30話 猫耳少女は故郷で笑わない
ミィナは一人で森へ向かおうとしていた。
入学第三百九十一日。ラグナ村で黒い管を見つけた翌朝。
「どこへ行くんだ?」
宿舎の裏口で声をかける。
肩へ小さな鞄を提げ、ツナを腕に抱えていた。普段なら食料を詰められるだけ詰める鞄が、今日に限って薄い。
「散歩にゃ」
「三日分の干し魚を持って?」
「長い散歩」
嘘が下手だった。
昨日、村長から猫の一族の話を聞いてからというもの、ミィナは一度も魚を盗んでいない。
かなり重い。
「黒い管は、お前の村の下も通ってるんだろ」
ミィナの耳が伏せた。
「人間を連れて行ったら入れてくれない。ミィナだけで話す」
「一人で戻るのか?」
「帰るんじゃない。調べに行くだけ」
言葉を変えたところで、故郷であることは変わらない。
背後の窓が一斉に開いた。
「一人で行くのは禁止よ」
アリエスが顔を出す。
「朝食も食べずに出るのは体によくありません」
ノアが包みを投げる。ミィナは反射的に受け取った。
包みの中身は、魚のパンだった。
「……眠い」
ルナはシープへ乗ったまま窓を通り抜け、庭へ落ちた。
「起きてから来い!」
カイル、エリス、グレイも玄関から出てくる。
使い魔六体まで、きれいにそろった。
「全員で散歩なら、問題ないね」
グレイが眼鏡を押し上げる。
「人間は入れないって言った」
「入口まででいい。ミィナが駄目だと言った場所から先へは行かない」
俺は答えた。
ミィナは魚のパンと七人の顔を見比べる。
「入口で待つだけ」
ようやく頷いた。
***
森へ入って二時間。
道らしい道は、最初から見えなかった。
ミィナは木の根、枝の傷、苔の向きを確かめながら進むが、俺には同じ木が並んでいるようにしか見えない。
「ここから先は一列。白い花を踏んだら戻される」
「誰に?」
「森に」
意味を聞く前にカイルが白い花を避け、右の土へ足を置いた。
地面が沈む。
頭上から網が落ちた。
ホークが網を風で押し、カイルは半分だけ包まれた。
「踏んでないのに!」
「花の右も罠」
「先に言ってよ!」
ミィナは久しぶりに笑いかけた。
だが口元はすぐに戻る。
罠を外したのは、木の上から現れた三人の獣人だった。猫の耳と長い尾を持ち、短い弓をこちらへ向けている。
「人間を連れてきたのか、ミィナ」
先頭の女性が低い声で言う。
「入口まで。村へは入れない」
「学園の服を着た者が、境界を決めるな」
ミィナの二年生制服へ視線が集まる。
その胸章には、昨日見つけた黒い管と同じ学園の印がある。
「管のことを聞きに来た。森の魔力が減ってる」
「知っている。人間が埋めた管だ」
女性は弓を下げなかった。
「十七年前、学園の調査隊が森を通った。地脈を測るだけだと言い、勝手に杭を打った。その後から若木が育たなくなった」
十七年前。
ミィナが生まれた頃だ。
「学園へ苦情を出した。記録にない工事だと返された。それで今度は、学園の生徒を連れてきたのか」
「この人たちは違う!」
ミィナが一歩前へ出る。
三本の矢が同時に上がった。
ツナがミィナの前へ出る。フェンリルとカーバンクルも左右へ並んだ。
使い魔は、主人の緊張へ先に反応する。
「戦いに来たんじゃない!」
俺が杖を地面へ置いて両手を見せると、七人も続く。
使い魔だけは、矢から目を離さなかった。
「俺たちも昨日、初めて管を見つけた。切らずに調べてる。森で起きたことを教えてほしい」
「言葉なら何とでも言える」
「なら、入口で確かめてくれ。村へ入らない」
女性はしばらく俺たちを見た。
やがて弓を下ろし、仲間へ短く合図する。
「族長へ伝える。そこから動くな」
三人は音もなく森へ消えた。
ミィナは一度も振り返らなかった。
***
そこで待つこと、一時間。
境界の向こうから、二十人ほどの獣人が現れた。
中央にいる灰色の髪の女性は、ミィナと同じ緑の目をしている。服装は質素だが、首へ牙の飾りを下げていた。
「族長のセナだ」
女性が名乗る。
ミィナは膝をつき、両手を地面へ置いた。
「族長候補ミィナ。ただいま戻りました」
聞き間違えたかと思うほど、ふざけた語尾も、魚を追う時の弾んだ声もない。
背筋を伸ばした横顔は、一年間、同じ教室にいた少女とは思えないほど大人びて見えた。
俺まで姿勢を正してしまう。
「族長候補?」
カイルが小声で繰り返す。
普段のミィナなら、食堂で魚を追い、授業中にツナと寝ている。
族長という言葉から、最も遠い場所にいた。
「族長候補って、どうやって決まるんだ?」
俺が小声で聞くと、最初に弓を向けてきた女性が答えた。
「血だけでは決まらない。森の変化を見つけ、獲物を分け、進むか退くかを決められる者が選ばれる」
「ミィナが?」
「候補は一人ではない。幼い頃から外へ出し、それぞれ違うものを学ばせる」
女性は、ミィナの制服を見た。
「あの子の役目は、人間の町と魔法を知ることだった」
魔力が弱いから、森を追い出されたわけではない。
弱い魔法で外の世界をどう生きるか、その答えを森へ持ち帰るために、送り出されたのだ。
本人が今まで言わなかったせいで、俺たちは食費を減らすための留学だと思いかけていた。
セナはミィナへ近づき、頭から足元まで見る。
「一年で帰る約束だった」
「三年学ばなければ卒業できない」
「外の知識を持ち帰れと言った。人間の服を着て、人間の男を連れ帰れとは言っていない」
全員の視線が俺へ集まる。
「男は一人じゃないです。カイルとグレイもいます」
ノアがなぜか訂正した。
「今そこを増やさなくていい!」
セナの表情は変わらない。
「ミィナ。説明しろ」
ミィナは俺たちとの出会いから話した。
Fクラス。召喚実習。対抗戦。アビス・ホール。魔法の消えた区画。
いつもなら自分の活躍を三倍にして話すのに、今日は一つも笑いを足さなかった。
第零層で、自分が道を選んだことだけは、少し声が大きくなる。
「人間の学校で遊んでいたわけではないと?」
「学んでる。森だけでは知れないことを」
「なら示せ。森の若木が枯れる理由を、人間の知識で説明してみろ」
セナが境界近くの窪地へ案内する。
村へ入らずに行ける場所だった。
そこには高さ一メートルほどの若木が何十本も並んでいた。
葉は丸まり、先端が茶色い。
地面は湿っており、水不足には見えない。
「十七年前から、この一帯だけ苗が育たない。土を替えても水を増やしても同じだ」
黒い管は窪地の下を通っているという。
俺が近づこうとすると、セナが手で止めた。
「答えるのはミィナだ」
これは俺たちの試験ではなく、ミィナの帰郷試験だった。
***
ミィナは枯れた葉を一枚取り、迷わず舌先へつけた。
「苦い。少し塩辛い」
「食べるな!」
いつもの言葉が口から出た。
セナたちが一斉に俺を見る。
「毒があるかもしれない。味を見るなら本当に少しだけにしろ」
「子どもの頃から知ってる木。毒はない」
ミィナは根元の土も嗅いだ。
次に、窪地から十メートル離れた場所にある、元気な木の土と比べる。
「枯れてる方は、魔石を洗った後の匂いがする」
グレイが二か所の土を小瓶へ入れる。
同じ量の井戸水を加え、透明な紙へ一滴ずつ落とした。
枯れた側の水だけ、乾いた後へ白い輪が残る。
「魔力塩だね。管から少しずつ漏れて、土に溜まったんだ」
魔力を結晶へ固定する時に使う塩で、目では見えないほど薄くても、十七年続けば根の周りへ濃くなるという。
「水があるのに、どうして枯れる?」
ミィナが俺へ尋ねた。
答えを求める目ではなく、知っていることを出せという合図だった。
「浸透圧だ」
植物の根には、水を通し、大きな物を通しにくい薄い膜がある。
膜の左右で水の濃さが違うと、水は薄い方から濃い方へ移ろうとする。
野菜へ塩を振ると水が出るし、漬物がしんなりするのも、細胞の中の水が外へ引き出されるからだ。
ただし説明だけでは、十七年も疑ってきた獣人たちを納得させられない。
ノアが見張り小屋から同じ大きさの根菜を二つ借りてきた。
片方はきれいな水へ、もう片方は枯れた土地の土を溶かした水へ入れる。
ナビで最初の重さを量り、二十分待った。
きれいな水の根菜は硬いまま、わずかに重くなる。土の水へ入れた方は表面が柔らかくなり、重さも減った。
「同じ野菜なのに?」
若い獣人が二つを触り比べる。
「違うのは周りの水だけだ。病気や虫なら二十分で片方だけ変わる説明がつかない」
もちろん、若木と根菜は同じではない。
土には別の毒が混じっている可能性もあり、この実験だけで魔力塩が唯一の原因だとは決められない。
それでも、塩を含む土の水が、植物から水を奪うことは確かめられた。
普通は土の水が根へ入るが、土の塩が濃くなりすぎれば逆になり、根の中から土へ水が出てしまう。
「だから濡れてるのに、木は水を飲めない」
ミィナが自分の言葉で続けた。
「水をもっと撒けばいい?」
若い獣人が空の水桶を持ち上げる。
「逃げ道がない窪地へ水だけ入れたら、塩水が残る。下に溝を掘って、塩ごと外へ流す。漏れてる管も止める」
土を入れ替えても同じだったのは、管を残していたからだ。
ミィナは、枯れた木、土地の傾き、黒い管の位置を順番に指す。
「この三列は別の場所へ植え直す。窪地の端へ排水溝を作る。元気な木は切らない。管は中の流れを止めてから外す」
判断に迷いはなく、俺の説明を繰り返しただけでもない。
森を知るミィナにしか出せない順番だった。
そこでセナが初めて、少し目を細める。
「人間の知識を借りたな」
「仲間の知識。ミィナが学んだもの」
その言葉だけは強かった。
***
日が傾くまで、俺たちは境界の外で排水溝を掘った。
村へ入る許可はまだ出なくても、獣人たちは道具を貸し、水の流れる場所を教えた。
アリエスとフェンリルが硬い根を避けて土を崩し、カイルとホークは上から傾斜を確認した。
エリスとカーバンクルが移植する根を膜で包み、ノアは光で溝の高さをそろえる。
ルナとシープは運ぶ土を少しだけ軽くする。魔力を使いすぎないよう、一回ごとに休んだ。
グレイは土の白い輪が消えるまで水を測る。
ミィナは全体を歩き、次に掘る場所を決めた。
俺は言われた場所へ杭を打つ。
今日はミィナが班長だった。
作業が終わると、セナが境界へ戻ってきた。
「今夜だけ、外れの見張り小屋を使え。村の中へは入るな」
「ありがとう」
「礼は早い。黒い管を止められると決まったわけではない」
セナは俺たちを一人ずつ見る。
「人間を信用したわけでもない」
「それで十分」
ミィナは笑わなかった。
セナたちが去った後、俺はミィナの隣へ座る。
「族長候補だったんだな」
「黙ってて悪かった」
「怒ってない。驚いただけだ」
ミィナは膝を抱える。
「魔法が弱いから追い出されたって思われた方が、楽だった。族長候補なのに魚を追いかけてるって知られたら、笑われる」
「今さらそこは誰も驚かない」
「ひどいにゃ」
やっと少しだけ頬が緩んだ。
「外を学んで戻れって言われた。人間と話す方法も、森を守る方法も。でも一年たっても、人間を連れて境界へ来ただけで、矢を向けられた」
「一年で変わらないなら、三年かければいい」
「アルトは留年が嫌いなくせに、長くするの?」
「卒業までの三年は予定通りだ」
ミィナは俺の肩へ頭を載せた。
ツナも反対の肩へ顎を載せる。
「重い」
「どっちが?」
「答えたら森へ埋められそうだから黙る」
見張り小屋の陰から三つの気配がした。
赤い髪、銀色の髪、金色の髪が一瞬だけ引っ込む。
個別の話をしていても、完全な二人きりにする気はないらしい。
その時、森の奥で低い唸り声が響いた。
獣人たちの警鐘が連続して鳴る。
セナの声が夜の森を走った。
「全員、木の上へ退避しろ! 魔力喰らいが群れで来る!」
黒い管が地面の下で強く脈打つ。
昼より速い。
森から吸われた魔力に引かれ、何かがこちらへ近づいていた。
ミィナは俺の肩から頭を上げた。
伏せていた耳が立ち、闇の中で音の数と方向を拾う。
さっきまで故郷へ帰ることを怖がっていた少女の顔ではない。
七人と六体、それから境界の向こうにいる一族を順番に見る。
「東から七匹。大きいのが一匹いる」
族長候補の声で、ミィナが最初の指示を出した。
誰もその命令へ疑問を挟まなかった。




