61話 俺の卒業印だけ見つからない
卒業証書には、予行演習があるらしい。
入学第七百日。
三年生全員が大講堂へ集められ、一人ずつ白い紙を受け取っていた。
「まだ卒業まで二百九十日あるんですけど」
「だから今やるんだ」
隣に立つミネルヴァ先生は、面倒そうに煙管をくわえている。
「当日に名前が出ませんでした、では遅い。仮卒業証を発行して、学籍簿との接続を確かめる」
なるほど。
卒業式で初めて印刷したら、名前の漢字が違った。
前の世界でもありそうな事故だ。
ただし、この学園で使うのは印刷機ではない。
講堂の中央には、床を突き破って巨大な木の根が伸びていた。
世界樹の根。
大陸中の学籍や身分を記録している、本物の一部である。
根の先には薄い紙が一枚ずつ置かれ、記録課の教師が名前を呼んでいた。
「三年Aクラス、レイモンド・ハルバート」
呼ばれた男子生徒が根へ手を置く。
淡い緑の光が幹を走り、白い紙へ名前、学年、取得単位が浮かび上がった。
最後に、葉の形をした薄い印がつく。
仮卒業印だ。
本番では、あの葉が金色になれば卒業証書として完成するらしい。
「紙をもらうだけで、こんなに並ぶのか」
俺の前には、講堂を半周する列がある。
「卒業の予行で遅刻したら、欠席?」
ミィナが列の柵へ飛び乗った。
「今からその心配をするな」
「ボクの紙、お魚の形にできる?」
「できません」
記録課の教師が遠くから即答した。
聞こえていたらしい。
「四角い紙じゃ、食べられないよ!」
「魚の形でも食べるな!」
卒業証書を非常食にするな。
フェンリルたち五体は講堂の外で待っている。
大きな使い魔を全員入れると、卒業より先に床が抜けるからだ。
ナビだけは俺の肩にいる。
召喚獣用の待機札には五つの足跡と、一つの丸い刻みがついていた。
六体分である。
「アルトくん、緊張してる?」
カイルが振り返る。
「紙を受け取るだけだろ」
「手、冷たいですよ」
エリスに手首を取られた。
治療魔法を使うほどではない。ただ冷えているだけだ。
俺が卒業証書へ執着していることを、七人は知っている。
だから全員、俺より俺の顔を見ていた。
「本物じゃないんだから、失敗しても直せるわよ」
アリエスが言う。
「失敗する前提で励ますな」
「あんた、こういう時だけ悪い方へ考えるでしょ」
「……終わったら、食堂」
ルナが俺の袖を引く。
「卒業証より先に昼飯か」
「アルトが倒れたら、運ぶの重い」
縁起でもない。
やがてFクラスの番が来た。
最初はカイル。
根へ触れた瞬間、紙へ名前が浮かぶ。
カイル・ウィンザー。
三年Fクラス。
取得済み単位と、卒業までに必要な単位。
葉の印も、薄い緑色で正しくついた。
「出たよ!」
本人よりエリスが喜んでいる。
エリスの紙も問題なし。
その二枚を並べると、カイルが端をそっと重ねた。
「今くっつける必要ある?」
「風で飛ばないようにだよ」
講堂内は無風である。
アリエスは自分の名前が出るより先に、取得単位の火属性制御へ指を置いた。
「見なさい。最高評価よ」
「一年の時なら、紙ごと燃えてたな」
「燃やすわよ」
成長を褒めたつもりだったのに、炎だけは出た。
ルナの紙は、根から離しても机へ落ちなかった。
本人の重力が少し軽くなっているらしい。
「……卒業証、浮く」
「本番はちゃんと持ってくれ」
「アルトが持つ」
「自分の分まで俺に渡すな」
ミィナの紙には、右下へ小さな魚の絵がついた。
「やったー!」
「誰が描いた?」
「世界樹!」
違う。
根へ触れる直前、爪で引っかいた跡だ。
記録課の教師が頭を抱えていたが、文字には傷がないため再発行は免れた。
ノアも、グレイも問題なし。
グレイは自分の紙より、根から紙へ光が移る瞬間を見ている。
「ねぇ、一本だけ細い光が遅れている。面白いな」
「採取するなよ」
「世界樹の根を一本だけ」
「一本でもだめだ!」
最後が俺だった。
「三年Fクラス、カザハヤ・アルト」
記録課の教師に呼ばれる。
俺は根の前へ立った。
真っ白な紙。
卒業するという文字すら、まだ書かれていない。
「右手を根へ。魔力は流さなくていい。本人の魔力印を世界樹が読み取る」
「魔力が少なくても?」
「量ではなく形を見る。入学できた者なら問題ない」
入学できた者なら。
その言葉へ少しだけ安心し、俺は掌を根へ置いた。
木の皮は、石より冷たかった。
緑の光が一度だけ瞬く。
根の内側へ細い線が走り、紙の手前まで来た。
そこで止まった。
「……あれ?」
紙は白い。
名前も、学年も出ない。
もちろん葉の印もない。
「手を離さないで」
記録課の教師が別の枝を根へつないだ。
もう一度、光が走る。
今度は紙の端が少し緑になった。
しかし、すぐ白へ戻った。
『接続拒絶。記録経路ノ始点ヲ確認デキマセン』
ナビが読み上げる。
講堂の音が遠くなった。
「魔力が少ないせいですか」
ノアが近づく。
「いや」
グレイが根の横へしゃがんだ。
「光はアルトくんの魔力印を読んでいる。読めないなら、最初から動かないよ」
「では、紙が悪いのでは?」
エリスが新しい用紙を受け取る。
二枚目を置く。
同じだった。
俺の手から出た光は、紙の一歩手前で止まる。
「ちょっと、どういうことよ」
アリエスが記録課の教師へ詰め寄った。
「履修不足なら、足りない単位が出るんでしょ?」
「そのはずです」
「出席は?」
「本日まで欠席なし。記録上は問題ありません」
「なら出しなさいよ!」
炎で脅して出るなら、俺も頼みたい。
ミネルヴァ先生がアリエスの杖を下げた。
「順番に見ろ。最後の紙へ届かないなら、その前で止まっている」
進路希望調査で使った練習板と同じだ。
水路の出口が乾いていても、出口が壊れているとは限らない。
上流の弁が閉じていれば、その先には一滴も来ない。
「本物の学籍経路を開きます」
記録課の教師が世界樹の根へ五枚の札を差し込んだ。
入学。
出席。
単位。
本人確認。
卒業。
札と札の間に、細い光の溝が現れる。
入学は光った。
出席も、単位も光る。
本人確認で、光が二つに割れた。
一つは入学時の俺の魔力印へつながっている。
もう一つは、その手前で途切れていた。
「二本あるのか」
「通常は、出生登録から本人確認へつながる線と、入学後の魔力印を照合します」
記録課の教師が切れた方を指す。
「カザハヤ・アルトの出生登録がありません」
「それは最初から分かっていたことだろ」
ミネルヴァ先生の声が低くなる。
「異世界から来たんだ。この世界に出生記録があるわけがない」
「入学時は特別許可で仮の本人欄を作れます。ですが卒業は、仮のまま通せません」
「では、到来記録は?」
「異世界人用の様式が現行規則にありません」
「ないなら、今から作ればいいでしょ」
アリエスが当然のように言う。
「私たち七人が、アルト本人だと証言するわ」
「証言者なら、ミネルヴァ先生とロゼッタさんも頼めるよ」
カイルも自分の紙の裏へ名前を書き始めた。
「健康記録もあります」
エリスが鞄から薄い手帳を出す。
俺が火傷した日。
迷宮で腕を切った日。
ルナに潰されて腰を痛めた日。
最後だけ卒業審査へ出したくない。
「答案も、研究記録も、指紋もある」
ノアが挙げるたび、俺がこの世界へ残した物は増えていく。
「僕の採血記録も」
「いつ採った?」
「二年生の春に」
「同意した覚えがないぞ!」
「寝ている時ではないよ。君が風邪をひいた時だ」
「それでも説明しろ!」
今は採血の捜査をしている場合ではない。
記録課の教師は、七人の仮卒業証とエリスの手帳を順に見た。
「これらは、今日ここにいる人物がアルト本人だと証明できます」
「なら」
「ですが、記録の始点にはなりません」
教師は机から、目盛りのついた細い木の棒を出した。
「この棒で、机の長さを測ってください」
「今ですか?」
「お願いします」
端を机へ合わせようとして、気づいた。
棒の最初が折れている。
目盛りは三から始まっていた。
「ゼロがない」
「それでも、途中の長さは比べられます。昨日より伸びたか。同じ机か。ですが、端から端まで何センチかは決められません」
俺の入学記録も同じだった。
入学第零日から今日までなら、いくらでも比べられる。
毎日の出席が増えたことも、単位を取ったことも分かる。
だが、最初の目盛りがない。
俺という人間の始まりが、この世界の記録へつながっていない。
「地球の出生記録を持ってくれば?」
ミィナが机の下から顔を出す。
「取りに帰れるなら、卒業より先に家へ帰ってる」
「紙だけ呼ぶ!」
「召喚魔法で世界を越えるのは無理だ」
「じゃあ、お母さん呼ぶ?」
「もっと無理だ!」
会いたい気持ちまで、簡単な召喚術の相談にするな。
俺は折れた目盛り棒を机へ置いた。
「この世界へ来た日を、ゼロにできないんですか」
「到来した事実、場所、時刻。それを本人とは別の記録で証明し、世界樹へ登録できれば可能性はあります」
「本人の記憶だけでは?」
「後から書き換えられる記憶は、身分の始点に使えません」
俺が最初に目覚めた森。
枯れ葉。
動くツル。
空を横切ったドラゴン。
そこへ来るまでを見た者はいない。
最初に俺を見つけたのは、馬車で通りかかったミネルヴァ先生だ。
だから先生の記録が必要になる。
俺は横を見る。
先生は煙管へ火をつけず、折れた目盛り棒を見ていた。
俺は目の前にいる。
七百日、授業へ出た。
答案も書いた。
迷宮で怪我もした。
食堂の請求書なら、出生証明より分厚い。
それでも世界樹の学籍簿にとっては、途中から突然現れた人間だった。
コンセントから家電までの線はある。
壁の向こうにあるはずの発電所だけ、地図から消えているようなものだ。
途中の線へ電気を流しても、最初につながる場所がなければ正規の回路とは認められない。
「どうすれば直る」
俺は記録課の教師を見る。
「出生登録に代わる、正式な到来記録を作る必要があります。世界樹が本人の始点として認める形式で」
「作ればいいんだな」
「前例は五十七年前に一件だけです」
九条先生。
名前を聞く前に分かった。
「成功したのか?」
教師は答えなかった。
代わりに、俺の白い紙を封筒へ入れる。
「卒業判定が始まる入学第九百八十日までに接続できなければ、取得単位に関係なく卒業証は発行されません」
残り二百八十日。
三年生を全部やり直すという話ではない。
卒業できない。
欲しかった紙が、出ない。
「アルト」
アリエスが俺の右手を握る。
「……いる」
ルナが左の袖を掴んだ。
「私たちは、アルトさんがここに来た日を知りません」
ノアが白い紙を見る。
「でも、入学してからの日なら知っています」
「七人分あるよ」
カイルが自分の仮卒業証を裏返した。
「六体分も!」
ミィナが講堂の外を指す。
扉の向こうでツナがガラスへ顔を押しつけている。
魚の顔は証人として不安だが、数には入る。
「出生記録がないなら、別の始点を作ればいいんだね」
グレイが切れた光の前へ、新しい札を置いた。
まだ何も書いていない札だ。
「異世界から来た日を、記録の最初にする」
「それを世界樹に認めさせる方法を探す」
ミネルヴァ先生が言った。
怒っている。
記録課ではなく、自分に向けた顔だった。
「九条の記録を開く。地下書庫の封印区画もだ」
「先生、何か知ってるんですか」
「全部ではない」
短い答え。
知らないと言わなかった。
俺は白い仮卒業証を受け取る。
七人の紙には名前と薄い葉。
俺の紙には、何もない。
予行演習で見つかってよかった、と喜ぶべきなのだろう。
当日まで知らなければ、本当に終わっていた。
だが、卒業証書の予行演習で留年より重い話を出すのは、本番が早すぎる。
「先生」
「なんだ」
「これ、白紙で提出した扱いになりますか」
「発行拒絶だ」
「もっと悪い!」
進路希望調査に続いて、卒業証書まで白紙。
二度目の三年生は、紙との相性が最悪だった。
しかも今度の白紙は、俺が書かなかったわけではない。
書こうとした世界樹の方に拒まれた。
理不尽さだけは、三年生へきっちり進級している。




