51話 グレイの同意書は長すぎる
グレイの同意書は、教室の後ろまで続いていた。
入学第六百二十八日。
机から床へ落ち、椅子の脚を回り、黒板の下を通っている。
紙ではない。
道である。
「召喚獣健康観察研究への参加同意書、全八十六項だよ」
グレイが先頭を持って笑った。
「長い!」
「短くしたんだけどね」
「どこを?」
「参考文献を別紙にした」
別紙は窓際に積まれていた。
あれを積めば、スカイ・ツナの水槽と同じ高さになる。
「こんなの誰が読むのよ」
アリエスが紙の途中を拾う。
「第十九項。被験者の休息行動を妨げないための観察距離。第二十項。距離を測る際の測定者の靴底の厚さ」
「靴底で変わるだろう?」
「正しいけど、読む前に卒業するわ!」
卒業できるなら、俺は喜んで読む。
八十六項を読み終えるまで在学させられるなら、燃やす。
「この研究申請は受理できません」
エリスが表紙へ大きな返却印を押した。
「危険な内容はないよ」
「安全かどうかではなく、参加する方が理解できません」
「全部説明してある」
「説明したことと、伝わったことは同じではありません」
グレイが止まった。
今日の研究では、六体の召喚獣について普段の呼吸、体表温、食事量、休む姿勢を記録する。
採血も切開もない。
触れるのは、主人と召喚獣が許した場合だけ。
危険は小さい。
その小ささを説明するために、同意書そのものが大事故になっていた。
「ボク、読んだよ!」
ミィナが最後の欄へ名前を書いた。
「最初の項目は何でしたか」
「焼き菓子が出る!」
「書いてません」
「じゃあ読んでない!」
署名が自分から無効になった。
ルナは紙の上へ横になっている。
「参加しますか」
「紙が温かい」
「研究の内容は?」
「昼寝」
「違います」
長い説明書は、敷物としてしか役に立っていない。
ナビが先頭から読み上げを始めた。
『第一項、本研究ハ二年次共同研究発表ニオケル召喚獣ノ平常時健康指標ノ』
「止めろ!」
『読了予測時間、三時間四十二分デス』
「授業が終わるわよ!」
紙の端へ、アリエスの火花が落ちる。
グレイが慌てて紙を抱えた。
「燃やすのは同意しないよ」
「紙にも聞いたの?」
「紙は答えない」
「召喚獣も人の言葉では答えないでしょ」
その一言で、教室が静かになった。
持ち主が署名すれば、召喚獣にも触れていいのか。
フェンリルはアリエスを選んだ。
だからといって、アリエスが許したことを全部喜ぶわけではない。
シープの毛を引けば、ルナごと逃げる。
カーバンクルは額の宝石を隠す。
ホークは羽根を整えている最中に手を出すと、くちばしで払う。
スカイ・ツナは何をしても噛むので、少し分かりにくい。
「主人の許可と、召喚獣の反応を分けましょう」
ノアが紙を三つに折った。
「参加する方が、何をされるか見て選べる形にします」
「八十六項を三つに?」
「三つの質問へ、です」
グレイが胸を押さえた。
研究者の心には、治癒術で治らない傷ができたらしい。
俺たちは説明書を、三枚の札へ作り直した。
一枚目には、大きな目。
『見るだけ』
二枚目には、開いた手。
『触ってもよい』
三枚目には、扉から出ていく足。
『もう終わり』
「八十六項が、絵三つ……」
グレイは胸を押さえた。
「細かな手順を捨てるわけではありません」
ノアが元の紙を丸める。
「研究する側が守る紙と、参加する側が選ぶ札を分けます」
「靴底の厚さは?」
「研究する側です」
「保存箱の鍵の材質は?」
「研究する側です」
「採血針の」
「今日は採血しません」
エリスが赤い筆で、針の絵へ大きな罰印をつけた。
「採血しないの?」
ミィナが驚く。
「しないよ」
「グレイなのに?」
「ねぇ、僕を何だと思ってるんだい」
「血を欲しがる人!」
否定までに二秒かかった。
十分遅い。
「三枚を、召喚獣が選ぶの?」
カイルが札を床へ並べる。
「主人が参加を許しても、本人が『終わり』へ行けば終了です」
エリスは足の札を、出口の前へ置いた。
「一度『触ってもよい』を選んでも、途中で変えて構いません。理由も要りません」
「焼き菓子を置いたら、全部こっちへ来るよ!」
ミィナが目の札へ菓子を載せる。
「選択を餌で買わないでください」
菓子は没収された。
「じゃあ、終わった後にあげる!」
「参加した個体だけに与えたら同じです」
「全員にあげる!」
「それなら、おやつの時間にしてください」
研究より先に、焼き菓子の公平性が審査された。
ナビだけは、三枚を見てすぐ返事をした。
『見るだけ、許可。外装接触、拒否。保守資格者ノミ可能デス』
「本人が一番分かりやすいねぇ」
グレイが目の札をナビの前へ置く。
「この三枚で、ミィナさんも説明できますか」
エリスが尋ねる。
「見る! 触る! 帰る!」
「途中で嫌になったら?」
「帰る!」
「焼き菓子は?」
「研究と関係なく食べる!」
今度は理解していた。
ルナにも聞く。
「シープが『終わり』へ行ったら?」
「追わない」
「ルナさんが寝たら?」
「……見るだけ」
「起きて説明を聞いてください」
半分だけ理解していた。
***
放課後。
三枚の札を並べると、最初にフェンリルが来た。
目の札を嗅ぐ。
手の札を前脚で押す。
「額なら触っていいみたい」
アリエスが先に撫でる。
次にグレイが手を伸ばした。
フェンリルは一度だけ匂いを嗅ぎ、額を向ける。
「うひひ。温かいねぇ」
「そこで体温計を出さない」
「まだ出してないよぉ」
白衣の袖から半分見えていた。
エリスに取り上げられた。
ホークは目の札へ降りた。
グレイが胸元へ近づくと、翼を広げる。
「触る?」
ホークは手の札ではなく、足の札をくちばしで持ち上げた。
そのまま高い止まり木へ運ぶ。
「今日は終わりだね」
グレイは追わなかった。
カーバンクルは手の札へ乗り、背中をエリスへ向ける。
グレイにも一度だけ撫でさせた。
直後、三枚の札を全部抱えてエリスの袖へ逃げた。
「終わりの札がなくなったぞ」
「三枚とも持っていったので、全部終わりです」
安全側へ強すぎる判定だった。
シープは札を戻す前から寝ている。
足の札を毛の上へ置くと、そのまま飲み込まれた。
「選んだ?」
「布団にされた」
ルナが隣へ潜り込む。
「主人も終わりです」
残るツナのため、同じ絵を木の板へ描き直した。
水槽へ浮かべる。
ツナは目の板を飲み込んだ。
手の板も飲み込んだ。
最後に足の板へ口を開ける。
「全部食べたら選べないにゃー!」
ミィナが背びれへ飛びついた。
ツナは猫を一人つけたまま水槽を回る。
「観察結果。食欲良好」
グレイが一本だけ書いた。
「研究になってる?」
「今日分かったのは、紙の札ではツナに負けることだねぇ」
測定値はほとんど取れなかった。
代わりに、三枚の札が本当に研究を止めた。
長い同意書より、よく働いている。
最後に、グレイは鍵つきの箱から小瓶を出した。
中には、クリスタル・フォックスが自分から残した毛が一本だけ入っている。
「これは誰に聞くの?」
ミィナが小瓶をのぞいた。
「今からは聞けない。だから小瓶を開けず、外から見るだけだよ」
狐は契約せず、自分の世界へ帰った。
一本を置いたことは、一本を受け取る許可だった。
切ってよい許可でも、燃やしてよい許可でもない。
黒い布の上へ、小瓶ごと横たえる。
ノアが弱い光を斜めから当てた。
ある角度だけ、毛先が針のように光る。
「もっと明るくする!」
ミィナが光石を近づけた。
小瓶全体が真っ白になり、肝心の毛が消えた。
「見えなくなった!」
「明るすぎて、硝子の反射に埋もれたんだ」
夜の窓なら外が見える。
明るい部屋では、自分の顔ばかり映る。
光を強くすれば、いつも詳しく見えるわけではない。
グレイは光石を遠ざけた。
細い毛が、もう一度だけ暗い布の上へ浮かぶ。
「この一本は、この角度で光る。今日はそれだけにしておくよ」
「全部の狐が同じとは書かないんだな」
「本人に聞いてないからね」
研究を終え、小瓶を箱へ戻した。
同意書は八十六項から、三枚の絵と短い文になった。
グレイは元の紙束も捨てず、研究室の棚へしまう。
「まだ使うのか?」
「説明する側の資料には必要だよ」
「参加する側には?」
長ければ安心とは限らないらしい。
学生規則にも聞かせたかった。
「三枚で十分」
グレイが長い紙を丸めた。
太さは俺の胴ほどある。
「持って帰るのを手伝ってくれないかい」
「断る」
「理由は?」
「言わなくていいんだろ」
同意書で最初に守られたのは、俺の放課後だった。




