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47話 交換留学生の教科書は右から読む

 教科書を開くと、目次が最後のページにあった。


 入学第六百十日。


 ゼニス魔法学院から、三人の短期交換留学生がFクラスへ来ている。


 その一人が、交流戦で俺と二度握手した男子生徒だった。


「また会ったな。アルト」


「名前を聞いてなかった」


「ラウルだ。二回も握手しておいて今さらか?」


「表彰台で肘をぶつけられた記憶の方が強くて」


 ラウルは笑い、紺色の教科書を机へ置いた。


 背表紙が俺たちの物とは反対側にある。


 文字は同じ大陸共通文字。


 ただし、ページを右から左へ送って読むらしい。


「逆だぞ」


「開き方は合ってる」


「本の方が逆なんだ」


「ゼニスでは、そっちが逆だ」


 初対面から教科書の正面すら合わない。


 国際交流の先行きが不安になってきた。


 ミィナはラウルの教科書を奪い、右から左、左から右へ高速でめくる。


「どっちからでも絵は同じ!」


「文字を読め」


「魚の絵がない」


「熱力学の本だからな」


 アリエスはゼニス式の本を一度開き、すぐ閉じた。


「読みにくいわ。全部書き直しなさいよ」


「三百ページを?」


「留学したのはそっちでしょ」


「歓迎されている気がしない」


 その横でノアは、二つの教科書を並べていた。


「図の番号は同じです。でも、温度と魔力圧の数字が違います」


「印刷ミスかい?」


 グレイが飛びつく。


 同じ水の加熱実験。


 ルミナスの教科書では、水が凍る温度を零、沸く温度を百としている。


 ゼニスの教科書では、凍る温度が十二、沸く温度が八十八。


 魔力圧の目盛りも、同じ配管図なのに二割ほどずれていた。


「数字まで右から読む?」


 カイルが首を傾げる。


「八十八を反対から読んでも八十八だよ」


 エリスが笑う。


 助かった。


 俺一人だけなら、真剣に逆から読んでいた。


 教室の扉が開く。


 ミネルヴァ先生が、車輪つきの加熱槽を蹴り込んできた。


「ちょうどいい。今日の課題は両校の測定値を一致させることだ」


「今、違うとわかったばかりですよ」


「だから授業になる」


 先生は黒板へ二つの条件を書いた。


『水温八十。魔力圧三。十分間維持』


「同じ装置を二台使う。片方はルミナス、片方はゼニスの教科書どおりに動かせ。結果が同じなら合格だ」


「数字が違うのに?」


「質問は実験後に聞く」


 答えを知っている顔だった。


 教える気がない顔ともいう。


   ***


 使い魔六体は実験棟の中庭へ残した。


 フェンリルと火気実験を同じ部屋へ入れると、どこまでが装置の炎かわからなくなる。


 ホークは窓際の止まり木。カーバンクルは救護箱の横。


 シープ、ツナ、ナビは。


「なんでナビまで中庭なんだ?」


『当機ノ単位換算機能ヲ使用スレバ、課題ガ終了シマス』


 先生に追い出されたらしい。


 正しい。


 だが俺の唯一の計算機が庭へ置かれた。


 ツナは実験用の氷を狙い、シープは氷箱へ背中をつけて眠っている。


 監視役として一番信用できるのはホークだった。


 実験室へ戻る。


 二台の銅製加熱槽へ、同じ井戸水を二十杯ずつ入れた。


 左がルミナス班。


 右がゼニス班。


「火は私ね!」


 アリエスが左の槽へ杖を向ける。


「弱火で一定にしろよ」


「わかってるわよ!」


 炎が槽の底から横へはみ出した。


 わかっていない。


 右側はラウルたちが青い加熱石を使う。


 カイルが二つの槽を同じ速さで混ぜ、エリスとカーバンクルは火傷に備えて距離を取る。ルナは温度計を持ったまま眠りかけ、ミィナは氷を一つ口へ入れた。


「実験材料を食べるな!」


「冷たい!」


「感想は聞いてない!」


 グレイとノアが、教科書ごとの温度計を読んだ。


「左、ルミナス目盛りで八十」


「右は、ゼニス目盛りで八十です」


 見た目は同じ。


 どちらも湯気が立ち、泡が底へつき始めている。


 だが手を近づけると、右の方が明らかに熱い。


「同じ八十じゃない」


「最初から数字が違うって言っただろ」


 ラウルが右の圧力弁を開く。


 魔力圧三。


 ゼニス式の圧力計で、針が三を指す。


 左もルミナス式で三。


「十分維持するよ」


 カイルが砂時計を返す。


 三分後。


 右の加熱槽が鳴り始めた。


 コトコトという可愛い音ではない。


 蓋が下から殴られるような、ガンッ、ガンッという音だ。


「止めます!」


 ノアが誰より先に叫んだ。


 アリエスが炎を消し、ラウルも加熱石を外す。


 エリスが全員を安全線の外へ下がらせた。


 右の圧力計は、三を越えて四へ近づいている。


「三で止めたはずだぞ!」


「ゼニスの三だ。こっちの弁には強すぎたのか?」


 グレイが弁へ触れようとする。


「冷めてからです」


 エリスが笑顔で手首を掴んだ。


「指を火傷したら、観察記録に指が一本減ったと書きますよ」


「待つよ。指は惜しい」


 同じ水。


 同じ数字。


 なのに片方だけ、蓋が飛びかけた。


 ミネルヴァ先生は、安全線の外で煙管へ火をつけた。


「質問は?」


「先に止めてください!」


「安全弁は動いている」


 今日は本当に動いている。


 交流戦の研究炉より、そこだけは進歩していた。


   ***


 槽が冷めるまで、温度計から調べた。


 温度とは、熱い冷たいという感覚を、同じ物差しで比べるための数字だ。


 だが物差しの零と、一目盛りの幅が違えば、同じ八十でも温度は違う。


 風呂の湯を八十にしろと言われ、片方がぬるま湯、片方が煮込み料理になったら困る。


 今の加熱槽は、危うく俺たちを具にするところだった。


「共通の基準を作ろう」


 俺は氷箱を開けた。


 中身が半分になっている。


 中庭を見ると、ツナの口から冷気が出ていた。


「食べたな!」


 ツナは空を泳いで逃げた。


 残った氷を砕き、水と混ぜる。


 氷だけでは、表面の温度が周囲の空気に左右される。


 氷と水が一緒にあり、ゆっくり溶けている状態なら、同じ圧力では温度がほぼ一定になる。


「まず、ここを零にする」


 二本の温度計を入れる。


 ルミナス式は零。


 ゼニス式は十二。


「次は沸騰する水を百にすればいい」


 俺が鍋を火へかけようとすると、ラウルが止めた。


「それはゼニスでやった。うちの水は、ルミナスより低い温度で沸く」


「水は百で沸くだろ?」


「ゼニスは空にある。地上より気圧が低い」


 言われて、手が止まった。


 水が沸くのは、内部から出ようとする水蒸気の圧力が、外から押さえる圧力に追いついた時だ。


 山の上のように気圧が低ければ、弱い蒸気圧でも泡になれる。


 だから沸点は下がる。


 同じ米を炊いても、高い山では芯が残りやすい。湯が低い温度で沸き、火を強くしても温度が上がりにくいからだ。


 異世界へ来て米を見ていない俺には、悲しい例だった。


「俺の案、駄目じゃないか」


「完全に駄目ではありません」


 ノアが静かに言った。


「外から押す圧力を同じにすれば、沸く温度も比べられます」


 彼女は研究炉で使った圧力調整箱を指した。


 透明な厚い蓋と、重り式の弁がついている。


「両方の水を同じ箱へ入れ、同じ圧力で加熱するんです。ゼニスでもルミナスでも、箱の中を同じ条件にできます」


「いいね。温度の基準はノア案でいこう」


 グレイが楽しそうに眼鏡を上げる。


「ただし、箱の圧力計そのものも両校で違う。先にそっちを合わせないとね」


 問題が一つ増えた。


 正確には、最初からあった問題が姿を見せた。


   ***


 圧力計の基準には、断面積のわかる筒と重りを使った。


 同じ広さの蓋へ、同じ重さを載せる。


 重りが蓋を押す力を、面積で割る。


 これなら魔力圧の名前が違っても、実際にどれだけ押しているかを比べられる。


「同じ重さって、どう確かめるの?」


 ミィナが二つの分銅を片手ずつ持つ。


「右が重い!」


「お前の感覚を国際基準にするのは怖い」


「当たってるよ!」


 天秤へ載せる。


 右が下がった。


「ほらー!」


 怖いほど当たっていた。


 それでも基準へ猫の腕力とは書けない。


 同じ天秤で釣り合わせた重りを使い、二つの圧力計へ印をつける。


 ノアが細い光を目盛りへ当て、針の位置を紙へ写す。白い光では反射で見えにくいため、赤みを強くして照らしていた。


「ルミナスの三は、ゼニスの二・四です」


「さっきゼニスの三まで上げたから、こっちでは三・七五か」


 蓋が鳴った理由が数字になった。


 次は温度。


 氷水を下の基準。


 圧力をそろえた容器で沸く水を上の基準。


 二点の間を百等分し、それぞれの温度計へ換算線を書く。


 ただし、この表が使えるのは、同じ圧力付近だけだ。


 ゼニスの屋外や、圧力を上げた研究炉では沸点を補正する必要がある。


 さらに、一度だけ針が合っても安心できない。


 温度計の細い管には、液が壁へ引っかかる物がある。圧力計の歯車にも遊びがあり、上がる途中と下がる途中で同じ位置を指さないことがあった。


「三回ずつ測ろう」


「まだやるの?」


 アリエスの炎が不満に合わせて大きくなる。


「今の一回が偶然かもしれない。違う三本でも同じ換算になるか確かめる」


「同じ温度計を三回じゃ駄目なんですか?」


 ノアが予備の温度計を見る。


「同じ癖を三回見るだけになるかもしれない」


 グレイが棚から予備を二本ずつ出した。


 一本は氷水で指示が遅れ、一本は沸騰点で線を越えた。


 六本全てを平均へ押し込まず、明らかに動きの悪い二本へ点検札をつける。


 道具が間違っている時まで、人間の計算で丸めれば正しい数字に見えてしまう。


「温度計まで留年か」


「アルトくんと同じで、補習すれば使えるよ」


「俺はまだ留年してない!」


「面倒ね」


 アリエスが、弱い炎を保ちながら言う。


「火の強さで見ればいいじゃない」


「その火が強すぎるから温度計を使ってるんだ」


「今日は一度も爆発させてないわよ!」


 胸を張る基準が低い。


 だが炎は一定だった。


 入学した頃なら、氷水ごと蒸発させていたはずだ。


 カイルが槽を同じ速さで混ぜ、ルナが砂時計を見張る。


 途中で寝たため、シープが窓の外から頭を入れ、角で起こした。


 使い魔を中庭へ出した意味がなくなっている。


 再実験。


 ルミナスの八十を、共通目盛りへ換算。


 魔力圧三も、重りで確かめた共通値へ直す。


 ゼニス班も同じ値に合わせる。


 十分後。


 二台の水温差は、一目盛りの半分以内。


 圧力計の針も同じ位置で止まった。


 蓋は鳴らない。


 誰も煮込まれない。


「合格だ」


 ミネルヴァ先生が短く告げた。


「換算表は両校へ一枚ずつ提出しろ。今後、共同記録には元の単位と共通値を両方書け」


「先生は最初から答えを知ってたんですよね?」


「知っていた」


「最初に表を配れば、蓋は飛びかけなかったのでは?」


「お前らは表をなくす」


 否定できない。


 ミィナが今、換算表の端へ魚の絵を描いている。


   ***


 放課後。


 ラウルたちは旧第三学生寮へ泊まることになった。


 使い魔六体は先に戻り、食堂を占領している。


 フェンリルは暖炉前、ホークは窓枠、カーバンクルはエリスの膝。シープにはルナが埋まり、ツナはゼニス土産の箱へ頭を突っ込んでいた。


 ナビだけが、昼間追い出されたことを根に持っている。


『全単位ノ換算ヲ完了シマシタ』


「今出すな」


 俺たちは手書きで作った表を食卓へ広げた。


 ラウルがゼニスへ持ち帰る一枚。


 俺たちが黒い管の記録へ使う一枚。


「最初から同じ数字なら楽なのにな」


 カイルがため息をつく。


「同じ数字に見えて違う方が、もっと危ない」


 交流戦の最後に時刻が二分ずれていた。


 今回は温度と圧力。


 黒い管の古い記録も、書いた場所によって目盛りが違う可能性がある。


 数字が並んでいるだけで、正確だと思い込めない。


 ノアが表の右端へ、使用した圧力と測定場所を書き足した。


 グレイは、換算できない古い単位を勝手に丸めず、未確認と赤で囲む。


 俺より二人の方が、よほど説明役として頼りになっていた。


「できた」


 ラウルが表を持ち上げる。


 俺は受け取り、最初の欄を読む。


 最後の結果から始まっていた。


「これ、右から読むのか?」


「もちろん」


「ルミナスへ残す方も?」


「同じ物を二枚作った」


 俺たちの表は、読む方向まで統一できていなかった。


 ミィナが紙を上下逆さまにし、満足そうに頷く。


「魚の絵から読めばわかるよ!」


 国際共通単位の第一歩は、魚を始点にすることになった。


 寝る時間になり、ラウルが客室へ向かう。


 階段前の案内図は、左端から男子二階、共用一階、女子三階の順に描いてある。


 右から案内を追ったラウルは、迷わず女子階へ上がった。


 アリエスの悲鳴と炎が、吹き抜けから落ちてくる。


「部屋番号も統一しろぉぉぉ!」


 温度と圧力より先に、宿泊者の命を守る換算表が必要になった。


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