32話 仲直りの印に排水溝を掘れ
黒い管を締めてから一時間。
夜明け前の地面が、もう三度膨らんだ。
「あと何時間持つ?」
『現在ノ上昇率ナラ、二時間四十分。誤差、前後三十分』
ナビの答えに、眠気が吹き飛んだ。
入学第三百九十二日。
俺たちは徹夜明けで、爆発するかもしれない管の横にいる。
出席日数を守るため学園へ入ったはずなのに、なぜ夜明け前の森で配管工をしているのだろう。
「ラグナ村へ行ってくる」
ミィナが立ち上がる。
「私も行く」
セナが止めた。
「族長が境界を離れるわけにはいかん」
「じゃあミィナが連れてくる」
「人間を森へ入れるな」
「管が破裂したら、森の方から村へ入る」
返事が強い。
セナの尻尾が二度揺れた。
「境界の窪地までだ。斧を持つ者は入れるな。火も使わせるな」
「わかった」
ミィナ、俺、カイル、ホークが村へ走った。
他の五人と使い魔は、膨らむ管を監視する。
全員で移動しない。
昨夜の戦いで、少しはFクラスにも留守番という概念が生まれた。
***
ラグナ村の人々は、井戸の揚水輪を囲んでいた。
夜の間に貯水桶が二つ満ちている。
俺たちの顔を見ると、村長が笑った。
「朝の列が消えたぞ。礼を言わせてくれ」
「その前に、手を貸してください。森の管が破裂します」
笑顔が消えた。
事情を話すと、広場へ集まった村人たちは顔を見合わせる。
「猫の連中がいる森だろ」
「十年前、畑の境を巡って矢を射られた」
「こっちは鶏を盗まれたぞ」
話が古い。
管が破裂するまでに、十年分の喧嘩を解決する時間はない。
「仲直りしろとは言いません。土を掘れる人と、板を組める人だけ貸してください」
「爆発するなら逃げればいい」
一人の男が言った。
「森から魔力塩が流れれば、村の畑と井戸へ入ります。逃げても戻れなくなる」
昨日作った揚水輪を指す。
「水があっても飲めない村になります」
男は口を閉じた。
自分たちのためだと言えば、人は動きやすい。
英雄の演説より、井戸の方が強かった。
村長が鍬を持ち上げる。
「昨日の水代だ。行ける者は道具を持て」
二十人ほどが集まった。
村から縄、板、空の樽、手押し車も借りる。
ミィナは一人ずつ斧と火種を置かせた。
「森の決まり」
「丸腰で猫の森へ入れってのか」
「ミィナたちが前を歩く」
「魔獣が出たら?」
「魔獣が出たら、アルトを投げる!」
「俺なのか?」
村人の緊張が少しだけ緩んだ。
身代わりにされる本人だけ、笑えない。
***
境界へ戻ると、獣人たちも道具を持って待っていた。
人間と猫の一族が、排水溝を挟んで向かい合う。
誰も挨拶しない。
カイルが俺の耳元へ顔を寄せる。
「この空気、イグニスと戦う前より怖いよ」
「撃たれる方向が二つあるからな」
俺は地面へ図を描いた。
朝食も食べていない頭で考えたのは、村と森を救う英雄的な大魔法ではない。
板をつないだ長い排水路だ。
物語の主人公なら剣を抜く場面で、俺は水漏れしない継ぎ目を考えていた。
黒い管を完全に切る前に、中へ溜まる魔力を逃がす必要がある。
ただし森や畑へそのまま流せば、魔力塩を増やすだけだ。
境界の南側に、使われていない粘土質の窪地がある。
そこへ処理池を作り、管から抜いた魔力と塩水を一時的に溜める。
「窪地は管より低い。でも途中に木の根の丘がある」
アリエスが地面の線を見る。
「水は上へ流れないわよ」
「普通はな。管の中を水で満たせれば、丘を越えられる」
二つの桶を並べた。
一方を石の上へ置き、もう一方を地面へ置く。
水で満たした細いホースの両端を、それぞれの桶へ沈める。
低い方の栓を開けると、高い桶の水が丘に見立てた板を越えて流れ始めた。
「サイフォンだ」
管の出口が水面より低ければ、下へ落ちる水が後ろの水を引く。
水を引っ張って終わり、でもない。
高い桶の水面を押す空気の圧力と、出口側の水の重さが働いている。
だからホースの中へ空気が入れば流れは切れる。出口が高ければ始まらない。永遠に水を汲める便利装置でもない。
「最初に管を水で満たす必要がありますね」
エリスが桶を覗く。
「そこが一番面倒だ」
俺たちは四枚の板を細長い箱へ組み、短い管でつないだ。森から処理池まで、内部を密閉した仮設水路を作る。
獣人は根を傷つけない道を知っている。
村人は板の継ぎ目から水を漏らさない組み方を知っている。
どちらか片方だけでは間に合わない。
それでも、作業は進まなかった。
「そこは獣道だ。板を置くな」
「こっちは荷車が通れない。木を一本切れ」
「人間の道のために森を切るのか」
「猫の道のために樽を担げってのか」
一枚置くたびに喧嘩になる。
管の表面は、もう指一本分膨らんでいた。
爆発寸前の管より、十年前の鶏泥棒の方が優先されている。
人間は危機が来れば団結するという話を最初に言った奴を、この現場へ連れてきたかった。
「ミィナ」
セナが呼ぶ。
「お前が決めろ」
村長も腕を組んだ。
「昨日、水を上げた連中の仲間なんだろ。決めてくれ」
二つの集団から同時に押しつけられた。
族長候補は便利な苦情窓口ではない。
ミィナは丘、獣道、荷車を順に見る。
「木は切らない。獣道も塞がない。荷車の車輪を外す」
「は?」
「樽だけ転がす。空の樽は軽い。水を入れる場所まで、人と猫が交代で運ぶ」
「誰が先に運ぶ」
「今文句を言った二人」
村の男と若い獣人が、同時に黙った。
ミィナは次の場所へ歩く。
俺より、よほど指揮官に見える。
***
一時間後。
仮設水路が処理池へつながった。
肝心なのは、出口が本当に低いかどうかだ。
森の中では根と茂みが邪魔をする。管から処理池までを直線で見通せない。
目測で下り坂に見えても、途中がわずかに高ければ、水路の中へ空気が溜まる。
「ナビが飛んで測れば?」
カイルが枝の隙間からナビを見上げる。
「木の枝で高さの基準が見えない」
俺が答えに詰まると、村の大工が手押し車から透明な細いホースを出した。
「家の土台をそろえる時は、これを使う」
「魔道具じゃないのか?」
「水が傾いて止まるなら、うちの家はとっくに倒れとる」
異世界の村人を、何でも科学で驚く係だと思っていた俺の方が間違っていた。
透明な細いホースへ水を半分入れ、両端を上へ向ける。
片方を黒い管の横へ置き、もう片方を処理池まで運んだ。
ホースが曲がっていても、中の水面は両端で同じ高さになる。
つながった容器の水は、高い方から低い方へ流れ、最後は同じ高さで止まる。
連通管の原理だ。
真っすぐな定規が届かなくても、水面そのものが水平を教えてくれる。
獣人が管側の水面へ印をつけ、村人が処理池側の水面から地面までを測った。
「こっちの地面が、棒一本と手のひら三つ分低い」
場所を変えて三度測る。
ホースへ泡が入った一度だけ数字がずれたため、水を入れ直した。
高低差は一メートル半。
ノアが二つの印へ光を当て、最後にナビが数値を確認する。
別の方法でも同じくらいなら、目測一回よりは信用できる。
出口が管より低いことを確かめてから、水路の最後の板を置いた。
グレイは処理池の底へ粘土を敷き、炭と砂の袋を並べた。
魔力塩を消せるわけではない。
炭と砂で泥を減らし、池の水を蒸発させて、残った結晶を回収するためだ。
回収した塩は密閉し、学園へ証拠として持ち帰る。
「水路へ水を入れるよ!」
カイルとホークが村から運んだ水を流す。
丘を越え、処理池へ届いた。
「成功?」
ノアが出口を見る。
水は細く流れ、すぐに止まった。
「失敗だ。どこかから空気が入った」
継ぎ目を調べる。
三十か所のうち、十一か所から泡が出ていた。
三分の一以上が水漏れしている。
試験なら赤点。設備なら周囲が水浸しだ。採点官がいない分だけ被害の方が正直だった。
急いで作った板の水路は隙間だらけだ。
サイフォンは中身がつながった一本の水でなければ働かない。
針ほどの穴でも空気を吸えば、途中で水が切れる。
「全部作り直す時間はないわよ!」
アリエスが管を見る。
『破裂予測、四十七分後』
焦る数字ほど、ナビは丁寧に読み上げる。
「継ぎ目を外から塞ぐ。エリス、カーバンクル。薄い膜を水路の外側だけへ張れるか?」
「長くは持ちません」
「十分でいい。その間に樹脂を塗る」
グレイが松脂と油を混ぜる。
村人が布を裂き、獣人が樹皮の繊維を持ってきた。
エリスの膜が漏れを一時的に止める。
その上から布、樹脂、繊維を巻く。
カイルとホークが風を送り、アリエスとフェンリルは水路から離れた場所で石を温めた。
熱い石を樹脂の近くへ置き、乾く時間だけを短くする。
直火を当てれば樹脂が燃える。温めすぎても板が反る。
ノアの光で表面温度を読み、六十度を越える前に石を替えた。
ルナとシープは樽を持ち上げ、水路へ水を満たす。
ミィナとツナは継ぎ目へ耳を近づけた。
「ここ、空気を吸ってる」
泡が見える前に、音で穴を見つける。
最後の一か所を塞いだ。
水路の栓を開く。
水が丘を越えた。
出口から太い流れが処理池へ落ち続ける。
「止まらない!」
カイルが叫ぶ。
「止まったら困る!」
喜ぶ言葉を間違えている。
***
黒い管の上流側には、締め具の脇に小さな点検口があった。
ねじ式の栓へ仮設水路を接続し、周囲をエリスの膜で覆う。栓を外した瞬間に噴き出さないよう、縄をかけて少しずつ緩めた。
いきなり全開にはしない。
処理池の水位と、管の膨らみを見ながら、ねじを四分の一ずつ戻す。
青黒い液体が水路へ流れ込んだ。
触れた板が微かに光る。
グレイが長い棒で採取し、毒性と温度を確認する。
「熱はない。生き物は近づけないで」
フェンリル、ホーク、カーバンクル、シープ、ツナは、主人たちと一緒に水路から距離を取る。
ナビだけが上空から流量を測った。
『管内部圧力、低下。破裂危険域ヲ離脱』
地面の膨らみが、ゆっくり元へ戻る。
管の圧力が下がったところで、上流側の締め具を最後まで閉じた。
大型が噛んだ部分は切り取らず、外から二重の筒を被せる。内側へ革、外側へ金属帯を巻き、ねじで固定した。
これは修理ではない。
学園の技師が来るまで、漏れと誤開放を防ぐ封印だ。
締め具には赤い印をつけ、セナと村長の鍵がそろわなければ回せない覆いをつけた。
どちらか一方が勝手に流れを戻せない。
その場にいた全員が座り込んだ。
村人と獣人が同じ泥の上へ並んでいる。
仲直りした顔ではない。
疲れて立てないだけだ。
「終わったのか」
村長が泥のついた杖へ体重を預ける。
「応急処置は。管の先と、誰が作ったかは学園で調べます」
この場所の管は流れを止めた。
だが北東へ続く本管は残っている。
黒い魔力線の問題は、入口を一つ塞いだだけだ。
それでも森の若木へ塩が漏れ続けることはない。
処理池の周囲へ立入札を立てる。
文字を読めない幼い獣人のため、グレイが倒れた魚の絵も描いた。
「どうして魚なんだ?」
「ミィナが近づかなくなると思って」
「死んだお魚なら、ミィナが先に拾いに行く!」
警告として逆効果だった。
今度はセナが、毛を逆立てた猫と大きな罰印を描く。
村側には同じ板を村長が立て、処理池の水を畑へ使わないよう当番を決めた。
事故を止めた直後ほど、安心して規則を忘れやすい。
装置を作るより、誰が毎日見るかを決める方が長くかかることもある。
壊れた時だけ俺たちを呼ぶ仕組みでは困る。
王都から馬車で二日の村へ、毎朝の出席確認より先に配管点検へ来る生活は絶対に嫌だった。
応急処置が終わっても、すぐには帰れなかった。
二日目の朝、水路はまた止まっていた。
「昨日、直したよな?」
「夜の冷え込みで板が縮んだんだよ」
グレイが、開いた継ぎ目へ指を当てる。
完成した日に一度動いただけでは、設備とは呼べないらしい。
継ぎ目へ柔らかい革を挟み、板が動いても、すぐ隙間が開かない形へ直した。
三日目、村人と獣人は別々に点検した。
同じ漏れを見つけたのに、どちらが先に気づいたかで喧嘩になった。
四日目からは、一人ずつではなく二人一組にした。
「異常なし」
「こっちもだ」
会話は、それだけで終わる。
それでも、矢と鍬を向け合っていた時よりは進んでいた。
俺たちも、交代で半日ずつ休んだ。
朝になると、グレイがフェンリルの脚、ホークの翼、カーバンクルの額、シープの毛、ツナの腹を確かめる。
「五体とも問題なし。食欲は昨日より増えてる」
「最後は健康の証拠なのか?」
「少なくとも、ツナはね」
ナビの外装へついた泥も拭いた。
こいつだけ食費がかからない代わりに、布を三枚真っ黒にした。
入学第三百九十七日。
帰る朝、セナはミィナへ牙の飾りを一つ渡した。
「学園と人間の村へ話を通す役目を、お前へ預ける」
「族長候補のまま?」
「魚を追う癖が治れば、一歩進める」
ツナが横を通った。
ミィナの目が動く。
尻尾も動く。
本人は必死に耐えた。
「治る予定! 今から!」
セナは初めて笑った。
村長は獣人たちへ、揚水輪で汲んだ水を一樽置いた。
獣人たちは森の木の実と薬草を同じ場所へ置く。
握手はしない。
礼も言わない。
それでも、置いた物を互いに持ち帰った。
仲直りの第一歩としては、俺たちよりずっと静かだった。
帰り道が、最後の難問になった。
泥だらけの服を洗うため、境界の小川へ八人で入った。
男と女の間には、村人から借りた大きな布を張ってある。
「絶対に覗くんじゃないわよ!」
「誰が覗くか!」
アリエスの声に答えた瞬間、ホークが羽ばたいた。
六日分の泥を含んだ布が、風を受けて持ち上がる。
向こう側から四人分の悲鳴が上がった。
俺、カイル、グレイは反射的に川へ潜った。
水中なら見えない。
完璧な判断だったはずだ。
「アルトくん。息、いつまで持つかな」
グレイの泡混じりの声が聞こえる。
サイフォンと違い、人間の肺へ空気が入れば命がつながる。
だが今だけは、浮上した方が命を失いそうだった。




