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60話 三人なら坂道も遠回り

 三人なら、坂道も遠回りになる。


 入学第六百八十五日。


 朝六時。


 俺、アリエス、ルナは旧第三学生寮の玄関へ並んでいた。


 玄関は、出発する三人より見送る側で詰まっていた。


 カイル、エリス、ミィナ、ノア、グレイ。


 ホーク、カーバンクル、ツナ、フェンリル、シープ。


 ナビだけは充電台へ置いてある。


『同行ヲ推奨シマス』


「恋愛まで記録するな」


『事故発生時ノ』


「お前がいること自体が事故なんだ」


 ナビは抗議するように一度浮き、充電台へ戻った。


 使い魔まで連れていけば、三人の馬車が十四人の遠足になる。


 今日は世話を頼み、俺たちだけで出る。


「お土産、お魚!」


 ミィナが俺の財布へ魚の絵を入れる。


「紙を食うのか?」


「忘れない印!」


 財布を開くたび魚と目が合う。


「帰りも三人だよね?」


 カイルが聞いた。


「そこだけは変えないわ」


 アリエスが答える。


「アルトが宿代を惜しんだら?」


「二人で止める」


 俺だけ旅程ではなく危険物として扱われている。


 ルナが俺の左手を一度握った。


 ゆっくり、の合図。


「まだ出発前だぞ」


「質問が多い」


「私たちも行ってらっしゃいを言いたいです」


 ノアが笑った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 三人で寮を出た。


   ***


 温泉街の朝市は、湯気の中にあった。


 石畳の隙間から白い蒸気が上がり、干し果物、金物、布、薬草の店が並んでいる。


 最初はアリエスの手袋店。


「実技教官になるなら、熱を止める手袋が欲しいの」


 店主が厚い竜皮の手袋を出した。


 見た目は強い。


 値段も強い。


「金貨三枚!?」


「王宮騎士用だよ」


「教師になる前に破産するわ」


 アリエスが棚へ戻す。


 次は薄い革。


 指は動くが、熱した鍋へ近づけると内側まで温かくなった。


 三つ目は、外が薄い革で内側に羊毛を入れた物。


 風は通しにくく、指も曲がる。


「シープの毛なら無料?」


 ルナが羊毛の縫い目をつまむ。


「本人が落とした分だけよ」


 アリエスは引き抜くとは言わなかった。


 グレイの同意書は、買い物にも残っている。


「右手を貸して」


 アリエスが俺の手へ試着品をはめた。


「どうして俺?」


「自分で両手につけたら、留め具を締められないでしょ」


 アリエスの指が、俺の手首へ触れる。


 留め具を締めるだけなのに、顔が近い。


 赤い髪から、いつもの香油がした。


「痛くない?」


「大丈夫」


「指を曲げて」


 言われた通り握る。


 アリエスの手まで一緒に握った。


 本人は離さない。


 市場の人混みで、ルナが一歩後ろに残った。


 俺は気づかなかった。


 右手へ一度、力が入るまで。


 アリエスが握っていた手で、ゆっくりの合図を出した。


「ルナ」


 振り返る。


 ルナはシープ用の乾草を見ていた。


 見ているふりをしていた。


「置いていった?」


 アリエスがルナの顔をのぞく。


「少し」


「ごめん」


「手袋、選ぶ時間。分かってる」


「分かってても、嫌だった?」


「少し」


 ルナは正直に答えた。


 アリエスは俺の手から手袋を外し、ルナへ渡す。


「どこが動きにくいか見てくれる?」


 ルナは革を曲げ、指先を押した。


「親指。縫い目が硬い」


「本当ね」


 店主に別の大きさを出してもらう。


 今度は三人で確かめた。


 ルナを買い物係へ入れれば、寂しさが全部消えるわけではない。


 それでも、いないふりをしたまま終わらせなかった。


 手袋は銀貨八枚。


 俺の宿代より安く、俺の全財産より高かった。


 アリエスは自分で払った。


「俺の出番は?」


「荷物持ち」


 恋人としての役目が、急に安全になった。


 市場の出口で、ルナが俺の左手を取る。


「次、私」


「真ん中を交代するんじゃなかったの?」


 アリエスが右側へ並んだ。


「今はアルトが真ん中」


「坂で交代よ」


 両側から手を引かれる。


 腕はまだ外れなかった。


   ***


 共同足湯は、石段の二百段目にあった。


 屋根の下へ細長い湯船があり、山側の口から熱い湯が入り、街側から流れ出ている。


 三人で並んで座る。


 最初は俺が中央だった。


「熱い!」


 右足を入れた瞬間、引き抜いた。


「市場側はぬるい」


 ルナは平気そうに足を沈めている。


 湯は山側から入り、街側へ流れる間にぬるくなる。


 同じ湯船でも、場所で温度が違った。


「場所を替えるわよ」


 アリエスが山側。


 俺が中央。


 ルナが出口側。


「アリエスは熱くないのか?」


「これくらいなら平気よ」


「私は、ぬるい」


「じゃあ、もう一つ中央へ寄れ」


 ルナが近づく。


 三人分の足が入ると、出口から湯が一気に溢れた。


「三人で入ると、湯まで増える」


「あんたたちの足が押し出しただけよ」


 アリエスが足先で俺の足を押した。


 反対側から、ルナの足も触れる。


「狭くないか?」


「三人だから」


 ルナは動かない。


 アリエスも動かない。


 俺だけ動くと、どちらかの足を踏む。


 予定表の余白を、足湯で全部使うことになった。


 誰も時計を見なかった。


   ***


 月見坂の発着場へ着いたのは、予定より四十分遅かった。


 余白は、正しく消えた。


 高台から温泉街の赤い屋根が見える。


 その向こうに学園の尖塔。


 発着場では、重力船の小さな練習艇が上昇試験をしていた。


 ルナは係員へ許可証を渡す。


「朝より、高い」


 同じ魔力なのに、昼の練習艇は記録より浮いていた。


 ルナが薄い紙を放す。


 温泉街の湯気の上で持ち上がり、艇と同じ方へ流れた。


「重力だけじゃない。温かい空気も押してる」


「じゃあ昼に飛べば得ね」


 アリエスが艇を追う。


「上がる時は。降りる時、屋根へ行く」


 実際、一艇が係員の帽子をさらい、温泉宿の煙突へ近づいた。


 三人とも説明より先に走った。


 俺は帽子。


 アリエスは煙突の火。


 ルナは艇を少しだけ重くする。


 着地した艇から、青い顔の訓練生が降りてきた。


「進路見学ですか?」


「今ので就職希望が増えた」


 ルナは未来の調査欄へ一行だけ足した。


『着陸を先に考える』


 進路希望が、また一行具体的になる。


 観測を終え、三人で高台の長椅子へ座った。


 今度はルナが中央。


 俺とアリエスが両側。


「私、二番目だった」


 ルナが街を見たまま言う。


「アリエスが先に、アルトと恋人になった」


 アリエスの肩が少し動く。


「嫌?」


「順番は、消えない」


「消すつもりはないわ」


「うん。消してほしいわけじゃない」


 ルナは俺の手を取る。


「でも、二番目だから少ない、は嫌」


「少なくしない」


 すぐ答えた。


 ルナが俺を見る。


「何を?」


 言葉に詰まった。


 時間か。


 口づけか。


 部屋へ行く回数か。


 予定を組んだ日に、数へそろえないと決めたばかりだ。


「向き合うことを。二番目だから後回しにしない」


 ようやく答える。


 ルナは一度だけ握った。


 ゆっくりでいいという合図だった。


「私も怖いわ」


 アリエスが反対側で言う。


「三人なら誰も傷つかないって、あんたが楽な答えにしてるんじゃないかって」


「それは」


 否定しかけ、止めた。


 最初に先着順と言った男である。


 誰も断らずに済む答えへ逃げたい気持ちは、確かにあった。


「楽だから選んだ部分もある」


 アリエスの目が細くなる。


「でも、今日ここへ来たのは、断れなかったからだけじゃない。アリエスともルナとも一緒にいたかった」


「二人を比べて、一番を決めないまま?」


「決めないことを隠れ場所にはしない。嫌な時は聞く。俺が間違えた時は止まる」


「全部、これから?」


「うん」


 完成した答えはなかった。


 それでも、できているふりをするよりはましだ。


 アリエスがルナを見る。


「私は、ルナがいるから我慢してるだけじゃないわ」


「私も」


「アルトがいなくても、あんたがいなくなるのは嫌」


「うん」


 短い返事だった。


 ルナの肩が、アリエスへ触れる。


 二人の間にいるのは俺ではない。


 三人でいる時も、二人の関係は俺を通さずに残る。


 高台の風が強くなった。


 帰りは予定通り、急な石段ではなく長い荷車道を下った。


 近道より遠い。


 話す時間は、その分だけ増えた。


   ***


 宿へ着いた時、受付には二つの鍵が用意されていた。


 大きな部屋。


 小さな部屋。


 先に夕食を食べ、三人それぞれ風呂へ入った。


 同じ部屋へ戻る前に、廊下で止まる。


「答えを変えるなら、今でもいいわ」


 アリエスが二本の鍵を見せた。


「大きい部屋」


 ルナが選ぶ。


「俺も」


「私もよ」


 小さな部屋の鍵は返さなかった。


 夜中に誰かが一人になりたくなれば、使えるよう机へ置く。


 大部屋には、三つの茶杯と広い寝台があった。


 窓の外では、温泉街の湯気が月明かりを白くしている。


 三人で茶を飲む。


 誰も最初の一口から先へ進まない。


「昼より静かね」


 アリエスが茶杯を包む。


「三人とも、緊張」


「俺だけじゃないのか」


「あんたは顔に出すぎ」


 茶杯を置く。


 アリエスが俺の襟を掴んだ。


 すぐには引かない。


「続けていい?」


「うん」


 俺はアリエスを見て答える。


 ルナも一度うなずいた。


 アリエスが襟を引き、口づける。


 赤い髪が頬へ触れた。


 離れると、ルナが俺の手を取る。


「私も」


 今度は銀髪が視界を覆った。


 短い口づけの後、二人は互いを見た。


「ルナ」


「うん」


「嫌じゃない?」


「アリエスは?」


「怖い。でも、嫌じゃない」


 ルナがアリエスの手へ触れる。


 一度、握る。


 ゆっくり。


 アリエスも握り返した。


 ルナから顔を近づける。


 二人の唇が、ほんの短く触れた。


 離れたあと、アリエスの耳が髪より赤い。


「見すぎよ」


「どこを見ればいいんだ」


「私たち」


 ルナの視線が、二人の間を動く。


 二人の手が、今度は俺へ伸びる。


 アリエスの指先に、小さな炎が灯った。


 卓上灯へ移す。


 橙色の光が、三人の影を壁へ重ねた。


 ルナは寝台の中央だけを少し重くする。


「逃げられなくしない?」


 俺は寝台と小部屋の鍵を見比べる。


「寝台だけ」


 立ち上がろうと思えば立てる。


 小さな部屋の鍵も、手の届く机にある。


 誰も取らなかった。


「続ける?」


 俺が二人へ聞く。


「続けるわ」


「続ける」


 二人も俺へ聞き返す。


「続けたい」


 三つの答えがそろった。


 アリエスの髪留めが、茶杯の横へ落ちる。


 ルナの部屋着の紐が、白いシーツへ滑った。


 俺の上着は、なぜか小さな部屋の鍵の上へ落ちた。


 毛布の中で三人の足が触れ、誰のものか分からなくなる。


 手だけは分かった。


 右にアリエス。


 左にルナ。


 途中で二人の手も重なり、三人とも離さなかった。


 卓上灯の炎が小さくなる。


 ルナの重力で寝台の中央へゆっくり近づき、アリエスの熱が残った距離を消した。


 互いの名前を呼ぶ声が重なったところで、橙色の灯りが消えた。


   ***


 入学第六百八十六日の朝。


 目を開けると、机の上に小部屋の鍵があった。


 昨夜と同じ場所である。


 誰も取りに行かなかった。


 広い寝台の端には、使われなかった予備の毛布が畳まれたまま残っている。


 使った毛布は一枚。


 その下で、三人の手だけが重なっていた。


 一番下が俺。


 その上にアリエス。


 さらにルナ。


「重い」


「私じゃないわよ」


 アリエスが目を開ける。


「……私も重力、使ってない」


 ルナも起きていた。


「じゃあ、三人分の腕の重さか」


 昨夜は、その手を何度も離す機会があった。


 止まるたびに聞き、続けるたびに答えた。


 朝までここへ残ったことだけは、魔法のせいにできない。


 アリエスが最初に手を抜いた。


 離れるためではない。


 隣にいるルナの顔を確かめるためだった。


「ルナ」


「うん」


「朝になって、嫌になった?」


「恥ずかしい」


「それは私もよ」


「でも、嫌じゃない」


 ルナは今度はアリエスへ聞く。


「私がいたこと、嫌?」


「簡単だったとは言わないわ」


 アリエスは毛布の端を握った。


「二人だけなら考えなくてよかったことが、百個くらい増えたもの」


「八十六?」


「グレイの同意書に合わせないで」


 朝から一つ減った。


「でも、昨日のルナをいなかったことにはしたくない」


「私も。アリエスを消したくない」


 二人の答えは、俺を通らずに届いた。


 そこで安心した俺へ、アリエスの手が伸びる。


 頬をつねられた。


「あんたは何を他人事みたいに聞いてるのよ」


「二人が話してたから」


「アルトも答える」


 ルナまでこちらを見る。


「昨夜、どちらかへ合わせて我慢したことはある?」


「緊張はした。怖くもあった。でも、我慢して続けたことはない」


「本当に?」


「二人ともと一緒にいたかった」


 声にすると、朝の方が恥ずかしい。


 暗闇は仕事をしてくれていたらしい。


 アリエスの指が、つねるのをやめる。


「なら、毎回右と左へ同じことをして公平、みたいなのはやめなさい」


「え?」


「順番に口づければ解決した顔をしないで」


 昨夜の俺は、やった。


「見てたのか」


「当事者よ!」


「その時に言ってくれ」


「その時は余裕がなかったのよ!」


 ルナが毛布の中で笑う。


「今、言えた」


「そうね」


 昨夜の正解を、朝まで正解にし続ける必要はない。


 言えなかったことを朝に言い、次を変えればいい。


 三人の関係は、一晩で完成するほど安い宿泊案ではなかった。


 廊下から扉を叩く音がする。


「朝食は何名分お持ちしますか」


 受付係の声だった。


 三人で顔を見合わせる。


「三人分です!」


 今度は、同時に答えた。


 扉の向こうで短い沈黙があった。


「大部屋へ、三名分ですね」


「確認し直さないでください!」


 アリエスが毛布へ顔を埋める。


 昨夜より赤い。


「帰りの馬車まで、一時間」


 ルナが窓際の時計を示す。


「着替えて、鍵を返して、朝食」


「順番が逆じゃないか?」


「朝食が来る前に着替える」


「それなら正しい」


 俺たちは三方向を向き、同時に毛布から出た。


 三人で始めても、着替えだけは共同作業にしない。


 そこは話し合う前から意見が一致した。


 朝食は部屋へ運んでもらった。


 三つの椅子ではなく、寝台へ並んで座る。


 アリエスがパンを三つに分け、ルナが茶を三杯へ注ぎ、俺が宿代を数えた。


「小さい部屋、使わなかったわね」


「朝に返せば、半分戻る」


「最初に金額」


 アリエスが笑う。


「帰りの食費が必要なんだよ」


 三人分の宿代は高かった。


 使わなかった一部屋の銀貨は戻った。


 残った朝の距離は、誰も返そうとしなかった。


 帰りの馬車へ乗る時、三枚の切符を一人ずつ見せる。


 人数は三人。


 アリエス。


 ルナ。


 俺。


 昨日と同じ数で帰る。


 ただし三人の間にあった距離だけは、行きよりずっと短くなっていた。

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