39話 朝食の席が一つ足りません
研究炉の事故が収まった頃には、ゼニスの空が赤く染まっていた。
入学第五百四日の夕方。
交流戦初日の競技は中止。
俺たちは学院の会議室で、壊れた冷却線と黒い管の報告書を書かされていた。
「遠征先でも報告書か」
「事故を止めた班が一番詳しいからよ」
ヴィクトリア会長は当然のように紙を追加した。
温度はナビ。圧力はグレイ。液面はノア。異音と匂いはミィナ。負傷者と退避はエリス。
カイルは換気量、ルナは蓋へかけた重力、アリエスは周囲から取り除いた可燃物を書く。
使い魔六体も宿へ戻り、五体の食事と全員の状態確認を終えていた。
八人そろっている。六体も無事。大きな怪我もない。
これなら夕飯には間に合う。
そう安心しかけたところで、一番わかりやすい異常を見つけた。
アリエスが静かだった。
燃えているアリエスより、怒鳴らないアリエスの方が怖い。
「右手を見せてください」
報告書を出したあと、エリスがアリエスを呼び止めた。
「何ともないわよ」
「何ともないなら、見せられますよね?」
アリエスは渋々手袋を外した。
親指の付け根が赤い。事故の時に、熱い水桶を持っていた。
「どうして黙ってたんですか?」
「これくらい、火傷に入らないわよ」
「それを決めるのは私です」
「私の手なんだけど?」
声にはいつもの火力がない。
エリスは冷却布を巻いた。
「今夜は炎を使わないでください」
フェンリルも傷の匂いを嗅ぎ、アリエスの足元から離れない。
「食事、先に行ってて」
アリエスは宿の廊下を一人で歩いていった。
俺は追いかけるべきか迷う。
夕飯の煮込みは数量限定だ。恋愛と肉を同じ天秤へ乗せた時点で、たぶん人として何かを間違えている。
ルナが俺の袖を掴んだ。
「……行って」
「でも、夕飯が」
「……取っておく」
「私が守ります」
ノアも真剣な顔で頷く。
ミィナはすでに二人分の皿へ手を伸ばしていた。
ノアに食料防衛を頼む。恋敵の様子を見に行くため、別の恋敵へ夕飯を預ける。俺の学園生活は、いつからこんな難易度になったのだろう。
考えている間にも煮込みは冷める。俺はアリエスを追った。
***
アリエスの部屋は廊下の一番奥だった。
ノックをしても返事がない。
「アリエス。夕飯がなくなるぞ」
「いらない」
「ミィナが二人分食べるぞ」
「食べさせればいいでしょ」
「俺の分まで狙われてる!」
「それは自分で守りなさいよ!」
ようやく普段の声が出た。
「入っていいか?」
少し間があり、鍵が開いた。
部屋は飛空艇より狭かった。
ベッドが二つ。机が一つ。もう一つの寝台はエリスの物だが、今は事故で火傷した生徒の処置へ行っている。
アリエスは窓際へ座っていた。
外套を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっている。赤い髪はほどかれ、肩へ落ちていた。
見慣れたはずなのに、二人きりだと目の置き場所に困る。
健康な男子高校生の視線は、こういう時だけ授業中より真面目に働く。今は休んでいてほしい。
「夕食を持ってきた」
俺は包みを机へ置く。
硬いパンと、冷めかけた肉の煮込み。色気より先に湯気が消えていた。
「いらないって言ったでしょ」
「食べないと傷が治らないぞ」
「説教しに来たの?」
「パンを守りに来た」
「最低」
そう言いながら、アリエスは椅子を半分空けた。
パンを二つに割り、大きい方を渡す。貴族令嬢との初めての夕食が硬いパンの分配でいいのかは考えない。
考えると逃げたくなる。
「怖かった」
食べ終わる前に、アリエスが言った。
「炉が?」
「私の火が。あの炉が破裂しかけた時、もっと出せばどうにかできるって思った」
冷却布を巻いた右手が、小さく震えている。
「出さなかっただろ」
俺が止める前に、アリエスは燃える物をどけていた。昔なら水桶より先に杖を持っていたはずだ。
「でも、私の取り柄は火力だけだったのに」
「火力だけなら、取り柄じゃなくて火災だ」
左手で肩を殴られた。
安心した。殴る元気は戻っている。
「慰める気あるの?」
「ある。火は強いか弱いかだけじゃない。鍋の下なら飯になって、紙の山へ落ちれば報告書が消える」
「後半は少し魅力的ね」
実行すれば会長に殺される。俺は念のため、報告書をアリエスから遠ざけた。
火は量と場所で役目が変わる。
熱い炉へ冷たい水を一気にかければ、表面だけ縮んで割れる。だからアリエスの水桶を止め、濡れ布で少しずつ冷やせた。
「一年以上、お前が物を燃やすところを見てきた。失敗した授業料を、今日やっと回収できたんだ」
「それ、悪口よね?」
アリエスは卓上灯を見た。口元は少し笑っている。
「あんたは、失敗を忘れないわね」
「同じ赤点を二回取るのは嫌なんだよ」
「そういうところが好きなの」
肉の味がわからなくなった。
***
窓の外で、夜の雲が学院の灯りを隠した。
部屋には卓上灯の橙色だけが残っている。
「聞こえたなら、返事は?」
逃げたい。
断りたいのではない。むしろ逆だ。
アリエスのシャツは首元のボタンが一つ外れている。ほどけた赤い髪から、飛空艇用品店で嗅いだ香油の匂いがした。
こんな状態で正直に返事をしたら、その先まで正直になりそうで怖い。
「交流戦のあとまで待つ約束だろ」
「今日の競技は終わったわ」
交流戦そのものは、あと二日も残っている。
「今日、死ぬかもしれなかった」
冷却布の巻かれた右手が、俺の袖を掴む。
「また事故が起きて、それでも聞けなかったら嫌」
俺も炉の圧力計が赤線を越えた時、全員を無事に帰せない可能性を考えた。
何も言わなければ現状維持。そんな都合のいい採点は、恋愛にはなかった。
俺は毎日、追試を一枚ずつ増やしていた。
「アリエス」
「何」
「俺も、お前が好きだ」
言ってしまった。
卒業証書より先に、人生で一度も書いたことのない答案を提出した気分だった。
アリエスは何度も瞬きをした。
「本当に?」
「ここで嘘をつけるほど器用に見えるか?」
「見えない」
即答だった。少しくらい迷ってほしい。
「私だけ?」
喜ぶ暇もなく追試が来た。
ルナ、ノア、ミィナ。三人の顔が浮かぶ。
「それは、まだ答えられない」
ずるい答えだ。自分でもわかっている。それでも、アリエスが好きだという部分だけは嘘ではない。
彼女は俺をしばらく睨み、最後に額を胸へ押しつけた。
「今日だけは、それでいい。他の三人も、嫌いなら二年も同じ寮で暮らしてないわ」
ルナは起こさないと一日寝る。ノアは我慢して笑う。ミィナは人の菓子まで食べる。
腹が立つことは毎日ある。それでも、いなくなったら困るのだとようやくわかった。ミィナの菓子泥棒だけは被害届を出せそうだが、今は黙っておいた。
「でも、私一人を選んでほしい気持ちもある」
「まだ全部は決められない。でも、もう白紙では出さない」
「白紙で出したら燃やすわよ」
俺が欲しい卒業証書まで燃えそうだ。
赤い髪へ触れる。
いつもは炎の熱を帯びているのに、今夜は普通の体温だった。
アリエスが顔を上げる。
「目、閉じなさい」
「どうして」
「いいから!」
睨まれたので従う。
唇へ、柔らかな熱が触れた。
一瞬で離れる。
「短くないか?」
「初回はこんなものよ!」
左手で胸を押された。
それでも、指は制服を離さない。
二回目はどうするのか聞く代わりに、今度は俺から顔を寄せた。
二度目は、さっきより長かった。
薬草と焼いたパンの匂いがする。恋愛小説なら花の香りにする場面だろうが、俺たちは夕飯の直後だ。
唇が離れると、アリエスがベッドへ腰を下ろした。
俺の袖も一緒に引かれる。
「エリスが戻ってくるぞ」
「今夜は治療室で当直だって」
「カイルも一緒じゃないのか?」
「薬を運んだら、自分の部屋へ戻るって。火傷した生徒が三人もいるのよ」
「今、心配するのはそこ?」
その意味へ気づいた途端、心臓が炉の圧力計より危険な動きを始めた。
「今夜は、帰らないで」
左手が制服の一番上のボタンへ触れる。
一つ外れる。
二つ目も外れた。
「右手は痛むだろ」
「左手だけで十分よ」
証明するように、襟を引かれた。
また唇が重なる。
頭の中で警報が鳴っている。部屋を間違えていないか。朝の点呼に遅れないか。残り三人に殺されないか。
どれも今考えることではない。
「嫌なら、今言いなさい」
アリエスの声も震えていた。
「嫌じゃない。俺も初めてだから、余裕はないけど」
「私だってないわよ」
二人そろって余裕がない。
それでも笑うと、怖さが少しだけ減った。
アリエスの赤い髪を留めていた紐が、俺の手首へ巻きついた。
「なくすから持ってて」
「俺を髪留め置き場にするな」
「今さら手の置き場所だけ気にしないで」
置き場所を間違えた。
肩を叩かれた。
「そこじゃない」
「余裕がないって言っただろ」
「私だってないわよ!」
小声で喧嘩しながら、また唇が重なる。
緊張するたび、アリエスの指先から熱が漏れた。枕元の水差しへ触れると、中の水から細い湯気が上がる。
「待て。部屋を燃やすなよ」
「燃やさないわ。たぶん」
「今の『たぶん』で全部怖くなった」
笑った拍子に、張り詰めていたものがほどけた。
卓上灯を消す。
暗闇の中でも、手首に巻かれた赤い紐と、指先に残る熱だけは分かった。
その先は、どちらか一人が進めたのではない。
二人で止まり、二人で笑い、二人で残った距離をなくした。
***
入学第五百五日の朝。
コーン、と遠くの鐘が鳴った。
ゼニスの朝を知らせるのは、小鳥ではなく雲上船の出港鐘だ。
窓の外では、朝日に照らされた雲がゆっくり流れている。
俺の状況だけが、爽やかを通り越して蒸し暑かった。
窓硝子が内側から曇っている。
枕元の水差しは、朝まで保温された白湯になっていた。
目を開けると、すぐ前に赤い髪がある。
アリエスは毛布へ頬を半分埋め、俺の手首を抱いていた。昨夜預かった髪紐は、まだそこへ巻かれている。
「……朝から難しい顔しないで」
目を閉じたまま言われた。
「部屋の温度を心配してる」
「嘘。今、昨夜のことを最初から思い出したでしょ」
「途中からだ」
「もっと悪いわよ」
アリエスが片目を開ける。
普段なら俺より先に強がる女が、今朝は毛布から鼻までしか出さない。
昨夜の続きを説明する言葉は、もう要らなかった。
俺の手首に残る赤い紐と、二人で選んだ朝が、十分すぎるほど答えている。
「心臓、まだうるさい」
「昨夜からだ」
「知ってる」
アリエスは毛布の中で笑った。
「アルト」
「なんだ」
「昨日の私を、なかったことにしたら燃やすわよ」
「するか」
「なら、こっち見なさい」
朝日より赤い顔を、正面から見る。
アリエスから額をぶつけられ、そのまま唇が触れた。
脅し方は物騒だが、確認したかったことは同じらしい。
俺も昨日をなかったことにはしたくない。
ただし、部屋を燃やしたことにもされたくない。
鐘が鳴る。
朝の点呼まで十五分。
「まずい!」
俺たちは同時に起き上がり、同時に毛布へ戻った。
「窓!」
「寒いだろ」
「このまま廊下へ出たら、部屋だけ夏だったってばれるでしょ!」
アリエスが窓を細く開ける。
冷たい空気が入り、曇った硝子が上から透明になっていく。
証拠隠滅としては、自然現象待ちである。
待っている時間はない。
俺は裏返しのシャツへ腕を通し、アリエスは俺の上着を羽織って鏡の前へ走った。
「これ、私のじゃない!」
「俺のだよ!」
「分かってるわよ! 返すから後ろ向いて!」
昨夜より騒がしい共同作業が始まった。
着替えを終えた時、俺の制服は上から三つ目のボタンだけ掛け違えていた。
アリエスは赤い紐を返す代わりに、俺の手首へもう一度きつく結んだ。
「預けておくわ」
「いつまで?」
「次に返してほしくなるまで」
「別々に出るか?」
「嫌」
俺たちは一緒に部屋を出た。
***
食堂へ着いた時、八人用のテーブルには椅子が七つしかなかった。
正確には、アリエスが一つの椅子へ座り、俺を隣へ半分押し込んだため、一席足りなく見えた。
カイルとエリスが向かい側で固まる。
グレイは俺の掛け違えたボタンと、アリエスの髪を交互に見た。
「観察結果を口にしたら燃やすわよ」
「まだ何も言ってないよ」
グレイは両手を上げた。顔だけは、珍しい虫を見つけた時と同じだった。
ミィナが俺の襟へ鼻を近づける。
「アリエスの匂いがすっごくする!」
「近い!」
ノアの視線が、俺の首元で止まった。
「アルトさん。そこ、赤くなっています」
「虫だ」
「冬の天空都市に虫がいるんですか?」
言い訳が離陸前に墜落した。
ルナは眠そうな顔のまま、アリエスを見る。
「……一緒に寝た?」
「少しはね」
「寝る以外も?」
俺は水を噴き出した。
アリエスの耳まで赤くなる。
否定はしなかった。
もう全員に伝わった。
「ずるい」
ルナの声が、パン籠の向こうから落ちてくる。
「私たちは、待っていたのに」
ノアの声は穏やかだが、カップを握る指へ力が入っている。
ミィナは首を傾げた。
「アリエスが先なら、ミィナはもう駄目?」
「駄目じゃない」
答えたのはアリエスだった。
「私も、あんたたちに消えてほしいわけじゃない。でも独り占めはしたいわよ」
ルナも少し考え、頷く。
「……私も」
綺麗に譲り合えるほど、誰も器用ではない。
俺はもっと器用ではない。昨日まで告白の返事一つ出せなかった男が、朝食の席で四人分の恋愛問題を解けるはずがない。
俺も何か言おうとしたが、ルナにパンを口へ押し込まれた。
「……今は食べて。朝食が終わる」
昨夜は戻れないところまで進んだ。
今朝は食卓の一席すら越えられない。
足りなかったのは椅子ではなく、俺の逃げ道だった。




