62話 地下書庫最下層立入禁止
地下書庫に、さらに地下があった。
入学第七百五日。
「本棚をどけたら階段って、建築確認どうなってるんですか」
「五十七年前に聞け」
ミネルヴァ先生が埃だらけの本棚を押す。
重そうに見えた棚は、床の溝へ沿って横へ滑った。
奥から現れたのは、下へ続く石段と赤い札である。
『最下層封印区画。許可なき立ち入りを禁ず』
大陸共通文字だった。
九条先生の日本語ではない。
「卒業印の手がかりを探してたんだよな?」
カイルが札を読み直す。
「その予定だった」
仮卒業証を拒絶されてから五日。
俺たちは、九条先生が残した資料の目録を片っ端から調べていた。
卒業。
世界樹。
到来記録。
その三つが書かれた箱は見つからない。
代わりに、ロゼッタさんが古い貸出簿の裏から鍵を見つけた。
鍵には『下』と一文字だけ彫られていた。
簡潔すぎる手がかりだと思ったが、本当に下が出てきた。
「開けるわよ」
アリエスが札へ手を伸ばす。
「待て」
俺は手首を掴んだ。
「何よ」
「いつから閉じてたか分からない場所だぞ。中の空気が無事とは限らない」
「腐るの?」
ミィナが石段の隙間へ鼻を近づける。
「空気は魚じゃない」
「でも変な匂いするよ」
耳が前へ向き、尻尾が太くなる。
ミィナの鼻は、ナビより先に地下の臭いを拾っていた。
「土と、鉄と、古い水!」
「最後は飲んだことあるのか?」
「井戸の底で!」
飲むな。
俺は階段の上へ小さな油皿を置き、糸ほどの火をつけた。
炎は真っ直ぐ立っている。
赤い札の端だけを少し剥がす。
石扉の隙間から、冷たい空気が細く漏れた。
油皿の炎が、こちら側へ大きく傾く。
「中へ空気が吸われてる?」
エリスが一歩下がった。
「こっちより気圧が低いんだ」
長く閉じた部屋の空気が冷えて縮んだのか。
別の場所へ空気が抜け続けているのか。
今の炎だけでは決められない。
ただし扉を一気に開けば、埃と何かをまとめて吸い込む。
「カイル。外向きに弱い風を作れるか」
「吸い出すんじゃなくて、階段の上へ流す感じ?」
「そう。まず入口の空気だけ、俺たちから遠ざける」
「分かった。ホークも手伝って」
カイルとストーム・ホークが、石段から横へ抜ける風を作る。
ノアは光を細く絞り、隙間だけを照らした。
グレイが嬉しそうに眼鏡を押し上げる。
「ねぇ、開ける前からこんなに面白いなら、中はもっと」
「吸うなよ」
「何を?」
「何かあっても吸うな!」
こいつは未知の粉を見ると、肺まで分析器にする。
アリエスが炎で油皿をもう二つ灯し、入口、階段の中ほど、扉の前へ置いた。
上の火は燃える。
中央も燃える。
扉前だけ、青く小さくなった。
「酸素が少ない?」
「可能性はある」
炎が消えるから即座に酸素不足とは限らない。
別の気体が混じっても、風が強くても消える。
だが、人間を先に入れて確かめる理由はない。
『入口付近ノ酸素濃度、通常値ヨリ低下。微量ノ硫化物ヲ検知』
ナビの赤い光が点滅する。
「ほら、待って正解だろ」
「まだ入らないの?」
ミィナは四つん這いで札の下をのぞいている。
「お前が一番待て!」
尻尾を掴む。
「魚の匂いもする!」
「それはツナだ!」
後ろでスカイ・ツナが水球ごと階段へ近づいていた。
大きな使い魔五体は、地下書庫の広間で待機させる。
狭い石段へ全員で入ったら、危険より先に詰まる。
ナビだけを先へ飛ばし、細い管を階段の下へ通した。
カイルが管から空気をゆっくり吸い上げ、外へ逃がす。
同時に別の管から、上の空気を少しずつ送る。
一時間後。
三つの油皿が、同じ大きさで燃えた。
「よし。扉を開ける」
ミネルヴァ先生が古い鍵を差し込む。
赤い札が、乾いた音を立てて裂けた。
***
最下層は、本の部屋ではなかった。
石扉の向こうに広がっていたのは、細長い機械室である。
壁から黒い管が何本も入り、中央の大きな石箱へつながっている。
床には歯車。
天井には、太い根。
世界樹の根と、黒い管が同じ場所で絡んでいた。
「これ、ラグナ村の下にあった管と同じよ」
アリエスが表面の製造番号を照らす。
ゼニスの研究炉。
学園の第零層前。
ラグナ村の井戸。
三か所で見た数字の並びと一致していた。
「卒業の資料じゃないじゃない」
「世界樹の根がある。完全な外れでもなさそうだ」
俺は石箱の横に積まれた木札を取った。
文字は大陸共通文字。
古い綴りだが、読めないほどではない。
『広域魔力均衡設備』
「均衡?」
ノアが隣から読む。
「一か所から集める装置ではないんですか」
「最初は違ったらしい」
壁には、九つの皿を管でつないだ模型があった。
皿には、村、森、学園、空港、農地を示す小さな絵。
全部に青い砂が入っている。
皿同士をつなぐ管の途中には、浮きのついた小さな弁があった。
「これ、遊んでいい?」
ミィナの指が村の皿へ伸びる。
「聞く前に触るな!」
すでに青い砂を半分すくっていた。
村の皿が軽くなる。
するとカチン、と小さな音がした。
管の途中にあった浮きが下がり、隣の森から砂が流れ込む。
「おおー! 増えた!」
「戻せ。村の魔力を手で盗んだ犯人になるぞ」
「ボク、返す!」
慌てて砂を戻す。
今度は村の皿から森へ砂が移り、二つの高さが近づいた。
一方向へ集めるだけではない。
低い方へ流す。
「皿の重さで弁が動くんだね」
カイルが浮きと皿をつなぐ細い棒を追う。
「電気も魔法も使っていません」
ノアが驚いたように目を細めた。
「だから、地脈が弱った時代でも動かせたんだろうな」
機械室の壁には、古い年表が残っていた。
百二十年前。
大陸中央部で、地脈が三年続けて弱った。
井戸水を持ち上げる魔法が止まり、畑の保温結界が消え、冬には多くの村が捨てられた。
その時に作られたのが、この設備だった。
一番豊かな土地から全部奪うのではない。
全ての場所へ、井戸を一日動かす量。
苗木を凍らせない量。
夜の灯りを消さない量。
それだけを先に残す。
余った分を貯め、足りない場所へ送る。
魔力の大きな貯金箱だった。
「作った人は、悪い人じゃないね」
ミィナが年表の村の絵を撫でる。
「装置に善悪はないよ」
グレイは床へ膝をつき、歯車の摩耗を見ていた。
「使い方と、壊れた時に誰が直すかだ」
「この修理記録、途中で終わっています」
エリスが壁の木札をめくる。
最初の六十年は、半年ごとに点検されていた。
浮きの重さ。
弁の動く幅。
九つの皿が閉じる高さ。
五十七年前、九条という署名が一度だけある。
その後は飛び飛びになり、最後の十八年は白紙だった。
「十八年も掃除してないの?」
アリエスが指先で管をなぞる。
黒い粉が厚くついた。
「旧寮の風呂だって、三日放っておいたらミィナの毛で詰まるのに」
「ボクだけじゃないよ! シープも!」
「羊は女子風呂へ入ってないでしょ」
「ルナが運ぶ!」
「……あったかいから」
犯人が二人に増えた。
百年前の設備を十八年放置するのは、風呂の排水口より悪い。
しかも詰まって止まったのではない。
開いたまま固まっている。
水道なら蛇口が外れ、誰も閉められない状態だ。
「お風呂の水みたい」
ルナが浮きを押す。
「たぶん同じ仕組みだ」
浴槽の水が減れば、浮きが下がって弁が開く。
水が一定まで増えれば、浮きも上がって弁を閉じる。
こいつは水の代わりに、地脈の魔力を見ている。
一つの地域で魔力が余れば弁が開き、足りない場所へ送る。
送り先が満ちれば閉じる。
大干ばつや地脈の衰えが起きた時、全ての場所を最低限だけ生かすための設備だった。
「昔は、学園が分ける側だった?」
カイルが学園の皿を持ち上げる。
「この記録では、学園の地下に一番大きな貯留槽がある。魔力が多い時に蓄えて、弱った地域へ戻していた」
「良い装置じゃない」
アリエスの声は、まだ明るい。
グレイが一つの浮きを持ち上げるまでは。
「でも、これ沈んだままだよ」
木の浮きには、黒い金属粉がこびりついていた。
持ち上げても、手を離すと底へ落ちる。
弁は開いたまま。
「ほかもです」
エリスが二つ目を見る。
そちらは軸が錆び、動かない。
三つ目は、浮きそのものが割れて水を吸っていた。
九つある弁のうち、閉じるものは二つだけだった。
「自動制御が壊れている」
学園の石箱だけは、今も低い音を立てている。
授業。
結界。
寮。
街の照明。
大きな学園都市は、毎日大量の魔力を使う。
貯留槽の水位は下がり続ける。
本来なら、周辺の皿が最低線まで下がったところで弁が閉じる。
その弁が開いたままなら。
「学園が使った分だけ、村と森から吸い続ける」
俺の声が、機械室に残った。
ラグナ村の井戸で魔力が消えた理由。
猫の森で排水が止まった理由。
ゼニスの炉の下で、管が震えていた理由。
一つにつながる。
「止めるわ」
アリエスが主弁へ手をかけた。
「待て!」
「何を待つのよ! これが村から吸ってるんでしょ?」
「今閉じたら、学園へ入る魔力も止まる」
「止めればいいじゃない!」
「結界まで落ちるかもしれない」
学園の外には、魔獣の森がある。
校舎の中には、薬品庫も召喚施設もある。
全部が安全に止まる保証はない。
「だからって、このまま吸わせるの?」
「違う。止める順番を調べる」
言いながら、自分でも嫌になった。
順番。
記録。
少しずつ。
最近の俺は、そればかり言っている。
だが、正義感だけで主電源を抜き、人工呼吸器まで止めたら正義では済まない。
今必要なのは、全部を壊す勇気ではなく、何がこの管へつながっているかを知る時間だ。
「一つだけ、模型で閉じてみよう」
グレイが青い砂の皿へ手を伸ばす。
「模型ならね」
アリエスは本物の弁から手を離した。
模型の村の弁を閉じる。
学園の皿へ落ちる砂が減った。
すると別の森の弁が大きく開き、そちらから流れる量が増えた。
「一か所を守るだけだと、別の場所へ負担が移る」
ノアが森の皿を押さえる。
複数の弁を少しずつ閉じ、学園側の使用量も減らさなければならない。
壊れた浮きを直すだけでは足りない。
どの場所へ最低どれだけ残すか。
誰が決めるのか。
機械だけでは答えが出ない問題だった。
『警告。周辺魔力密度ノ低下ヲ検知』
ナビの声と同時に、機械室の灯りが暗くなる。
俺たちが入るために開けた扉から、外の魔力が流れ込んでいる。
黒い管が、こちらの魔力まで拾い始めたらしい。
階段の上で、フェンリルが低く鳴く。
ホークの翼音も聞こえた。
「出るぞ」
ミネルヴァ先生が即座に命じた。
八人で階段を上がる。
最後にナビが扉を撮り、俺が赤い札の代わりに新しい封印札を貼った。
広間へ戻ると、五体は全員自分の足で立っていた。
ただしシープは、いつもより床に近い。
ツナの水球も小さい。
管から離れると、少しずつ元へ戻った。
「能力が弱くなっただけ」
ルナがシープの毛へ顔を埋める。
「それでも、長く中へ入れる場所じゃないな」
次は滞在時間を決める。
交代で入る。
扉の外に必ず二人残す。
そして、本物の弁は触らない。
「九条先生の資料は?」
カイルが聞く。
「機械室の奥に、まだ棚があった」
ナビの記録には、黒い管の向こうに小さな木箱が映っていた。
蓋には日本語がある。
『卒業印を必要とする次の人へ』
俺宛てではない。
だが、この学園で読める人間は、たぶん俺しかいない。
「卒業証書一枚を探してたはずなんだけどな」
「世界を救う話になった?」
ミィナが目を輝かせる。
「してない。管の修理だ」
「大工さん!」
「それくらいで済ませたい」
俺が欲しいのは卒業証書だ。
地域全体の魔力料金表ではない。
次回の持ち物欄へ、縄、油皿、換気管、交代札を書く。
ミィナが一番下へ魚弁当を足した。
「封印区画は飲食禁止だ」
「入口で食べる!」
「匂いだけ中へ入るぞ」
「じゃあ中の匂いをおかずにする!」
五十七年前の空気で飯を食うな。
腹痛まで歴史資料にする気はない。
それなのに手がかりの箱は、壊れた公共設備の奥にある。
卒業するための提出物が、また一つ増えた。
今度は紙ではなく、周辺地域の地脈全部らしい。
本当にやめてほしい。




