45話 月の見えない夜に星を探す
ルナから渡された待ち合わせの紙には、場所と時刻だけが書かれていた。
『月影観測塔。日没後。二人で』
入学第六百日。
二人で、の文字だけが三度なぞられている。
「これはデートか?」
「……今さら?」
食堂の向かいで、ルナがシープへ頬を埋めた。
「観測実習じゃなくて?」
「実習なら、先生の印がある」
紙の下には、羊の足跡が一つ押されていた。
先生の印より偽造しにくいかもしれない。
交流戦から戻って約三か月。
冬休みの寒波と使い魔の健康診断を越え、俺たちは久しぶりに何も壊れていない休日を迎えた。
アリエスとの約束には答えた。
ルナ、ノア、ミィナとは、まだ一人ずつ向き合えていない。
湖で個別に出かけると決めた以上、逃げれば次は本当に重くされそうだ。
「行く」
「……うん」
ルナは目を閉じたまま、ほんの少し笑った。
待ち合わせは日没後。
ただし、月影観測塔は学園北の山頂にある。
往復四時間。
休日のデートに登山を選ぶ辺り、ルナも普通の恋愛をする気はないらしい。
「夜食のお魚も持っていく?」
ミィナが干し魚の袋を開く。
「二人分だけでいい」
「ミィナも行く! 三人分!」
「二人で、と書いてある」
アリエス、ノア、ミィナの視線が紙へ集まる。
カイルとエリスは黙って食事を続け、グレイは観測塔の気温を調べ始めた。
使い魔たちも、今日は寮へ残る予定だった。
シープだけはルナを山頂まで運ぶと言い張るように、玄関から動かなかった。
「二人で、に羊は入るのか?」
「……シープは寝具」
使い魔から荷物へ分類が変わった。
本人が気にしていないので、三人目には数えないことにした。
***
日が沈む前に寮を出た。
シープへ二人で乗れば早い。
そう思ったのは最初の十分だけだった。
冬の冷たい風が正面から当たり、俺は羊毛へ顔を埋める。
ルナは俺の背中へ腕を回していた。
「近くないか?」
「……落ちる」
「シープの背は寝台より広いぞ」
「アルトが」
俺が落ちないよう支えているらしい。
腰へ回る腕は、さっきから少しずつ強くなっている。
安全のためなら仕方ない。
そう自分へ言い聞かせた。
地上十メートルで恋愛について考え始めると、本当に落ちそうだった。
月影観測塔へ着いた頃には、空が濃い青へ変わっていた。
円筒形の石塔。上部には大きな望遠鏡があり、屋根が半分だけ開いている。
当番の観測員へ許可証を見せると、首を傾げられた。
「月を見るのかい?」
「その予定です」
「今夜は見えないよ」
空に雲はない。
星もよく見える。
月だけがなかった。
新月に近く、日が沈む頃には太陽と一緒に西の地平線へ隠れたらしい。
「ルナ。知ってたか?」
「……知ってた」
「月を見る場所へ、月がない日に来たのか?」
「ないから来た」
謎かけは授業だけにしてほしい。
ルナは観測塔の机へ、星図と記録紙を広げた。
「見えなくても、月はある」
「哲学の話?」
「位置を探す」
デートの最初の課題が、見えない月の捜索に決まった。
俺たちの休日は、やはり普通ではない。
***
三日前、月は日の出前の東へ細く見えていた。
その時の位置が、星図へ記録されている。
月は星を背景に、一日で東へ約十三度動く。
一周を約二十七日で回るためだ。
腕を伸ばした時、握り拳一つ分が、およそ十度。
三日なら、星空の中を拳四つ分ほど東へ進む。
「でも今夜は西に沈んでるんだろ?」
「……空だけ見たら、いない」
地球も回っている。
俺たちが立つ地面ごと東へ回り、太陽も月も西へ沈む。
星を背景に月が少しずつ東へ動くことと、一日の中で空全体が東から西へ動いて見えることは、別の動きだ。
二つが重なるため、昨日と同じ時刻に同じ方向を見ても、月は同じ場所にいない。
「今ごろは地平線の下。西より少し北」
ルナが星図の外を指した。
「見えない場所を指して、正解ってどうやって確かめる?」
「これ」
机の下から、細長い振り子が出てきた。
長さ一メートルの糸と金属球。
床には円形の目盛りがある。
その隣には、学園湖の水位記録が二十日分置かれていた。
「ルナが全部用意したのか?」
「……グレイに、器具だけ借りた」
「用途は言った?」
「デート」
よく貸してくれたな。
いや、あいつなら恋愛より振り子の記録へ興味を持つ。
寮へ戻ったら、手をつないだ時間まで測定値として提出させられそうだ。
俺は記録紙の空欄へ、観測以外は報告しないと先に書いた。
ルナが、その下へ口づけも秘密と追加する。
「まだしてないだろ」
「……予定」
今夜一番大事な観測予定を、本人が先に記録した。
振り子より俺の心拍の方が測りやすく変わっている。
湖の水位は月だけで決まらない。
雨、雪解け、風、取水量でも変わる。
一度だけ高くなった日を見て、月の仕業と決めれば、雨雲に笑われる。
そこで晴れた日だけを選び、同じ時刻の水位を比べる。
満月と新月の頃は、太陽と月の引く向きが一直線に近くなり、潮の変化が大きくなる。
海ほどではないが、魔力を含む学園湖も、わずかに上下するらしい。
「今夜は水位の差が大きい。新月の記録とも合う」
「でも、方向まではわからない」
「だから振り子」
ルナが金属球を少し持ち上げ、手を離した。
同じ長さの振り子なら、重力が強いほど速く戻る。
重力が弱ければ、往復に少し長い時間がかかる。
周期は糸の長さと重力で決まり、球が鉄か銅かにはほとんど左右されない。
ただし大きく振りすぎれば、簡単な計算から外れる。
小さな角度で十往復させ、ナビの代わりに砂時計と観測塔の時計で測る。
その前に、糸の長さを測り直した。
上の支点から金属球の中心まで、ちょうど一メートル。
昨日より一センチ長ければ、重力が同じでも周期は長くなる。
寒さで糸が縮んだり、結び目がずれたりする可能性もある。
重い鉄球を使えば速くなると思いがちだが、振り子では重さはほとんど関係ない。
重い球は強く下へ引かれる一方、動かしにくさも同じ割合で増えるからだ。
試しに同じ大きさの木球へ替える。
風の影響は増えたものの、十往復の時間はほぼ同じだった。
「重い方が速そう」
「俺も最初はそう思った」
「……アルトでも、間違える?」
「毎日見てるだろ」
ルナは少し考える。
「数が多すぎて、どれかわからない」
「そこまで正直に言わなくていい」
間違いが多いから、先に器具の方を疑う。
自慢できる成長ではない。
それでも、都合のよい数字が一度出ただけで月を発見したと騒ぐよりはましだった。
「二十・二秒」
「もう一回」
三度測る。
二十・二秒。二十・三秒。二十・二秒。
昨日の記録より、ほんの少し長い。
「誤差じゃないか?」
「場所を変える」
塔の東、西、南、北。
同じ長さの振り子を移し、床の傾きも水準器で確かめる。
西側だけ、周期が〇・一秒長かった。
塔そのものが傾いている可能性もある。
金属球を糸で垂らし、重力の向きを示す下げ振りにする。
糸は床の目盛りに対し、ほんのわずか西へ寄った。
「月の重力で?」
「普通なら、こんなに動かない」
ルナの魔法が、月の位置へ反応していた。
見える光ではなく、月と自分を結ぶ方向に沿って、周囲の重力を少しだけ変えている。
月が地平線の下へあっても、石の床は光のように完全な壁にはならない。
「だから夜ごとに魔法の調子が変わるのか」
「満月だけ、強いわけじゃない」
満月の夜は月の方向が見えるため、無意識に合わせやすかった。
見えない日は、どこへ力を向けているか本人にもわからなかったのだ。
ルナは窓のない床を見た。
「月が見えないと、私もいないみたいだった」
「毎日教室で寝てるだろ」
「……見てた?」
「出席を取る時にな」
「それだけ?」
答えを間違えた気がする。
恋愛の実技試験には、やはり模範解答がない。
***
塔の上から、金属が擦れる音がした。
観測員が階段を駆け上がる。
「望遠鏡の架台が動いている!」
屋根の下にある大型望遠鏡が、ゆっくり西へ傾いていた。
鏡筒は歯車と二つの重りで釣り合っている。
本来なら、手を離しても急に倒れない。
ところが西側の重りだけが床へ近づき、反対側の鎖が張っていた。
「さっきの重力変化だ」
ルナが月の方向を探ったことで、塔の周囲まで引く力が偏った。
変化は小さい。
だが望遠鏡は、わずかな力でも動かせるよう、ぎりぎりで釣り合っている。
天秤の片方へ小さな硬貨を載せるだけで傾くのと同じだ。
ルナが慌てて杖を下ろす。
「……止める」
「急に戻すな!」
西側へ傾いた鏡筒には、すでに動く勢いがついている。
力だけ消せば、そのまま支柱へぶつかる。
俺と観測員が鎖を掴む。
重い。
一人分の力でどうにかなる重さではない。
「少しずつ中央へ戻せるか?」
ルナは杖を握り直した。
「……やる」
振り子の目盛りを望遠鏡の下へ置く。
ルナが力を弱めるたび、周期を測る。
二十・二。二十・一。二十・一。
一度に消さず、三段階で普段の重力へ戻す。
観測員は手回しの歯車を逆へ回し、俺は鎖が急に滑らないよう木の楔を一段ずつ差し替えた。
「次、弱くする」
「待て。鎖を固定してから」
俺が合図する。
ルナが指を下げる。
鏡筒は少し戻り、中央で止まった。
最後に、二つの重りを床へ下ろす。
今夜は自動追尾を使わず、架台を固定することになった。
観測員が長く息を吐く。
「月が見えない夜に、月の重力で望遠鏡を壊すところだった」
「すみません」
ルナが頭を下げた。
「いや。観測塔の方も、満月の夜しか点検していなかった。見えない日の記録を残してくれ」
失敗は消せない。
その代わり、次に同じ夜が来る前の手順へ変えられる。
俺たちは振り子の記録と、月の推定位置を一枚の紙へまとめた。
観測塔の壁へ、見えない月ほど重力計を確認と書かれる。
「デートの記念が注意札でいいのか?」
「……二人の名前が残る」
ルナは満足そうだった。
恋愛の記念品としては、手袋よりさらに色気がない。
俺たちには似合っているのかもしれない。
作業を終えると、観測員が温かい飲み物を二杯持ってきた。
月麦を煎った、苦い茶だった。
ルナは一口飲み、無言で俺の杯へ半分移す。
「苦手なら最初に言え」
「……デートは、同じ物を分ける」
「焼き菓子もあるぞ」
持ってきた袋を開く。
中身は四つ。
ミィナへ見つからないよう、出発前にノアが包み、アリエスが厨房の高い棚へ隠してくれた物だ。
二人が今日の外出を歓迎しているかはわからない。
それでも腹を空かせたまま帰ってこいとは思っていないらしい。
俺の人間関係は、恋敵という一語で説明できるほど単純ではなくなっていた。
ルナは焼き菓子を一つ取り、半分へ割った。
「二人分」
「残り三つある」
「……これは、今の二人分」
差し出された半分を受け取る。
苦い茶のあとでは、普段より甘く感じた。
***
観測員が下の部屋へ戻り、塔の屋上には俺たちとシープだけが残った。
望遠鏡は固定したため、星は肉眼で見る。
月は出ていない。
その分だけ空は暗く、細かな星まで見えた。
シープの背へ並んで座る。
ルナが俺の肩へ頭を載せた。
「月、見つかった?」
「西の地平線の下。誤差は大きい」
「私のこと」
また答えを間違えた。
今日だけで二回目だ。
筆記試験なら追試へ回されている。
「見失ってはいない」
ルナの銀髪が肩で揺れる。
「アリエスが先でも?」
「アリエスを選んだことと、ルナの答えを雑に決めることは別だ」
「四人の一人?」
ルナは俺を見上げた。
眠そうな目が、今夜だけは完全に開いている。
「人数で割る気はない。ルナといる時は、ルナを見る」
「今は?」
「見てる」
「星じゃなくて?」
「今はルナだ」
ようやく正解に近い答えを出せたらしい。
ルナは俺の左手を取り、自分の頬へ当てた。
冬の風で冷たい。
俺の指も冷えていた。
「どっちも冷たいな」
「……一緒なら、わからない」
指を絡める。
シープが背中の毛を膨らませ、二人の肩まで包んだ。
ルナの顔が近づく。
唇が触れる直前で止まり、俺の反応を待った。
今度は見えないふりをしない。
俺から残りの距離を埋めた。
短い口づけだった。
離れたあとも、ルナは目を閉じなかった。
「月より、近い」
「比べる距離がおかしい」
「……次は、もっと近く」
「次の観測の話だよな?」
ルナは答えず、俺の肩へ戻った。
空に月はない。
それでも、どこにいるかはわかる。
俺の隣にいる方は、探すまでもなかった。




