54話 寝坊の理由は重力のせいにできない
ルナから二度目の待ち合わせを渡された。
『入学第六百三十四日。日没後。私の部屋』
一度目より、場所が近い。
逃げ道も近いとは限らない。
「明日の一限は、二年次の修了説明だぞ」
「……知ってる」
「夜更かしするなよ」
「アルトも」
ルナは俺の袖を一度引き、シープに乗って食堂を出た。
入学第六百三十三日。
研究発表会が終わった日の夕方である。
明日の日没まで、あと一日。
待ち合わせの時刻を考えるだけで、今夜から眠れそうにない。
「その紙、隠すなら上下が逆よ」
向かいからアリエスに言われた。
俺は慌てて紙を伏せる。
「見たのか?」
「ルナから先に聞いたわ」
心臓が止まりかけた。
「どこまで?」
「明日、あんたに返事を聞くってところまで」
「返事?」
「月影観測塔で、次はもっと近くって言われたんでしょ」
観測記録より詳しい。
あの夜、口づけは秘密と書いたはずだ。
「ルナが話したのか」
「私から聞いたの。あの子が何も言わないまま待つと、あんたは卒業まで気づかないもの」
否定できない。
ルナへは、人数で割らないと答えた。
けれど、好きだとはまだ正面から言っていない。
言葉にしなくても伝わるという考えは、実験手順を読まずに成功すると思うのと同じだった。
たまたま一回動いても、次は止まる。
「アリエスは、どう思う」
「嫌よ」
即答だった。
「そこは少し考えてくれ」
「考えたから嫌なの。一人であんたを独り占めできるなら、その方がいい」
アリエスは水の杯を回した。
「でも、ルナを追い出してまで一人になるのは、もっと嫌」
炎より難しい顔をしている。
俺も同じだった。
誰かを選ぶことと、他の誰かを消すことが、いつの間にか同じ意味ではなくなっていた。
「この国では、婚姻簿に三人以上の名前を書く欄があるわ」
「あるのか?」
「知らなかったの?」
「婚姻簿を見る予定がなかった」
「今も予定の話はしてない!」
アリエスの耳が赤くなる。
種族ごとに寿命も家族の形も違うため、複数で一つの家を作ることは法律上珍しくないらしい。
制度があるから、気持ちまで簡単になるわけではない。
誰と何日過ごすのか。
嫉妬した時にどう言うのか。
誰かだけを話し合いから外さないか。
紙の欄より、決めることの方が多かった。
「私が許可する話じゃないわ」
アリエスが俺を見る。
「ルナと向き合うなら、私を断る理由にも、言い訳にも使わないで」
「わかった」
「あと、隠さないで」
「終わった後に全員を集めて報告するのか?」
「それは絶対にやめなさい!」
食堂中に響いた。
そこまで大きな声で言うと、すでに報告に近い。
「何の話?」
ミィナがツナの餌皿を持って戻ってきた。
「明日の修了説明よ」
「じゃあ寝坊しないようにしないと!」
俺は水を飲んだ。
喉を通った気がしなかった。
***
翌日。
朝から、全員がいつも通りだった。
カイルとエリスはホークとカーバンクルの餌当番。
ノアとグレイは研究発表の記録を図書館へ返しに行く。
ミィナは食堂へ入れないツナを連れ、外の餌場を掃除していた。
アリエスはフェンリルと訓練場。
ルナはシープの上で寝ている。
俺だけが、いつも通りではなかった。
『心拍数、平常時比一・四倍』
「読むな」
ナビにまで見抜かれている。
日没前、俺は風呂へ入った。
上がってから、もう一度入るか迷った。
二回入っても、心臓は洗えない。
「アルト、石鹸食べた?」
廊下でミィナに聞かれた。
「食べるか!」
「口から花の匂いがする!」
歯を磨きすぎたらしい。
ミィナは不思議そうに首を傾げ、ツナを追って走っていった。
待ち合わせの少し前に、ナビをグレイへ預けた。
「夜間測定は?」
『アルトノ心拍ヲ』
「しなくていい」
グレイは俺とナビを交互に見る。
「うひひ。用途は聞かない方がいいかな」
「聞くな。測るな。記録するな」
「三つも禁止されると興味が増えるね」
「同意書の第三項を思い出せ」
「理由を言わず断っていい、か。仕方ない」
ナビは研究室の充電台へ置かれた。
フェンリル、ホーク、カーバンクル、ツナは、それぞれの主人と寮の別室。
シープはミィナの部屋へ運ばれていた。
「今夜はツナと三匹で寝る!」
廊下の向こうで、ミィナの声がする。
人間一人、羊一体、魚一体。
数え方が全部違う。
それでも、ルナの部屋には俺とルナしかいなかった。
扉を叩く。
「……開いてる」
中へ入る。
暖炉には小さな火。
机には月麦茶が二杯と、焼き菓子が二つ。
寝台の上には、白い毛布が一枚。
見る順番を間違えた。
茶から見ればよかった。
「座って」
ルナが寝台の端を示す。
「椅子じゃないのか?」
「遠い」
「同じ部屋だぞ」
「遠い」
今夜の距離の単位は、厳しい。
寝台へ腰を下ろす。
ルナは銀髪を下ろし、薄い部屋着の上へ毛布をかけていた。
観測塔の時と違い、眠そうではない。
「アルト」
「うん」
「私のこと、好き?」
最初から本題だった。
逃げる時間を一秒もくれない。
「好きだ」
言葉にすると、意外なほど短かった。
六百三十四日もかける長さではない。
「アリエスも?」
「好きだ」
「ノアとミィナは?」
「まだ同じ答えを出せてない。でも、二人をいないことにはしたくない」
ルナはしばらく俺を見た。
「私を、一人分で見る?」
「人数で割らない。今はルナだけを見る」
「明日は?」
「明日は明日で、逃げずに話す」
満点の答えではない。
それでも白紙ではなかった。
「私、静かだから」
ルナが毛布の端を握る。
「待ってると、最後になる」
「月影観測塔でも、待たせたな」
「アリエスは言う。ミィナは走る。ノアは我慢する。私は寝る」
「最後だけ自分のせいじゃないか?」
「起こして」
「わかった」
笑ったあと、ルナの目がまた真剣になる。
「今夜のことだけじゃない。嫌な時、言っていい?」
「言ってくれ。俺も、誰かが黙ってるのを都合よく大丈夫だと思わないようにする」
「順番も?」
「先に話せる人だけが、毎回先にならないようにする」
恋愛を時間割にして終わりにはできない。
それでも、声の大きい者だけで予定を決めないという約束はできる。
「アリエスといる時、私が寂しかったら?」
「言っていい。でも、アリエスとの時間をなかったことにもしない」
「私の時も?」
「同じだ」
ルナは小さくうなずいた。
「誰も外で決めない」
「うん。本人がいない所で、その人の答えまで決めない」
法律の欄より先に、俺たちにはその一行が必要だった。
ルナが手を差し出す。
俺は指を重ねた。
「今夜、一緒にいたい」
「俺もだ」
「口づけより、先まで」
心臓が大きく鳴った。
月影観測塔の予定より、かなり先である。
「本当にいいのか?」
「うん」
「途中で嫌になったら、止める」
「アルトも。怖くなったら言って」
「怖くないと言ったら嘘になる」
「私も」
ルナが少し笑った。
俺から顔を近づける。
最初の口づけは、観測塔より長かった。
離れると、ルナの指が俺の襟へ触れる。
一つ目のボタンを外す前に、もう一度目を合わせた。
「続ける?」
「続ける」
今度は、ルナから唇を重ねた。
背中へ回った腕が、俺を寝台へ引く。
魔法ではない。
普通の腕の力だった。
「重力は使わないのか?」
「逃げられなくなる」
「逃げないよ」
「それでも、今は使わない」
ルナは自分の力で俺の手を取った。
袖口から入った指が、手のひらへ絡む。
俺の上着が床へ落ちた。
ルナの部屋着の紐が、枕元へ滑る。
白い肩へ銀髪がかかり、その間へ触れる前に、もう一度尋ねた。
「大丈夫か?」
「聞きすぎ」
「最初だから」
「……大丈夫。もっと近く」
首筋へ触れた唇に、ルナの呼吸が揺れた。
毛布の中で、膝と膝が重なる。
普段なら眠りへ落ちる体温が、今夜は眠気を遠ざけていた。
寝台の中央が、少し沈む。
「今、重力を使ったか?」
「少しだけ」
「さっき使わないって」
「アルトを縛らない。寝台だけ」
一人用の寝台へ二人分の重さが集まり、柔らかな詰め物が中央へ沈んでいる。
布を張った寝台は、平らな板より揺れを広く受ける。
中心が下がれば、二人の体は坂を滑るように近づく。
ルナは寝台の中央だけを、ほんの少し重くした。
「近づくために物理法則を使うな」
「……自然現象」
「魔法だろ」
笑った拍子に、緊張がほどけた。
俺が離れようとすれば、まだ離れられる。
離れなかった。
指を絡めたまま、残った距離を自分から埋める。
暖炉の火が小さくなり、銀髪の輪郭が暗闇へ溶けた。
毛布の下で、二人の呼吸だけがしばらく重なった。
***
入学第六百三十五日の朝。
目を開けると、部屋の小物が全部こちらを向いていた。
机の羽ペンは寝台側へ倒れ、空の茶杯は縁まで転がっている。
椅子も指一本分だけ近い。
脱いだ外套に至っては、床を半分渡って寝台の脚へくっついていた。
部屋が片づいたのではない。
俺たちの周りだけ、重力の底になっている。
その中心で、ルナが俺の胸へ頬を載せていた。
白い毛布は一枚。
枕も一つしか使われていない。
昨夜、二人で選んだ距離は、朝になっても元へ戻っていなかった。
「……起きた?」
ルナが目を開く。
「起きた。体だけ起きない」
「私も」
起き上がろうとすると、枕元の茶杯がこちらへ転がった。
俺の額へ当たる。
「痛い」
「……ごめん」
「朝から部屋ごと抱き寄せるな」
「寝てた」
無意識なら余計に困る。
「重力、切ってくれ」
「切ってる」
「じゃあ、なんで重いんだ」
「残ってる」
眠っている間、ルナの魔力が寝台の周りへ薄く溜まったらしい。
俺が端へ手を伸ばす。
壁の時計は動く。
窓の留め金も上がる。
寝台の周りだけ、物がこちらへ滑ってくる。
魔法の範囲が狭いほど、同じ力が小さな場所へ集まる。
広い床全体なら気づかない程度でも、寝台一台へ集まれば身体は重い。
柔らかな詰め物まで深く沈み、寝台そのものが浅い穴になっていた。
「どうやって出る」
「一緒に立つ」
「片方が先に立ったら?」
「戻る」
試しに俺だけ起き上がる。
腰が半分浮いたところで、毛布と枕とルナが一緒に滑ってきた。
「本当に戻った!」
「……アルトも」
「俺は自分の意思じゃない!」
「重力のせい?」
「今だけはそうだ!」
遠くで一限目の予鈴が鳴った。
残り十五分。
「昨日の好き、朝も同じ?」
ルナが俺の胸へ頬をつけたまま聞く。
「同じだ」
「重くなってない?」
「人数で割らないって言っただろ」
「……なら、起きる」
短い答えで、ルナの目がようやく朝になった。
額へ触れるだけの口づけをする。
今度は寝台を重くしなかった。
二度目の鐘が鳴る。
「本当に遅刻する!」
俺たちは三つ数えて、同時に立った。
一。
二。
三。
二人分の重さが同じ方向へ動き、寝台の底からどうにか抜ける。
その瞬間、周りへ集まっていた茶杯、羽ペン、外套が一斉に床へ落ちた。
朝から部屋だけが実験事故である。
片づける時間はない。
着替えを終えた時、残りは五分。
ルナの髪は片側だけ跳ね、俺の制服には重力で潰れた羽ペンの跡がついている。
「別々に教室へ行く?」
「一緒」
ルナは俺の手を取った。
廊下へ出る前に、一度だけ指へ力を入れる。
「アリエスと、話した?」
「昨日、先に話した」
「怒ってた?」
「嫌だって。でも、ルナをいなくする方が嫌だって」
ルナは少し考えた。
「私も、アリエスをいなくするのは嫌」
「じゃあ、これからも話す」
「うん。誰も外で決めない」
「今夜の細かいことまで話す必要はないからな」
「話さない」
「安心した」
「でも、好きって言われたことは隠さない」
「それは隠さなくていい」
秘密にしないことと、全部を見世物にすることは違う。
二人の間だけへ残すことも、これから一緒に決めればいい。
扉を開ける。
廊下には誰もいなかった。
全員、とっくに教室へ向かった後である。
俺たちは手をつないだまま走った。
教室へ着いたのは、本鈴と同時だった。
ミネルヴァ先生が出席簿から顔を上げる。
「遅い。理由は」
「重力が」
「夜更かし」
ルナが横から答えた。
「正直なのはルナだけだな。二人とも着席」
寝坊の理由は、重力のせいにできなかった。
俺の首元を見た先生は、出席簿へ何も書き足さなかった。
そこだけは、見なかったことにしてくれたらしい。




