36話 赤い髪の買い物は三軒で終わらない
俺の机には遠征用の持ち物一覧と、どう見ても足りない銀貨が並んでいた。
入学第四百八十日。天空都市ゼニスへの出発まで、あと二十日。
「防寒外套、滑り止め靴、保護眼鏡、三日分の着替え。使い魔の寝具と餌は別」
数えるたびに、必要な金が増える。
代表章は名誉の証だ。名誉を鍋で煮ても夕飯にはならないし、空の上で羽織っても暖かくはない。
「アルト。まだなの?」
教室の扉からアリエスが顔を出した。
今日は休日なので、制服ではなく、赤い髪に合わせた濃紺の外套を着ている。足元のフェンリルにまで同じ色の首布が巻かれていた。
「何が?」
「買い物よ。昨日、遠征装備を見に行くって約束したでしょ」
「八人で行く話じゃなかったか?」
「カイルとエリスは薬を買いに行ったわ。グレイは店で混ぜると追い出されるから留守番。ルナは寝てる。ノアとミィナは使い魔の餌当番」
見事に、俺とアリエスだけが残っていた。
「偶然よ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあるのよ!」
アリエスは俺の持ち物一覧を奪うと、勝手に二つ折りにした。
「ほら。日が暮れたら店が閉まるわよ」
「待て。予算が決まってない」
「私が出す」
「それは駄目だ」
「どうして?」
「遠征のたびに貴族令嬢へ服を買ってもらう男にはなりたくない」
「裸で飛空艇に乗る男よりましでしょ」
どちらも社会的には着陸できない。
俺は銀貨を財布へ戻し、買える範囲で探すことにした。
***
一軒目は学園前通りの高級魔法服店だった。
入った瞬間、俺の財布が帰りたがった。
天井から吊られた外套には、自動保温、汚れ除去、落下時浮遊の札がついている。値札の方は、銀貨ではなく金貨から始まっていた。
「これならゼニスでも寒くないわ」
アリエスが赤い外套を俺の肩へ当てる。
「着る前に財布が凍死する」
「だから私が」
「出さなくていい」
店員が俺の古い外套を見て、丁寧な笑顔のまま一歩離れた。
フェンリルだけは高級な敷物の上へ座り、完全に店へ馴染んでいる。
「天空都市は地上より気温が低い。風も強いから、普通の布を重ねただけでは体温を持っていかれるわよ」
「わかってる。だから素材を見たい」
俺は試着台の横に置かれた見本板へ触れた。
鉄、銅、銀、革、羊毛の細長い板が、同じ大きさで並んでいる。
「外套を選ぶのに金属を見るの?」
「留め具だ。金属は冷えた時に熱を奪いやすい」
金属板の端を店の保温石へ同時に当てる。反対側へ、温度で色が変わる蝋を一滴ずつ置いた。
最初に銀板の蝋が溶け、次が銅で、鉄はさらに遅い。革と羊毛は、五分待ってもほとんど変わらなかった。
「同じ温度の石に触れてるのに」
「熱の伝わりやすさが違う。熱伝導率だ」
鍋の取っ手が金属だけなら、火から離れていても熱くなる。木や厚い布を巻くのは、熱が伝わりにくいからだ。
寒い場所では逆になり、冷えた金属へ素手で触れば、指の熱が金属側へ速く逃げる。同じ室温の木より金属が冷たく感じるのは、そのためだ。
「じゃあ留め具は全部、木にすればいいの?」
「強度と濡れた時が問題になる。金属を薄い革で覆うか、肌へ直接触れない場所に付ければいい」
店員が咳払いをした。
「当店の品は、すべて魔法銀の留め具でございます」
「これ、肌に当たりますよね」
「自動保温術式がございますので」
「術式が切れたら?」
「そのような事態は想定しておりません」
交流戦の筆記試験なら赤字を入れられる答えだ。
魔力が消えた村を見てきた俺たちには、術式が必ず動くとは思えない。
「別の店へ行くぞ」
「これ、似合ってたのに」
アリエスは残念そうに赤い外套を戻した。
「外套が?」
「あんたがよ」
聞き返す前に、彼女は先に店を出た。
***
二軒目は職人街の飛空艇用品店だった。
今度は服より縄と工具が多く、値札も銀貨で読める。これで、ようやく呼吸が戻った。
店主は、俺たちが代表章を見せると倉庫から二種類の防寒手袋を出した。
一つは薄い魔獣革。もう一つは羊毛を厚く詰めた布製だ。
「空の上なら革だ。風を通さねえ」
「でも中まで冷えたら戻りにくい」
俺は両方へ同じ温度の小瓶を入れた。ナビに五分ごとの温度を測らせる。
『開始温度、四十度』
店先の冷却箱へ置き、五分待つ。
アリエスは腕を組んだ。
「買い物へ来てまで実験するのね」
「失敗して指が動かなくなったら、授業の出席欄へ名前を書けない」
「あんたの心配はそこなの?」
「卒業の方が指より大事だ」
「順番が逆よ」
五分後。革手袋の瓶は三十一度。羊毛は三十四度だった。
羊毛の間には、動かない空気が溜まり、熱が逃げるのを遅らせる。ただし風が通れば、その暖まった空気ごと入れ替わってしまう。
「外を革、内側を羊毛にすればいい」
「二つ買うの?」
「いや。傷のある革手袋と、端切れの羊毛を買って縫う」
店主が奥から片方だけ色の違う手袋を出した。売り物にならず、半額らしい。
左右の色は茶と黒。
「ひどい組み合わせね」
「両手が凍るよりいい」
「貸して」
アリエスは黒い方を自分の右手にはめ、俺の茶色い手袋へ指を絡めた。
「こうすれば左右そろって見えるでしょ」
「見えない。持ち主が二人に増えただけだ」
「細かいわね!」
店主がにやにやしながら、二人用ならさらに一割引くと言った。
アリエスは即決した。
俺の意見は、値引きに負けた。
手袋だけでは、必要な物の三分の一にも届いていない。
店主から飛空艇の甲板で使う古い送風筒を借り、外套の見本へ風を当てた。布が厚いほど暖かいと思っていたが、縫い目から冷たい筋が抜けてくる品もある。
風速を上げると、その差はもっとはっきりした。
風が体の周りにできた暖かい空気の層を剥がし、次々と冷たい空気へ入れ替えてしまう。地上の気温が同じでも、風の強い日に寒く感じる理由だ。
「だから表面は風を止める革が要る。内側は羊毛で空気を抱える」
「さっきの手袋と同じね」
「ただし全部を革にすると、汗が逃げない」
濡れた服は、空気の隙間を水で埋める。水は動かない空気より熱を伝えやすく、乾く時には蒸発でさらに体温を奪う。寒い場所で汗をかいたまま休むのは、冷たい布を肌へ貼りつけるようなものだ。
背中と脇だけを布にした品を探すが、新品は高い。
アリエスは俺の背へ外套を当て、肩幅を確かめた。
「少し大きいわ」
「中へ着込むから、このくらいでいい」
「袖は余ってる」
「折る」
「見栄えは?」
「置いていく」
彼女は本気でため息をついた。貴族にとって、見栄えは使い魔の餌より重い。
店主が勧めた飛行靴も試した。
靴底へ滑り止めの金具がついているが、重くて歩きにくい。そこで片足だけ借り、普通の革靴と交互に店内の傾斜板へ乗る。
乾いた板では金具の方が止まった。ところが水を薄く撒くと、金属の平らな面が滑る。細い溝へ革紐を通し、靴底の凹凸を増やした方が安定した。
床と靴が触れる面を全部増やせばいいわけではない。水や細かな氷を逃がす溝がなければ、間に挟まった層の上を滑る。
店主は不格好な紐を見て首を振ったが、飛空艇の整備員は同じ方法を使うと教えてくれた。
「また廃材で済ませる気?」
「この革紐なら銅貨二枚だ」
「帰ったら私の靴にも付けなさい」
「高級靴へ穴を開けて怒られないか?」
「落ちて死ぬよりは怒られる方がましよ」
その判断だけは、交流戦の筆記試験で満点を取れそうだった。
***
三軒目は市場裏の古着屋だった。
外套、厚手の靴下、保護眼鏡と、必要な物は一通り並んでいる。
厄介なのは、前の持ち主がどんな使い方をしたかわからないことだ。
外套の縫い目へ息を吹き、反対側の薄紙が揺れるか確かめる。風が抜ける場所は、いくら厚くても寒い。
見つけた一着は肩の金属飾りだけが冷たかった。
内側へ指を入れると、飾りを留める鋲が裏地まで貫いている。
そこだけ熱の通り道になっていた。
家の壁へ断熱材を詰めても、柱や金属部品が外と中をつなげば、熱はそこから逃げる。
熱橋と呼ばれる弱点だ。
飾りを外し、穴へ羊毛を詰めれば使える。見栄えはさらに減るものの、値引きの理由にもなる。
靴は底を曲げ、細い亀裂が開かないかを見る。保護眼鏡の方は、曇らせて傷を探した。
「新品を一着買うより時間がかかってるわ」
「時間はある。金はない」
「私と歩く時間まで惜しい?」
アリエスの声が少しだけ低くなった。
俺は外套から顔を上げる。
「装備を買いに来たんだろ」
「そうよ。二人で」
「他のみんなが来られなかったから」
「偶然だって言ったでしょ」
「自分で認めてるじゃないか」
外套の陰からフェンリルが鼻を鳴らした。
アリエスは一度口を開き、閉じた。
「湖で約束したじゃない」
「個別に出かけるって話か」
「覚えてるなら、今日がそうだって気づきなさいよ」
ようやく意味がわかった。
俺は朝から遠征装備のことしか考えていなかった。それでも彼女は服を選び、手袋を半分買い、三軒も付き合っている。
「もしかして、デートのつもりだった?」
「もしかしなくてもそうよ!」
古着屋中へ声が響いた。
奥で帳簿をつけていた老店主が、若いねえと笑う。
俺とアリエスの噂が、国外へ出る前に市場裏まで広がった。
「悪かった」
「謝ってほしいわけじゃない」
「じゃあ、どうすればいい」
アリエスは店の窓へ目を向けた。外は夕方で、焼き菓子の屋台に灯りがついている。
「買い物が終わっても、すぐ寮へ帰らない」
「追加予算は?」
「私が焼き菓子を一つ買う。あんたが飲み物を買う。それなら同じでしょ」
貴族令嬢とのデートが銀貨一枚以内で済むなら安い。
その考えが顔へ出たらしく、脇腹を小突かれた。
***
市場の端にある小さな広場で、焼いたリンゴを二人で分けた。
フェンリルには肉串。ナビは頭上で店の時刻を数えている。
赤い夕日が屋根の向こうへ沈み、空が少しずつ冷えてきた。
歩き始めた朝は、買う物をそろえて早く帰るつもりだった。
三軒回り、外套を裏返し、靴底へ水を撒き、気づけば半日が終わっている。
効率だけなら最低だ。
それでも、急いで一軒目の外套を買っていたら、今ここで焼きリンゴを分ける時間はなかった。
遠回りも、全部が損になるわけではなかった。
買った外套は、表地が風を通しにくい革混じり。裏には取り外せる羊毛が縫われている。金属の留め具は布で覆われ、値段は高級店の五分の一だった。
「見た目は地味ね」
「空で凍らなければいい」
「私が隣にいれば凍らないわよ」
アリエスが指先に小さな炎をつける。
「機内で燃やすなよ」
「本当に色気がないわね」
炎が消えた。
代わりに、彼女の右手が広場の長椅子へ置かれる。黒い手袋をはめたまま、俺の左手のすぐ横だ。
「アルト」
「何だ」
「ミィナの告白のこと。まだ答えを決めてないのよね」
「ああ」
「私のことも?」
焼きリンゴの甘さが、急に重くなった。
アリエスは強い。火力の話ではない。言いたいことを誤魔化しながら、最後には俺へ届く場所まで持ってくる。
「交流戦が終わるまで待ってほしい」
「また先延ばし?」
「遠征の前に答えて、気まずいまま飛空艇で三日過ごしたくない」
「振る前提で言わないで!」
赤い火花が散った。
「違う。ちゃんと考えたいんだ。卒業できるかもわからないのに、都合のいい返事だけはしたくない」
アリエスは黙った。
やがて手袋越しの小指が、俺の小指へ触れる。
「交流戦のあとね」
「約束する」
「じゃあ今は、これだけ」
彼女が俺の手を握った。
革越しでも、指先は暖かかった。
帰り道。俺たちは手をつないだまま歩いた。
フェンリルが先を歩き、ナビが後ろからついてくる。誰もいない道なら、これくらいは許されると思った。
寮の門の前で、アリエスがようやく手を離した。
「これ、片方持ってなさい」
買ったばかりの手袋を、俺の外套のポケットへ押し込む。
「どうして片方だけ?」
「なくさないためよ。交流戦が終わったら返して」
「返事をする時に?」
アリエスの耳まで赤くなった。
「手袋を返す時!」
フェンリルが鼻を鳴らし、先に門をくぐる。
俺も左右で色の違う手袋をはめ直した。
半額だった一組の持ち主は、今のところ二人だ。
右手だけが、行きより少し暖かかった。




