37話 空の宿屋は床まで揺れる
旧第三学生寮の玄関が、荷物と使い魔で塞がっていた。
入学第五百日。天空都市へ出発する朝だ。
「着替えは三日分を洗い回すって言っただろ」
「交流戦は十日あるのよ。服は必要でしょ」
アリエスの箱は俺の荷物四つ分あった。
フェンリル用の毛布まで刺繍入りだ。炎の狼に防寒毛布が要るのかは聞かない方がよさそうだ。
「この薬箱は誰のだ?」
「僕だよ」
グレイが手を上げる。
「混ぜるなと書いてある瓶が同じ箱に入ってるぞ」
「移動中に混ざらなければ平気だよ。たぶんね」
「その条件が不安なんだよ!」
飛空艇は空を飛ぶ乗り物だ。揺れる。荷物も転がる。
俺は危険な二瓶を別々の鞄へ移した。
カイルとエリスは薬と包帯を確認し、ノアは光を抑える布を畳んでいる。ルナはシープへ乗ったまま、まだ寝巻きだった。
「ルナ。出発するぞ」
「……着替えた」
「それは寝巻きだ」
「外套を着れば見えない」
寝巻きのまま乗船名簿へ載る気か。
ミィナはツナの口へ干し魚を詰めていた。
「三日分、全部入った!」
「今全部食べさせるな」
荷造りだけで、予定より二十分遅れた。
皆勤を守る俺が遅刻する理由として、空飛ぶマグロの朝食は認められるだろうか。
***
学園北の発着場には、船が空へ浮かんでいた。
長い船体の左右に翼。上部には巨大な気嚢が三つあり、船底の魔力輪が青く回っている。
飛空艇ゼフィロス号。
俺が想像していた飛行機より、空飛ぶ宿屋に帆と翼を足した姿に近い。
「二年Fクラス八名、使い魔六体、特別火力要員一名」
乗船係が名簿を読む。
「誰が特別火力要員だ!」
イグニスが後ろで怒鳴った。
「名簿にそう書いてある」
「代表選手と書き直せ!」
出港前から火力が漏れている。
使い魔六体は貨物扱いにされかけた。
「生きた相棒です。箱には入れません」
エリスが譲らない。
貨物室は寒く、固定用の縄と金属箱ばかりだ。フェンリルは入れても、シープとツナは狭い通路を通れない。
船員と相談し、後部の空き食堂を夜だけ使わせてもらう。昼は乗客が通るため、六体は主人と一緒に甲板下の休憩室で待つことになった。
床へ毛布を敷き、水桶を固定する。ホークには梁の止まり木。ツナには蓋つきの水槽を借りた。
「蓋がなくてもツナなら平気!」
ミィナが外そうとする。
「揺れたら水ごと廊下へ出る」
「ツナは空だって泳げるもん!」
「水は泳げない」
出港の鐘が鳴った。
船体がゆっくり地面を離れる。
窓の外で学園の塔が低くなり、森と街が一枚の地図へ変わっていく。ナビは嬉しそうに地形を記録した。
俺も少しだけ感動した。
三分後には、手すりへしがみついていた。
「揺れる!」
船が左右へ大きく傾く。
棚の皿が鳴り、固定し忘れた椅子が床を滑った。ルナのシープは傾きと反対へ浮き、眠った本人だけ水平を保っている。
「この程度で騒ぐな!」
イグニスが立ち上がった直後、椅子ごと壁へ滑っていった。
説得力も一緒に転がった。
***
揺れは一時間たっても収まらなかった。
晴れているのに、一定の間隔で右、左、右と傾く。
船員は高空の横風だと言う。風向きは変わっていないのに、船体の揺れだけが少しずつ大きくなっていた。
「同じタイミングで押され続けてる」
カイルが窓の布を見た。
約七秒ごとに、布が右へ大きく膨らむ。
ブランコを思い浮かべればいい。前へ来るたび同じ向きへ背中を押せば、小さな力でも揺れは大きくなる。
物には揺れやすい周期がある。そこへ同じ周期の力が重なる現象が共振だ。
「風を止めるの?」
「空全部の風を止めるのは無理だ。船の揺れをずらす」
俺たちは船員に頼み、後部食堂の床下を見せてもらった。
予備の鎖、重い鉄板、滑車がある。
「床へ重りを置くだけじゃ駄目?」
アリエスが鉄板を蹴る。
「重心は下がる。でも重くなった船を浮かせる魔力も増える」
必要なのは重さそのものではなく、船と逆向きに動く重りだ。
天井の梁へ鎖を下げ、鉄板を吊るす。船が右へ傾けば、重りは慣性で少し遅れて左側へ残る。その動きが揺れを打ち消す。
高い建物で使う振り子式の制振装置と似ている。
「長さは?」
グレイが鎖を持つ。
「揺れる速さへ合わせる。まず試す」
短い鎖では重りが速く往復し、船の七秒周期と合わない。長くするとゆっくりになる。
ナビが床の傾き、ノアが窓枠へ映る光の移動、グレイが時間を記録した。
食堂の下にある貨物用の縦穴を借り、鎖を十二メートル近くまで下ろす。そこで重りの一往復が、ようやく七秒へ近づいた。
ただし、ぴったり同じ周期へ合わせれば重り自身が大きく振れすぎる。壁へぶつかれば、新しい事故になる。
「両側へ布袋を置こう」
エリスが毛布と砂袋を重ねる。
カイルとホークは、重りが端へ来た時だけ弱い風を当てた。速くするためではない。揺れと逆向きへ戻す補助だ。
ルナが片目を開く。
「……重り、持つ」
「取りつける間だけ頼む。船全体へ重力をかけるなよ」
ルナは鉄板へ働く重力だけを弱め、全員で鎖の先へ固定した。
固定が終わると重力を戻す。重りが船の揺れから受け取った動きを、砂袋と弱い風で熱や空気の動きへ逃がしていく。
一回目は失敗した。
ミィナが「もっと重い方が効く」とツナを鉄板へ乗せたためだ。
水槽ごと振り子になり、蓋の隙間から水が噴き出した。
「だから蓋を外すなと言っただろ!」
「半分も残った!」
「合格点みたいに言うな!」
床を拭き、ツナを下ろす。
二回目は鉄板だけで試した。
七秒ごとに大きく傾いていた船が、少しずつ静かになる。皿の音が止まり、壁へ押しつけられていたイグニスも自分の足で立てた。
「俺の炎で風を焼けば、もっと早かった」
「船の帆も焼けるぞ」
「加減くらいできる!」
アリエスとフェンリルが同時に首を傾げた。
同族を見る目だった。
揺れが消えたわけではない。
左右の傾きは半分ほどになったが、船首が上がって落ちる動きには振り子が効かなかった。向きの違う揺れを一つの重りで全部止めるのは無理だ。
船員は、今の風なら横揺れだけ抑えれば航行できると判断した。
「完全に止めなくていいの?」
ノアが食堂の灯りを見上げる。
「直そうとして別の揺れを作る方が危ない。使える範囲まで小さくなったら、あとは荷物と人を固定する」
座席の腰紐を締め、棚の扉へ留め金を追加する。水差しは背の低い物へ替え、食器の下へ濡らした布を敷いた。
布と皿の間の摩擦が増え、少しくらい傾いても滑らない。
最初からこちらをやればよかった気もする。
ただし、人間だけ無事でも船内を椅子と大鍋が飛び回れば困る。揺れを減らすことと、動く物を押さえることは両方必要だった。
昼食は豆の煮込みだった。
俺たちは器を両手で持ち、船の傾きに合わせて少しずつ食べる。ルナだけはシープの上で水平のまま、目を閉じてスプーンを口へ運んでいた。
「どうしてこぼさないんだ?」
「……器も一緒に浮かせてる」
「最初から全員分やってくれ」
「重い」
イグニスは意地でも立ったまま食べようとし、船首が落ちた瞬間に豆を胸へ浴びた。
炎で乾かそうとして香ばしい匂いを出し、食堂から追い出される。
特別火力要員は、火気厳禁の船と相性が悪い。
午後は使い魔の状態を一体ずつ確認した。
フェンリルは船の魔力輪へ近づくたび耳を伏せた。低い振動が苦手らしい。アリエスが休憩場所を船尾から中央へ移すと、呼吸がゆっくりになった。
ホークは飛びたがったが、高空の風へ出せば船へ戻れない恐れがある。カイルが甲板の短い綱へつなぎ、翼を広げるだけにする。
カーバンクルはエリスの膝で平気そうに見えた。ところが食事を半分残したため、船酔いと判断して水だけを少しずつ与える。
シープは普段どおり。ツナも水槽の中で普段どおり回っている。
「ツナが一番元気だな」
「いつも空を泳いでるから、船くらい平気!」
「水槽は空じゃないぞ」
ナビは船体と同じ速度で浮けるが、窓の外へ出ることは禁止した。相対的には止まって見えても、結界の外へ出た瞬間に時速何十キロもの風を受ける。
ホークは飛べず、フェンリルは振動を嫌い、カーバンクルは食事を残した。
地上では平気だった相棒も、空へ連れてくれば世話の正解が変わる。
健康確認表へ、食事、呼吸、姿勢、排泄まで書く。
グレイがツナの欄を覗いた。
「魚にも船酔いはあるのかな。うひひ、これは調べたくなるねぇ」
「研究する前に本人へ聞け」
「返事は噛むだけだよ」
「嫌という意味で記録しろ」
クリスタル・フォックスの授業から六十日。グレイは本当に噛まれてから考える回数が減っていた。
***
初日の夕方。船員から部屋の鍵が渡された。
男子部屋が二つ、女子部屋が二つ。イグニスは補助員用の小部屋。
使い魔は後部食堂で休ませる。
「これなら男女別に寝られるな」
俺は心から安心した。
湖の毛布事件を国外まで持ち出さずに済む。
ところが、鍵の札がおかしい。
俺とカイルとグレイは十二号室。アリエスとエリスは十三号室。ルナ、ノア、ミィナは十四号室。
十五号室の札には、アルト付き代表随行者と書かれていた。
「誰だ、これ」
受付係が書類を確認する。
「申請書には、あなたの使い魔四名とあります」
「四名?」
ナビ一体のはずだ。
横からアリエスが書類を奪った。
同行分類の欄へ、アリエス、ルナ、ノア、ミィナの名前が書かれている。
「誰が書いたのよ!」
『申請者、ミィナ。目的、アルトノ夜間保温及ビ逃亡防止』
ナビが読み上げた。
「アルトの夜間保温は大事にゃ! 寒くなったら四人で毛布を投げに行く!」
ミィナは悪びれない。
「私たちは使い魔じゃないわ!」
「逃げたらツナで廊下を塞ぐよ!」
「同じじゃない!」
受付係の目が俺へ向く。
俺は何も申請していないのに、国際交流の前から夜間拘束の対象になっていた。
部屋割りは正式な名簿へ直され、十五号室は使い魔の世話をする交代要員の仮眠室になった。
夜中に水を替えるミィナ。フェンリルの火傷を防ぐアリエス。ホークの羽根を見るカイル。全員が二時間ずつ交代する。
移動は休暇ではない。使い魔にも食事と睡眠が要る。
俺の当番は深夜二時だった。
後部食堂へ行くと、ルナが先にシープへ埋まっていた。交代要員というより、寝床を変えただけに見える。
床下の振り子は、鎖が擦れる小さな音を立てている。
「眠れないのか?」
「……床が動く」
「お前でも船酔いするんだな」
「酔ってない。アルトが来るまで待ってた」
目を閉じたまま言われても信用しにくい。
俺は水槽の水位を確かめ、フェンリルの寝床へ近づいた。体温で毛布の端が焦げている。火傷はないが、朝まで放置すれば煙が出そうだ。
焦げた部分を切り、耐熱布へ替える。
ルナが俺の背へ額を当てた。
「アリエスと買った手袋」
「遠征装備だ」
「……手も買った?」
「買えるなら予備を三本くらい欲しい」
肩へ小さな重みがかかる。
「次は私の番」
「当番なら今だろ」
「そっちじゃない」
聞き返す前に、ルナは俺の背へ寄りかかったまま眠った。
振り子より扱いにくい重りが増えた。
起こせば局所重力で床が抜けるかもしれない。俺は二時間、背中へ銀髪を乗せたまま六体を見張った。
翌朝。食堂へ戻ったアリエスに見つかり、前日の手つなぎで得た優位は綺麗に相殺された。
恋愛にも、逆向きの振り子はきっちり働いた。
二日目の昼、食堂の皿が、また同じ方向へ滑り始めた。
「また皿が逃げてるぞ!」
「船が昨日と同じならね」
グレイが、天井から下がる鎖を指した。
朝より、ほんの少し長い。
雲の上は日差しが強く、昼になると金属が温まる。鎖が伸びれば、振り子が往復する時間も変わる。
「こんなに少しで?」
「船の揺れと合うかどうかは、少しで変わる」
朝、昼、夜。
十往復にかかる時間を測ると、昼だけ、重りの戻りが遅かった。
「上端の調整ねじを回して、有効長を数ミリ短くする。鉄板を押さえてくれ」
「……私が止める」
「待て。全員が離れてからだ」
一日目に、ツナ入りの水槽を振り回した失敗は、手順書の一行目へ書いてある。
同じ失敗を二日続ければ、反省ではなく日課になる。
砂袋で鉄板を挟み、全員が離れる。そこで初めて、ルナが重力をかけた。
鎖の固定位置を数ミリ上へ動かすと、皿は食卓の上で止まった。
「成功ね」
「夜になったら、また測る」
「成功って言わせなさいよ!」
三日目の夜には風が弱まり、今度は振り子そのものを固定した。
「動かしておいた方が安心じゃない?」
カイルが鎖を見る。
「必要がないのに動かせば、鎖が切れる危険だけ残る」
直した装置は、永遠に動かす記念品ではない。
止め時まで決めて、ようやく仕事が終わる。
出発から三日後。
入学第五百三日の朝食後、遠くに天空都市の塔が見えた。
白い岩盤が雲から突き出し、その上に橋と建物が重なっている。
「ゼニスだ!」
甲板へ全員が集まった。
長い旅だった。船酔いした者はいない。ツナの水も七割は残っている。
着岸の衝撃で、天井の振り子が最後に一度だけ大きく揺れた。
俺の背中を押し、隣のアリエスへ倒れ込む。
「ちょっと、どこ触ってるのよ!」
「床が揺れたんだ!」
「三日かけて直したんじゃないの!?」
揺れを小さくする装置であって、俺の評判を支える装置ではない。
空の旅は無事に終わった。
船は止まったのに、アリエスの怒りだけが、まだ七秒周期で揺れていた。




