8話 スライムより硬いパンを食いちぎれ!
一限目のカオスな浮遊魔法の授業は、あくまで地獄の入り口に過ぎなかった。
続く二限目の『魔法史』では、眠気を誘う老教師の読経のような講義を延々と聞かされ、少しでも船を漕げばチョークが正確に飛んできた。ルナは器用に教科書を盾にして寝ていたが、俺は三回被弾した。
三限目の『薬学基礎』はさらに最悪だった。実験室に入れず裏庭の雑草取りをさせられた挙句、グレイが雑草を煮込んで怪しげな毒スープを作ろうとしてボヤ騒ぎを起こし、連帯責任でグラウンドを走らされたのだ。Yシャツ一枚の俺にとって、汗で張り付くシャツは不快極まりない。
極めつけの四限目の『体術』では、Sクラスが優雅に模擬戦をする横で、俺たちFクラスはひたすらスクワットと腕立て伏せを命じられた。ミィナだけは元気だったが、インドア派の俺やカイル、体力のないノアにとっては拷問だった。
キーンコーンカーンコーン……。
ようやく、午前の授業終了を告げるベルが鳴り響いた。
疲弊しきった俺たちはゾンビのような足取りで更衣室から出てきた。カイルはもう動けないと呻き、ミィナは床を這っている。「ご飯食べないと死んじゃう!」とミィナに背中を叩かれ、俺たちは最後の力を振り絞って「第一学生食堂」へと向かった。
***
食堂は広かった。
吹き抜けの天井には巨大な換気用の魔導ファンが回り、磨き上げられた大理石の床が光を反射している。
そして何より、食欲をそそる香ばしい匂いが充満していた。
焼きたてのパンの香り、じっくり煮込んだシチューのコクのある匂い、ジューシーな肉が焼ける音。
SクラスやAクラスのエリート生徒たちが、優雅にテーブルにつき、給仕たちに料理を運ばせているのが見える。
彼らのテーブルには、色とりどりのサラダや、湯気を立てるパスタが並んでいる。
「うわぁ、美味しそう……」
「やっぱり王立学園の学食はレベルが高いね! これなら午後の授業も頑張れそうだよ!」
カイルたちが目を輝かせて、メインの注文カウンターへ向かおうとした。
だが、その足は無情にも止められた。
「待て。お前らはあっちだ」
給仕係の強面のおじさんが、行く手を塞ぐように立ちふさがった。
彼が太い指で指したのは、食堂の最も奥、薄暗い隅にある小さな配膳口だった。
そこにはボロボロの看板が立てかけられ、手書きで『Fクラス専用配給所』と書かれている。
嫌な予感がする。
背筋に冷たいものが走るのを感じながら、俺たちは恐る恐るその配膳口へ向かった。
配膳口の職員が無言で無造作に乗せたのは、茶色い塊が二つと、申し訳程度の具なしスープのみ。ゴトッ、と石塊を置いたような重い音が響いた。
「……あのおじさん、これ何?」
アリエスが震える声で尋ねた。
「パンだ」
「嘘おっしゃい! こんなの石よ!」
アリエスがパンを掴んでテーブルに叩きつけると、カンッ! と甲高い音が響き渡った。
完全に鈍器だ。これで殴れば釘だって打てるだろうし、魔獣だって倒せるかもしれない。
「文句を言うな。数日売れ残って乾燥しきったパンだが、腹に入れば栄養価は同じだ。Fクラスへの予算配分では、それしか用意できん」
「ふざけんじゃないわよ! あっちの連中は焼きたてのクロワッサン食べてるじゃない! なんで私たちだけ乾パン以下なのよ!」
「身の程を知れ。嫌なら食うな」
取り付く島もない。
俺たちはトボトボと、指定された「テラス席」へ移動した。
テラスと言えば聞こえはいいが、屋根のない炎天下に置かれた、塗装の剥げた木のベンチだ。夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。
「詰んだ……」
カイルががっくりと項垂れる。
目の前には、石のようなパンと、ぬるい塩水のようなスープ。
ミィナは果敢にもパンに齧り付こうとしたが、「ぎゃっ!」と悲鳴を上げて歯を押さえている。猫獣人の牙でも無理なら、人間の歯などひとたまりもない。文字通り、スライムのほうがまだ柔らかいだろう。
「ふふっ、見てあいつら。石を食べてるわ」
「お似合いだな、落ちこぼれには。餌を与えられるだけ感謝しろってんだ」
屋内席の涼しい窓際から、エリートたちの嘲笑が聞こえてくる。
特に入試をトップで通過した赤髪の男、イグニスが、分厚いステーキをナイフで切り分けながら、わざとらしくこちらに見せつけるように口に運んでいた。
「……許せない。あいつらの肉、焼き尽くして炭にしてやろうかしら」
アリエスの目が据わっている。杖に手が伸びている。
まずい。空腹と屈辱で理性が飛びかけている。ここで暴れたら退学だ。
俺は必死に思考を巡らせた。
現状、手元にあるのは「石パン」と「水スープ」。
まともに食べれば歯が折れるか、精神が折れるかだ。
だが、俺は知っている。貧乏学生時代、スーパーで半額シールが貼られた売れ残りのカチカチのバゲットを、どうやって美味しく食べていたかを。
「みんな、諦めるな。まだ手はある」
俺は立ち上がった。
「はぁ? 何言ってんのよ。これを食べるくらいなら、寮の部屋に戻って非常食の乾パン齧ったほうがマシよ」
「いや、こいつを食べられるようにする方法がある。しかも、絶品に変える方法がな。……エリス、ちょっと手伝ってくれないか?」
「えっ、私ですか?」
突然指名されて、エリスが目を丸くした。
「ああ。君、実家が食堂だって言ってただろ? 調理器具の扱いくらいは慣れてるか?」
「は、はい。手伝いくらいなら……包丁も使えますけど」
「最高だ。君が頼りだ」
俺はエリスを連れて、再びカウンターへ向かった。
交渉相手は、さっきの強面のおじさんだ。彼は俺たちがパンを返しに来たと思ったのか、面倒くさそうに手を振った。
「あぁ? パンの交換は無理だぞ。食わないなら置いていけ」
「違うよ。その奥にある、賞味期限ギリギリの牛乳と卵。どうせ廃棄するなら、安く売ってくれないか?」
おじさんは怪訝な顔をした。
確かに、カウンターの奥には「廃棄予定」と書かれた箱があり、そこにひび割れた卵や、賞味期限が今日までの牛乳が置かれているのが見えていた。
「……金はあるのか?」
「これくらいなら」
俺がポケットからなけなしの小銭を出すと、おじさんは鼻を鳴らして奥から食材を出してくれた。
卵三個と、牛乳一本。あと砂糖を少々。
しめて銅貨数枚。あいつらが食べているステーキの十分の一以下の値段だ。
***
「よし、揃った」
俺たちはテラス席に戻った。
アリエスたちが「何する気?」と見てくる中、俺はエリスに頭を下げた。
「エリス、俺の分のスープ皿を空にして、そこで卵と牛乳、砂糖を混ぜてくれ」
スープはどうするのかって?
一口飲んでみたが、ただのぬるい塩水だった。具など欠片も入っていない。
俺はスプーンでスープの表面に浮いている「脂身」だけを慎重に掬い取り、別皿に移した。残りの塩水は、申し訳ないが庭の植え込みに吸ってもらった。
「はい、わかりました! ……あ、なるほど。卵液を作るんですね?」
さすが食堂の娘、察しがいい。
彼女は手際よく卵を割り、フォークでかき混ぜて黄金色の液体を作った。慣れた手つきだ。俺がやるより百倍上手いし、見ていて安心感がある。
「で、アリエス。その石パンを一口サイズに砕いてくれ。君の握力ならいけるだろ?」
「誰が怪力女よ! ……ふんっ!」
アリエスは文句を言いながらも、怒りに任せてパンを手刀で叩いた。
パカッ、と乾いた音がして、パンが綺麗に一口サイズに割れた。やっぱり怪力じゃないか。便利すぎる。
俺はそのパンを、エリスが作った卵液に浸した。
カチカチに乾燥したパンは、まるでスポンジのようにぐんぐんと液を吸い込んでいく。
「これが狙いか……乾燥しているからこそ、内部まで浸透するのが早い」
グレイが感心したように眼鏡を光らせた。
その通りだ。普通のパンより、乾燥パンの方がフレンチトーストには向いている。中まで液が染み込めば、焼いた時にトロトロになるからだ。
「でもアルトくん、どうやって焼くの? ここは加熱用の魔道具なんてないよ? 直火じゃ黒焦げになっちゃう」
カイルがもっともな疑問を口にする。
俺はニヤリと笑って、アリエスを見た。
「ここには超優秀な炎の魔道士がいるじゃないか。……アリエス、頼めるか?」
「は、はぁ!? 私を魔道具扱いする気!?」
「君にしかできないんだ。俺の種火じゃ火力が足りないし、他の奴らじゃパンごと消し炭にしちまう。繊細な火力調整ができるのは、Fクラスで君だけだ」
俺が頼み込むと、アリエスは「むぅ……」と口ごもった。
彼女はプライドが高いが根が真面目だし、何よりお腹が空いているから、頼られると断れないタイプらしい。
「……わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」
アリエスは不貞腐れながらも、杖の先から小さな炎を出した。
ボッ、と灯った炎は、大きすぎず小さすぎず、一定の温度を保っている。さすが名門フェルミナ家の令嬢。荒削りだが、集中すれば制御は完璧だ。
俺は購買で借りてきたステーキ用の鉄板をその上に乗せた。
油がないので、さっき掬い取っておいたスープの脂身を鉄板の上で溶かす。これがスープの唯一にして最大の使い道だった。
ジュワァァァ……。
脂が溶け出し、いい音がした。
そこに、卵液をたっぷりと吸ってずっしりと重くなったパンを並べる。
ジューッ……。
途端に、甘く、香ばしい匂いがテラス席に広がっていく。
卵とミルク、そして焦がした砂糖の香り。
それは空腹の学生にとって、暴力的なまでの食欲を刺激する香りだった。
「にゃあぁぁ……いい匂い……」
ミィナが涎を垂らして鉄板に張り付く。尻尾が高速で振られている。
ルナもいつの間にか目を覚まし、とろんとした目でパンを見つめている。
「アリエス、もう少し弱火だ。焦がさないようにじっくり……そう、完璧だ」
「う、うるさいわね。これくらい簡単よ」
アリエスの額に汗が滲む。
炎の維持は集中力を使うはずだが、彼女は文句を言いながらも、真剣な眼差しで炎を維持していた。意外と面倒見がいい。
そして数分後。
表面がきつね色にこんがりと焼け、中はふわふわに膨らんだ、特製フレンチトーストの完成だ。
「できたぞ。召し上がれ」
俺の合図と共に、全員がパンに飛びついた。
「はふっ、はふっ……んまーーい!!」
ミィナが叫んだ。
カチカチだった石パンは、口の中でとろけるように解け、卵と砂糖の濃厚な甘みが広がる。
「嘘……これ、あの石パンなの? 信じられないくらい柔らかい!」
調理を手伝ったエリスも目を丸くしている。
「ふん、まあまあね。……私の火加減が完璧だったおかげよ」
アリエスも顔をほころばせながら、熱々のパンを頬張っている。口元についた砂糖を舐めとる姿は、年相応の少女で可愛らしい。
「……甘い。幸せ」
ルナは幸せそうに咀嚼し、次を催促するように俺のYシャツの袖を引いた。
テラス席が、一気に幸福な空気に包まれた。
屋内席では、ステーキを食べていたイグニスやエリートたちがナイフを止め、信じられないという目でこちらを凝視していた。俺たちは工夫ひとつで、エリートたちの食事よりも豊かな時間を手に入れたのだ。
「すごいね、アルト。君、天才だよ」
カイルが感嘆の声を上げた。
俺は首を横に振り、「俺はただのアイデア係だよ。エリスの手際がなければ卵液はダマになっていただろうし、アリエスの完璧な火力調整がなければ黒焦げになっていた。みんなのおかげだ」と答えた。
そう俺が言うと、エリスは恥ずかしそうに下を向き、アリエスは「ふ、ふん! わかればいいのよ!」と顔を背けた。
彼女の耳は赤くなっていた。満更でもないらしい。
「……アルト」
ルナが口の端に卵液をつけたまま、俺を見上げた。
「これ、明日も食べたい」
「え?」
「石パン、やだ。アルトのご飯がいい」
「いや、俺は料理人じゃないんだぞ……」
「……ん。お願い」
恋愛感情ではなく、純粋な「食欲」と美味しい餌をくれる飼い主への「期待」に満ちた無防備な瞳で見つめられ、俺は苦笑するしかなかった。
「ちょっとルナ! あんたばっかり食べないでよ! 私のだって残しなさいよ!」
アリエスが横から割り込んできた。
「……アリエス、うるさい。これ私の」
「あんたねぇ……!」
甘いフレンチトーストを巡って、美少女たちがわちゃわちゃと騒ぎ始める。
俺は苦笑しながら、最後の一切れを口に運んだ。
甘い。そして温かい。
昨日のような廃墟掃除も疲れたが、こういう騒がしい昼休みもまた、気苦労が絶えなさそうだ。
周りの男子生徒たちからの「あいつら、なんか美味そうなもん食ってないか?」「つーか、なんであいつだけ女子に囲まれてるんだ?」という視線が痛い。
目立ちたくない俺としては、この状況はあまりよろしくない。
こうして俺たちFクラスは、石のようなパンをどうにか食べられる物に変え、また一つ結束を深めたのだった。
卒業証書への道は遠いが、とりあえず今日の餓死は回避できた。それで良しとしよう。




