

「心当たりがあるわね。ドリコンスキルの中でも断トツの破壊力を秘めたやつに」

 私にできるかしら?疑問が浮かぶ。

「加藤さん!見たことがあるだけのドリコンスキルでも、使うことができるのかしら?」

 声を張り輸送車の下に逃げ込んだ加藤に呼びかけた。巨躯を無理矢理に押し込んだようで、とても窮屈そうにしている。

「適性があれば枠組みは関係ないらしいぞ!何か思いついたのか?」

 にっこり、笑顔で答えた。

「なら、さっさとしてくれ!一般家庭にまで被害が及んでいるぞ!」

 確かに古い家屋がこのハリケーンに耐えられるとは思えない。

 中野区は太平洋戦争後真っ先に復興が開始された地区で、木造建築が多いのだ。耐久性も低いだろう。

 意識を集中した。ドリコンスキルを発動させる要領でやればいいのよ、と言い聞かせる。

 右手を頭上に掲げる。その指先に紅い炎が灯った。それは徐々に巨大化しバスケットボールほどの大きさになった。

「全てのドリコン中、最高ランクのスペックを誇る死神、アテナの最大火力よ!『太陽破斬!』」

 紅い火球は嵐の中を操目掛けて、下方から食い込むように上昇した。彼女の魔術障壁と接触した直後、視界を覆い尽くす大爆発を引き起こす。

 空が燃え上がる。

 太陽のプロミネンスをごく限られた範囲に呼び寄せる火属性と召喚術の合わせ技という説明を思い出した若菜である。

 燃えカスも残らず蒸発したと思われた上空に、雲霧操はまだ浮かんでいた。

「あはは!惜しい、惜しい!あんたがちゃんと魔術の修行を受けていれば、この障壁を破壊できたのかもね!大技なんか使ったって精度が低いのよ!でも、ちょっと怖かったわ。ほんの少しでも私に恐怖を与えたあんたから殺してやるよ!その疫病神ともども!」

 ハリケーンのために大気中で旋回していた悪霊の数々が潮と若菜目掛けて降ってきた。

 雹か霰の如く質量まで手にした悪霊は、逃げ場のないほどに二人に降り注ごうとしている。

「二択のうち一つは不発ね。次の作戦。全ての悪霊を撃ち落とす。この聖剣システィーナで!」

「できるのか!」

「……渋谷駅でこの剣を開放した時の光を覚えているかしら?」

「なんとなくな」

「まあ、いまさらあなたの記憶力については何も言わないわ。あの光は聖剣の記憶だったの。一度溢れ出た記憶がまた剣に戻る、あの光はそれが原因だったのよ。光の粒子の幾つかが私を通過したときにシスティーナの記憶を共有できたの。だから、使い方は知っていたし、この剣の記憶が戦いと封印の繰り返しだったということは理解できていたわ」

「なんでやらない?すげえ能力なんだろう?」

「魔力とは違う、魂そのものを糧として美姫たちは力を発揮する。きっと、あの黄泉の王笏エリカを使い続けている雲霧操も同じよ。あちらはまだ制御できるのでしょうが、システィーナは器が違うわ。能力を発動させることは使用者の魂魄全てを吸い上げてしまうのよ。つまり、私は死ぬ」

「おい!」

「でも、これしか方法がないでしょう!運が良ければ、もしシスティーナの吸収量より私の魂魄が大きければ死なないわ!システィーナよ!私の敵は判っているわね!あの悪霊たちを残らず成仏させてやりなさい!必要な魂魄の全てを私から持って行きなさい!」

 システィーナの刀身がまばゆい光に変わった。熱量はない。純粋な光量のみで地上を照らし太陽を直視している以上に網膜が痛む。

 大剣を頭の上で掲げて若菜は力が抜け落ちて行くのをはっきり自覚していた。初期状態でこれほど吸われるのであれば、悪霊殲滅まではもたないかもしれない。無駄死は避けたかったが叶うのだろうか。

 長い柄を握る手に重ねられる大きな手があった。

「おい!聖剣よ!俺の魂も半分使いな!一人分で不足なら二人でやればいいだろうが!いいか、女王の魂魄を使い切ったら俺じゃねえ、きっちり半分だぞ!判ったら返事しやがれ!」

 無茶なことを言うものだと思ったが、彼女が何かを考えられたのはそこまでだった。

 聖剣の刀身から溢れ出た光が数千はあろうかという微粒の光に変化し飛び立った。二人が握るのは柄のみで刀身がなくなっていた。

「物質変化~。剣の形をしていたのは便宜上で、光の粒子で敵を倒すのがシスティーナなのねぇ」

 観察していた毬はそう結論づけた。



 どういう理由なのか皆目わからなかったが、発生したハリケーンは夢魔族との死闘を繰り広げていた常盤六連と藤崎すみれをも暴風域圏内としていた。兵士たちは城壁の上にあったが、姿勢を低くして戦いの行方を見守っていた。

「なんだというのだ!」

「さて、魔術の類ではないようですが、三浦潮がまた何かやらかしたのではないかと」

「あいつにこんな力はない筈だが、まったく、あいつが絡むとロクな目に合わないな!」

「そうですわね」

 悪友を罵りながらも二人は夢魔族ブルーノと互角以上に戦っていた。戦況は明らかに彼らに有利であり、片腕をもがれていたブルーノは最初から苦戦を強いられていた。

 決着がつきそうな矢先にこの嵐である。

 左腕に操られた薔薇からの攻撃を躱し、ブルーノ胴体を袈裟斬りに斬り裂いたのは六連であった。

「ぐっ、二人がかりとは卑怯な」

「お前のような魔物に武士道を持ち出そうとは思わん!俺は武士で在る以上に指揮官なのだ!」

 もう一歩を踏み込み頭部から両断した。

 薔薇の花がいっせいに舞い落ち、それが小規模の爆発を起こした。広幅の剣を垂直にかざして頭部から胴体までを守った。藤崎すみれの無事も確認した。彼女は小さく頷きで合図する。

「無駄な足掻きを」

 そう言い捨てた六連は一人で戦っている轟加奈子の方を見た。彼女と一瞬目が合った。

 ――また気を使わせてしまったかな。先輩にはまだ敵いませんよ。

 胸中のみで呟き悔しさを表に出したりはしなかった。

「向こうも片付いた様だし、こちらも終わらせるか」

「我が同胞ブルーノよぉ!お前ら皆殺しにしてやるぅ!」

 怒りに狂うマガラスは魔力を全開にし突進した。それは加奈子ほどの達人を相手にしては安易な攻撃であった。力技で押しきれないのだと理性で判断できない。それほどマガラスは怒っていた。

 身体中から血管を浮かび上がらせ膨張した血が溢れ出る。自らの血流を飛ばしてきた。

 それが超高熱の酸性を帯びた猛毒であることを戦闘の中で見抜いていた加奈子は、一滴も浴びることなく回避する。

 自然でいて無駄な動きが一切ない洗練された体捌きは、武術の心得を持つ者がみれば驚嘆したことだろう。

 ブルーノより高位の夢魔族はそれだけで終わったりはしなかった。

 高温の身体で加奈子にしがみつき燃やし尽くすつもりだ。

「それはセクハラだな」

 一笑に付した加奈子はそれすら横に飛んで避けた。彼女を追撃するように手足を丸めてゴムボールのような弾力を得たマガラスが突進する。

 足を引いて移動したばかりの加奈子には避けることができなかった。

 だから、彼女は前に出た。

 下段に構えていた正宗を、振り上げ一閃させる。

 刃物など通さないと自負していたマガラスの身体は、ものの見事に真っ二つになった。加奈子には飛び散る鮮血から逃げるゆとりまであった。

「私の相手をするならば、武術を学んでからにしたほうがいいな。まあ、お前に次はないようだが」

 城壁での戦いが終わった時、本陣付近から光の奔流が流星の如く立ち昇り天空を穿った。

「あれは?」

 加奈子の質問にいつも答えてくれる九天の支配者は、隣にはなかった。



 夜空の星を見上げて若菜は、綺麗、と呟いた。

 嵐の後の静けさとはこのことだろうか。

 悪霊たちが引き起こしたハリケーンが霧散し、空はまったく遠く透けていた。

 五月の星座、星々がくっきりと見える。

 あの瞬間、システィーナの光の粒子は確かに数千もの悪霊を一撃で消滅させたのだ。

 対象が人間であっても回避不能で打ち倒す凶悪な攻撃法である。

 こんなものはやはり魔務省で管理してもらったほうがいいに決まっている。再び剣の形になった聖剣を一瞬だけ見やってから、首を持ち上げてもう一度呟く。

「綺麗な夜空ね」

「そうだな~」

 すぐ背後からのんびりとした同意の声があがった。潮である。

 システィーナから光が飛び出す衝撃に吹き飛ばされた二人だったが、潮が若菜を身体で受け止めて庇ったのだ。

 彼の腕の中で若菜は星空を見上げていると知っていた。彼が何に背もたれているのは知らないが、もう少しこうしていたかった。

「寛いでいるところ、まことに恐縮なんだが、新しい提案がある」

 輸送車の下部から這い出てきた加藤新一が、心底申し訳無さそうに言ってきた。

「そこのチンピラ、いや、三浦潮といったな。その彼氏も一緒でいいから俺たちに協力しないか?」

「か、彼氏じゃないわよ!勘違いしないでよね!あなたのその目は節穴なの?」

 ついついエマ=クエーガーのようなしゃべり方になってしまった。

 そう言えばエマと鞠ちゃんはどこかしら?無事だといいけど。

「美姫の力を危険なものだと判断することくらいはできる。そして、俺の大脳は二つの美姫を手放すな。クリスタルから解き放てる聖女を手に入れろと命令をくだしているよ」

 その手には黄泉の王笏があった。

「雲霧操はどこ?」

「このトラックの荷台に落ちてきたらしい。中の荷物がクッションになったらしく死んじゃあいない。残念だがな。こいつは俺の目の前に転がっていた。俺が次のマスターってわけか?」

「そんなものただの偶然でしょう。私は人を傷つけることを厭わない智教武闘派とは行かない」

「そうか。なら、来てもらうか」

 ギュッと拳を握り見せつける。

「そっちなら俺の担当だな」

 少しフラつきながらも、どっこらせっと立ち上がった潮は、すぐ終わるから座ってろよと若菜に言い残した。

「まだやるのか。懲りない男だ」

「ここの兵士全員を相手にするつもりはないんだろう。さっさと来やがれ。その王笏とやらは、霊的に無風状態となったこの一帯ではしばらく使えないぜ」

 操るべき悪霊をシスティーナが粉砕したのだから、使役する者がいないということだ。

「うむ。判っている。……筋力強化、暗視能力、聴力強化、対闇耐性展開……」

 使える全てのスキルを使って潮を仕留める気になったようだ。

 戦いのセンスはいいものをもっているらしい。さすが東アジア、クルーザー級上位だ。

 それでも負けるつもりのない潮は、本日何度目になるのか疫病天人を呼び起こした。

「まったく、あのガキどもから美嘉ちゃん救出の依頼を受けたのは、昼すぎだったよな。それから昼寝を少しだけして起きたら八時だった。それがずいぶん前の事のように思えてくるぜ。いい加減、髪型もセットし直したいんだよ」

 霊的安定を得ているこの場に出現させられて、ちょっと嫌そうな顔をしていた。

「すまねえな。この件が終わったら、青山でも多摩でも好きな霊園に連れて行ってやるよ。もう少しだけ頼む。不幸なる魂を紡ぎ憐れむ響子!俺の矛となれ!」

 右手に手甲が現れた。その手に寄り添うように半透明の響子がぶら下がっている。怨霊だから重さはないだろうが、邪魔ではないのかしら?若菜は考える。

「防御を捨てて攻撃力への一点集中か。その判断は間違いだが、吹っ切れ方は嫌いじゃない!」

 全身強化を終えてグリズリーのように肥大化した新一は、一足で潮の目の前に移動してきた。走ったのか飛んだのかそれすら見えない速度である。

 彼の拳が振るわれる。

 間一髪、高くジャンプして逃れた潮は、二トントラックを吹き飛ばす威力に驚いた。

「生身の人間が強化だけでそこまでやれるのかよ!」

「智教は猛者揃いなんて話を聞いたことはないか?俺たちは元の世界に帰るために、負けられぬ戦いをしてきた。鍛錬ではお前たちを越える!

 ああ、そうかよ。投げやりに応じた潮は着地した。

「絶対不幸幻滅流、殴技、深淵の衝撃!」

 攻撃力を全開にした拳は一直線上に放出され新一を貫いた。

 その渾身の攻撃すら耐えた新一の筋肉がかすかに痙攣していた。わずかに足りなかったのだ。

「疫病神と操が言っていたな。この世界の神にも等しい存在か。なるほど凄まじい力だ。だが、俺にはまだ届かぬ!」

 叫び突進する巨大熊の拳が再び襲い来る。

「お前さんの攻撃力と防御力はすでに見抜いたぜ。リングでお上品な殴り合いをしていたんじゃあ、俺には勝てない」

 腹部を狙ってきた新一の拳目掛けて自分の右拳を合わせに行く。

 拳と拳が真正面から激突し、お互いを弾いた。

 後方に仰け反る上半身を下半身で踏ん張り、意地と意地のぶつかり合いは終結することになる。

 右腕に居たはずの響子がいつの間にか、潮の前にいた。

 彼女は両腕を広げるようにして彼に力を貸していたのだ。

「絶対不幸幻滅流、殴技、重複の衝撃!」

 新一の攻撃を相殺したのは右腕で、力を込めていた左腕をまだ残していた。

「なに!」

 隙だらけの胴体に潮の左拳が深くめり込んだ。

「ぐうぅ!俺の攻撃をぎりぎりの力で防いで、余った分をもう片方の腕に集めていたのか。俺は倒れぬぞ!」

「いいや、お前の負けだ。星の彼方に吹き飛べ!絶対不幸幻滅流、殴技、深淵の衝撃!」

 もはや躱すことも耐える事もできずに新一は、無傷だった輸送車の土手っ腹に吹き飛んだ。

「一か八かの賭けだったが、そんなことはいつものことさ。ああ、訂正しておく。お前のような畜生が星の海に行ったんじゃ雰囲気が乱れるぜ。他の決め台詞を考えておく」

 潮はリーゼントに手をやり微かに乱れた髪の毛を整えた。

 疫病天人の響子が何か物欲しそうに見つめてくる。

「よくやったぞ、響子。今回ばかりはお前に助けられたぜ」

 悪霊の頭を撫でる。すると、彼女は嬉しそうな顔をして消えていった。

「成仏したの?」

「アレくらいで成仏なんかしねえよ。単に褒められたのが嬉しかったんだろうよ」

 腰のベルトに差し込まれた黄泉の王笏を新一から奪い若菜に手渡す。

「こいつ牢屋で大人しくしていると思うか」

 潮と若菜が見ている前で加藤新一の肉体がどんどん薄くなっていく。ついには跡形もなく消え去った。

「向こうの世界に戻ったか、死んだのか。どちらにしても確かめる術はないな」

「そうね。精神を失い肉体だけとなった夢案内人が突然、死亡することがあるわ。理由は不明。でも、まるで獣に襲われたような牙の跡や水死したかのような状態になって、死んでいるというわ。こちらでの死亡は、肉体へも影響するのかもね。加藤新一も腹部に強烈な傷を負って亡くっているのを看護師に発見されるのかもしれないわ」

 嫌なことを言うものだとうんざりした。

 ゴトリと物音がした。

 見ると国防省の輸送車の荷台から雲霧操が逃走しようとして地面を這いつくばっていた。

 美姫の使用により損耗激しく立つこともできないらしい。

 それでも今回の騒動の首謀者である。逃すわけにはいかない。

 懐から拳銃を取り出した潮が、後頭部に銃口を突きつけて命じた。

「動くんじゃあねえ。命までは奪おうとは思わねえが、そいつはお前次第だ」

「くそっ!なんでお前なんかに!お前らなんかに!」

 涙を浮かべて言葉にならない台詞を繰り返すばかりである。

 都庁での威張り腐った姿は微塵もなく憐れに感じられた若菜は、操に話しかけた。

「雲霧。その名に覚えがあるわ。私たちの一族に智お爺ちゃんが残したのよ。お爺ちゃんはどこか遠くを旅行中に道に迷って、空腹で死にかけていたらしいわ。そんな時に出会った人におにぎりを半分、分けてもらったそうよ。あのおにぎりが無ければきっと餓死していたというわ。遠い場所で知り合った最初の友達。そして不意の別れとなった友人。斬左衛門とは後になって名乗った名前ではないかしら?本名は雲霧……心左衛門?それがあなたの先祖。智お爺ちゃんはずっと気にかけていたそうよ。農業と怪力自慢、情に厚い友人が幸せになったのかどうかを」

 大地に這いつくばり若菜の話を聞いていた操から涙が溢れた。

 それは先程までとは違う意味を持つ涙であった。



 午前七時は母親が起こしに来る時間である。

 中野区での事件から一週間が経過し、東京は平穏を取り戻しつつ合った。

 関係者として事情を求められた三浦潮は、しかし、常盤幕府の重鎮、燃燈毬とエルフの長老家エマ=クエーガーの配慮によってその存在すら隠された。

 平穏な生活に戻ることができた。

 いつものように整髪料を手に取り、リーゼントを整えた彼は本業の制服を着込むと自室を出た。

 少し軋むようになった階段を降りて手を洗ってからキッチンに足を向ける。そこには朝食に群がる見慣れた連中がいた。

「おい?」

「寝坊助なのね。ご飯、さきに頂いているわよ。あ、お母さんお味噌汁おかわり」

 元気にお椀を差し出したのはエルフのエマ=クエーガーである。

「おい?」

「気にしないでぇ。若菜ちゃんのブレスレットは新調したし、魔術パスを知っているのは私だけだからぁ。朝食で焼き魚が出てくるなんて豪華ね」

 なぜか燃燈毬が椅子の上で正座をして、秋刀魚を食べていた。

「おい!」

「おいおい煩いわよ。早く座って食べなさいよ。何その格好は?学ランなんか着て。コスプレの趣味でもあるの?」

 若菜が潮の格好を見て、鼻で笑った。連日マスコミを賑わす三人が揃って三浦家でご飯を食べていた。

「おいいぃ!」

「だから、何よ?麹町のホテルには報道関係者が詰め寄せていて動きにくいからここを拠点にさせてもらうって通達したでしょう?」

 エマ=クエーガーの発言は初耳だった。

「私の質問に答えてないわ。どうして学ランなの?」

「どうしても何も、俺は学生だ!高校三年だ!何も不思議なことはねえよ!」

「六連とすみれちゃんと同学年なんだもんねぇ。三人とも老けてるけどぉ」

 子供の頃に成長を止めた魔女に言われたくはない。

「うそぉ!じゃ、何、あなたたちみんな年下だったの!」

「はいはい!私は二百九歳よぉ」

「大丈夫よ。私なんか三百十七歳なんだから。若菜もリーゼントも子供みたいなものよ。三つくらい、三日ほどの違いしかないわ」

 長寿の二人が弁解するが、どうにも腑に落ちない若菜である。

 玄関に来客があったらしくインターホンが鳴った。

 騒がしいわね、と言い残し潮の母が向かった。

「本当に年下なの?私、年下にお前呼ばわりされていたの?こっちは最初敬語で接していたわよね」

「そうなるな。気にするなよ。見た目は俺のほうが上だ」

「そこが問題じゃないでしょ!これから学校に行くの?」

 それこそ彼の本業である。

「ついて来るか?」

「私行きたい!人間の学校ってやつに興味があったのよ。燃燈毬、制服を用意して!」

「私に合うサイズがあるかしらぁ」

「お前らは来なくていい」

「三浦潮、毬どのへの暴言の数々、そろそろ手打ちにしてやろうか?」

「げっ、轟先輩!」

 母親が玄関から迎え入れたのは近所に住む国防省陸軍大尉、轟加奈子であった。

「ふん、お前の素っ首などいつでも取れる。若菜どの、六連将軍よりこれを預かって参りました。初期設定と必要なアドレスはこちらで登録させていただきましたので、ご自由にお使いください」

 加奈子が差し出したのはスマートフォンであった。しかも、西芝の最新機種だ。

「あら、助かるわ。やっぱりこれがないと不便だもの。さて、ここに居合わせたみんなに要請するわ。メアド、交換しましょう!」

 箸を置いて若菜が募集をかけた。

 好きにしてくれ。

 もはや、突っ込む気力を無くした潮は、それでも若菜の連絡先を取得しにんまり笑った。

『三浦探偵社に依頼された元の世界に戻る手段を探すという案件はただ今、誠心誠意、実行中ではありますが、しばらくお時間をください』

 潮が初めて若菜に送ったメールがこれであった。


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