46話 星を見た翌日は昼まで眠い
朝食の席に、ルナがいなかった。
入学第六百一日。
月影観測塔から戻った翌朝である。
俺は焼いた黒パンを一口かじり、階段を見た。
「まだ寝てるのか?」
「三回起こしたわよ」
アリエスが苛立ったように腕を組む。
「布団を剥いでも、シープごと丸くなったの。あれ以上やったら寝台を燃やすしかないわ」
「起こす相手を燃やすな」
「寝台だけよ!」
どちらも駄目だ。
ルナの寝坊は珍しくない。
だが今日は一限目から重力制御学の実技がある。本人が寝坊で欠席したら、授業名まで皮肉になる。
「昨日、帰ったのは何時?」
エリスが空の椅子を見る。
「日付が変わる前だ。シープで帰ったから、歩いてもいない」
「それなら、疲れは少ないはずですけど」
俺は茶を飲むふりをした。
観測塔では大型望遠鏡を傾けた。振り子を何度も測り、重力を三段階で戻し、最後には。
最後の部分は、今の話に必要ない。
『報告。マスターノ心拍数上昇ヲ確認』
「朝から余計な報告をするな」
「何の話?」
ミィナが食卓を飛び越え、俺の肩へ鼻を寄せた。
「ルナの匂いする! あと、甘いお菓子!」
「観測塔で食べただけだ」
「どっちを?」
「菓子に決まってるだろ!」
ノアが真っ赤になって俯き、カイルは無言で親指を立てた。
グレイだけは茶を飲みながら、砂時計を見ている。
「笑っている場合じゃないよ。ルナが食堂へ来ないのは、寝坊より食欲の方が問題だ」
その一言で、全員が止まった。
ルナは眠る。
だが、食事の時間には起きる。
特に甘い物がある朝は、目を閉じたままでも席まで来る。
「見に行く」
俺たちは一斉に立った。
フェンリル、ホーク、カーバンクル、ツナは中庭の運動場へ出したままだ。ナビは俺の肩口にいる。
ルナの部屋にいるのは、シープだけだった。
***
寝台の上に、白い毛の山ができていた。
シープが体を広げ、その中央へルナを包んでいる。
「ルナ。朝だぞ」
返事がない。
「黒パンが焼けた」
動かない。
「蜂蜜もある」
銀髪の先すら動かなかった。
これはまずい。
俺が近づくと、シープが低く鳴いた。
いつもの間の抜けた声ではない。俺たちを呼ぶような、短い鳴き方だった。
「どいてくれ。様子を見る」
シープは少しだけ体を開いた。
ルナの顔は青白い。
額へ触れる。熱はない。
呼吸はしているが、浅い。肩を揺すっても瞼がわずかに動くだけだった。
「ルナ、聞こえるか?」
「……ん」
小さな声。
目は開かない。
「体、重い」
昨夜、月の方向を探すために重力を使った反動だ。
そう決めつけかけて、俺は口を閉じた。
月のせいだと最初から決めるな。
昨日の違いは、重力だけではない。
「エリス。診てくれ」
「はい。カーバンクルを呼びます」
カイルが窓を開け、ホークへ合図を送る。
中庭から飛び立ったホークが、カーバンクルのいる場所へ向かった。
ノアは遮光布を窓へ掛ける。アリエスは暖炉の火を弱め、ミィナは水差しを抱えて寝台へ飛び乗った。
「ルナ、水飲める?」
「……いらない」
「一口だけ。起きなくていいよ!」
ミィナが珍しく声を抑え、匙を口元へ運ぶ。
ルナは二口だけ飲んだ。
まもなくカーバンクルを抱いたエリスが戻る。
宝石の淡い光がルナの胸元を照らした。
「大きな怪我はありません。魔力回路が空に近いです。でも、完全な魔力枯渇だけではなさそうです」
「どう違う?」
「脈が遅く、体温も普段より低いです。昨日の食事と睡眠時間を教えてください」
夕食は観測塔の焼き菓子二つと、月麦茶。
昼食は寮で食べた。
出発前に夕飯を取るつもりだったが、月の位置を計算し直している間に時間がなくなった。
俺はそこで気づいた。
「まともな夕食を食べてない」
「アルトが一緒だったのに?」
アリエスの握った匙が止まる。
「菓子は持っていった。俺も同じ物しか食べてない」
「あんたは重力魔法を使ってないでしょ!」
正論だった。
観測塔を壊さないことに気を取られ、ルナが何を消耗したかを見ていなかった。
デートで相手を空腹のまま帰し、翌朝倒れさせる。
恋愛以前に、引率者として失格だ。
「医務室へ運びます」
「俺が背負う」
ルナの体へ手を回した瞬間、腕が沈んだ。
重い。
本人の体重ではない。眠っている間も、重力を弱める制御が途切れている。
「無理するな。腰をやるよ」
グレイが寝台の脚へ板を差し込む。
シープが体を平らにし、ルナの下へ潜り込んだ。
「……シープが運ぶって」
ミィナが耳を動かす。
「なら俺は横につく」
「授業は?」
カイルが廊下の時計を見る。
一限目まで、あと十五分。
皆勤賞を狙う人間として、遅刻は避けたい。
だが、ここでルナを置いて教室へ走ったら、卒業証書を取れても中身が空っぽだ。
「先生に伝えてくれ。俺とエリスは医務室へ行く」
「僕も行くよ」
「カイルは授業へ。ホークに連絡役を頼む。アリエスたちは中庭の四体を連れてから来てくれ」
「……わかった。でも、何かあったらすぐ呼んで」
カイルは柔らかく答え、ホークの脚へ短い伝言を結んだ。
八人で動くからといって、八人全員が授業を休む必要はない。
俺とエリスとカーバンクルは、シープに乗せたルナを医務室へ運んだ。
ナビが出席簿の方角を表示している。
今は消せ。
***
「眠らせておけ」
診察を終えたマルタ先生は、あっさりと言った。
「起こさなくていいんですか?」
「眠気は症状で、今は治療でもある。昨夜、何を食べた」
「焼き菓子を二つです」
「それは夕食ではない。菓子だ」
知っている。
知っていることを医者に言われると、罪状へ変わる。
「重力を長く使った。夜は冷えた。睡眠も足りん。そのうえ薪が菓子二枚では、炉も止まる」
「俺も同じ物を食べました」
「お前は望遠鏡を重力で支えたのか?」
「支えてません」
「なら、同じ食事でも使った薪が違う」
アリエスと同じ正論を、医者からも受けた。
俺の罪状が二部になっただけだった。
「温かい物を少しずつ。目を覚ましても、すぐ立たせるな」
エリスが蜂蜜を溶かした薄いスープを作る。
アリエスは暖炉の火を弱め、ノアは窓へ布を掛けた。
ミィナは自分の上着までシープへ押し込む。
「もっと温めるにゃ!」
「本人を蒸すな」
「じゃあアルトも入る?」
「どうしてだ」
「ルナの近くが温かくなる!」
「俺は湯たんぽじゃない」
「昨夜は?」
「何の話をしてる!」
医務室で心拍数を上げさせるな。
グレイは記録板を持って寝台へ近づいた。
「ねぇ、眠っている間の呼吸と寝返りを」
「本人が起きてから聞いてください」
エリスが遮った。
「聞いて断られたら?」
「やめてください」
「うひひ。簡潔だねぇ」
グレイは本当に羽ペンをしまった。
その代わり、寝台の脇へ椅子を置く。
「観察はするよ。何もしないで」
「それなら頼む」
「アルトくんも授業へ行っていいんだよぉ」
「俺は残る」
「皆勤は?」
マルタ先生まで聞いた。
「欠席になりますか」
「本人が倒れている横で、まだ聞くか」
「確認しただけです」
「欠席だ」
「厳しい!」
卒業証書が一歩遠ざかった。
それでも椅子から立つ気にはならなかった。
***
昼の鐘より先に、スープの匂いがルナを起こした。
「……お腹すいた」
瞼は閉じたまま。
食欲だけ先に帰ってきた。
「ルナちゃん。ここが分かりますか?」
「……医務室」
「どうして分かった?」
「アルトが、反省してる匂い」
「そんな匂いがあるのかよ」
「……焦げたパン」
朝食の匂いだった。
ミィナが待ってましたとばかりに籠を開ける。
「肉のスープ! パン! 蜂蜜! お魚!」
「最後はしまえ。まずスープだ」
匙をルナへ渡す。
指が上がらない。
「食べさせる」
俺が匙を持つと、アリエスが壁際から腕を組んだ。
「昨日から世話が遅いのよ」
「分かってる」
「口だけじゃなく、冷ましてからよ」
「分かってるって」
息を吹きかける。
ルナが一口飲んだ。
「……甘い」
「蜂蜜が入ってる」
「アルトも」
「俺は朝食を食べた」
「……昨日の夕飯」
覚えていた。
俺も菓子二つで終わっている。
「後で食べる」
「……今」
ルナの指が少し動いた。
スープ皿が、寝台の真ん中へ滑る。
俺の匙まで引かれた。
「重力を使うな!」
「……弱い」
「弱いなら使っていい話じゃない」
「一緒に食べないと、強くする」
「病人が脅迫するな!」
仕方なく皿をもう一つもらった。
俺が食べると、ルナも食べる。
俺が匙を止めると、ルナの匙も止まった。
「競争じゃないぞ」
「……同じ夕飯」
「今は昼だ」
「……昨日の分」
昨日は二人で同じ菓子を食べた。
使った力は同じではなかった。
今日は同じ皿のスープを、同じ速さで飲む。
これで帳尻が合うわけではない。
それでも、俺だけ先に食事を終える気にはならなかった。
「ごめん。月ばかり見て、ルナを見てなかった」
「私も、月を見てた」
「次は夕食を先に食べる」
「……次、ある?」
「ある。だから治せ」
「……じゃあ寝る」
ルナは皿を空にすると、俺の右腕へ頭を載せた。
シープが左から寄る。
両側を白い毛に挟まれた。
「午後の授業へ戻る」
「……看病」
「放課後に来る」
袖が寝台へ吸いついた。
「今、重力を使っただろ」
「……反動」
「便利な言葉を覚えるな」
引く。
離れない。
マルタ先生が笑いながら杖を向けた。
「解除してくれます?」
「皆勤より患者を選んだ褒美だ。午後も看病していけ」
「先生まで!」
右腕は寝台。
左腕はシープ。
膝にはミィナが置いた魚籠。
教室へ戻る道だけが、きれいに塞がれていた。
「アルト。午後も欠席ね」
アリエスが言う。
「卒業できるかな」
「ルナを倒したまま卒業するよりましでしょ」
そのとおりである。
ルナはもう寝息を立てていた。
今度は浅くない。
窓が二度叩かれた。
ストーム・ホークが、脚に紙を結んでいる。
カイルからの伝言だった。
『先生には事情を話した。欠席理由は、恋人を倒したため』
「書き方!」
紙の下へ、ノアの字が足されていた。
『看病のため、へ訂正をお願いしました』
助かった。
さらに小さく、ミィナの字。
『お昼のお魚は残しておくにゃ!』
助かっていない。
最後はグレイ。
『起きたら寝言を一つだけ聞いて』
全員、授業を受けているのか。
返信へ、ルナは眠っている。食事は取った、と書く。
ホークへ紙を結ぶ間、ルナの指が俺の袖を探した。
寝たままでも離す気はないらしい。
「星は見えたのか?」
返事はない。
「望遠鏡まで持っていって、一つも覚えてないなら怒るぞ」
「……見た」
「起きてたのか!」
「アルトの右に、青い星」
昨夜、望遠鏡で最初に見つけた星だった。
「その次は?」
「……横顔」
「星を見ろよ」
「見た」
「どっちをだ」
目は開かない。
ただ、袖を押さえる指だけが少し強くなった。
マルタ先生が診察記録へ何かを書き足す。
「今のは症状ですか?」
「若さだよ。薬はない」
「処方しなくていいです」
「……夕食」
ルナが言う。
薬より先に、次の約束だけは処方された。
俺は診察記録の余白へ書く。
『観測前に食事。帰宅時刻を決める。無理なら言う』
「最後は患者が書くことか?」
「俺も守る」
ルナの指が一度だけ動いた。
同意の印らしい。
次は俺の方が、先に腹時計を鳴らす。
星より近い約束から守ることにした。
ホークが紙をくわえて飛び立つ前に、ルナが薄く目を開けた。
「……恋人を倒した?」
「そこだけ聞くな」
「……責任、取る?」
医務室の全員が俺を見た。
「夕食を忘れない責任なら取る」
「……全部」
「病人は寝てろ!」
ルナは満足そうに目を閉じた。
アリエスの杖が、俺の椅子の背へ軽く当たる。
「今の返事、元気になってからもう一回聞かれるわよ」
「覚えてないことを祈る」
「ナビが記録したよ!」
ミィナが俺の肩の銀球を指した。
『音声記録、保存済ミデス』
「今すぐ消せ!」
『本人ノ削除要求ヲ確認デキマセン』
「俺が本人だ!」
『発言者ハルナデス』
異世界の個人情報保護だけ、こんな時に強かった。
俺は空になった皿を机へ置く。
次のデートへ持っていく物は、望遠鏡でも振り子でもない。
夕食だった。




