3話 魔力「赤子レベル」の俺が合格するための唯一の抜け道
三日目の朝。俺はフラフラとリビングへ這い出し、テーブルに着いた。ミネルヴァさんはすでに優雅にモーニングティーを嗜みながら、新たな羊皮紙の束を置いた。
「今日は『一般教養』と『魔法生物学』を叩き込む」と、ミネルヴァさんは言い、危険生物スライムを例に挙げた。物理攻撃が無効で強酸性の消化液を持つスライムは、この世界では遭遇したら溶かされる猛獣であり、核を魔法で焼くか凍らせて砕くのが唯一の対処法だという。生存本能という最強のモチベーションに突き動かされ、俺はサバイバル知識をスポンジのように吸収していった。
それに、もう一つの動機があった。前の世界で、あと二ヶ月のところで届かなかった「卒業」というゴールだ。無遅刻無欠席を貫いてきた俺にとって、卒業証書をもらうことは唯一の誇りだった。ここで魔法学園に入学できれば、あのやり残したゴールをもう一度目指すことができる。
夕方。
ミネルヴァさんがペンを置いた。
アトリエの窓からは、夕焼けに染まる学園の巨大な尖塔が見える。
「よくついてきたな。正直、途中で脳が焼き切れるかと思ったぞ」
「俺もです。……でも、なんか久しぶりに充実してました」
俺は伸びをして、ポキポキと関節を鳴らした。
三日間。
本当に、文字通り寝る間も惜しんで勉強した。
結果が出るかはわからない。けれど、「やれるだけのことはやった」という手応えが、今の俺の背筋を伸ばしてくれている。
「アルト。これを持っていけ」
ミネルヴァさんが、引き出しから一本の棒を取り出した。
長さは三十センチほど。装飾のない、枯れ木のようなシンプルな杖だ。
「これは?」
「練習用の短杖だ。素材は安物の樫の木だが、素手よりはマナの通りが良いだろう。明日の実技試験で使え。お前のあの『極細の炎』を撃つなら、照準器代わりになるはずだ」
「いいんですか? これ、安物って言っても高そうだけど……」
「貸すだけだ。合格したら、初任給でいい杖を買って返せ」
彼女はぶっきらぼうに言ったが、その目が優しく笑っているのを俺は見逃さなかった。
この人は、口は悪いしスパルタだけど、本当にお人好しだ。
いつか絶対に、この恩は返さないといけない。
「ありがとうございます。……あの、ミネルヴァさん」
「なんだ」
「もし合格したら、その……学園に来てくれますか? 保護者参観とかあるかわかりませんけど」
俺の両親は前の世界だ。ここには身寄りがない。
だから、彼女が唯一の知り合いであり、恩師だ。
ミネルヴァさんはきょとんとして、それから吹き出した。
「保護者参観か! ククッ、面白いことを言う。……まあ、気が向いたらな。それより今は、明日に備えて寝ろ。睡眠不足で試験中に気絶した馬鹿者として歴史に名を残したくなければな」
「はい。おやすみなさい」
その夜、俺は泥のように深く眠った。
夢は見なかった。
***
***
【試験当日】
翌朝。快晴。
俺はアトリエの前でミネルヴァさんと別れた。
彼女は「野暮用がある」と言って、反対方向へ行ってしまった。試験会場まで送ってくれるかと思ったが、過保護にしないのが彼女の流儀らしい。
「行ってきます!」
俺は一人、学園への坂道を登った。
三日前、門前払いを食らったあの場所だ。
だが今日の景色は、あの日とはまるで違っていた。
正門前は、五百人以上の受験生でごった返していた。高そうなローブを着た貴族、巨大な杖を背負ったドワーフ、緊張している獣人の少女、透き通るような肌のエルフたち。彼らが発する魔力のオーラが、空気中で火花を散らしているように感じる。
対する俺は、前の世界から着ているヨレヨレのブレザーに、樫の木の杖一本。場違い感は否めないが、不思議と足は震えなかった。俺はただ、合格して卒業証書をもらうために来たんだ。
受付で紹介状を提示してスムーズに通り、会場の大講堂へ向かう。歴史を感じさせる石造りの大講堂には、有名な魔導師たちの肖像画がずらりと飾られ、独特の威圧感を放っていた。周囲の受験生たちは、お互いに牽制し合うように鋭い視線を交わしている。俺は指定された一番後ろの端っこの席に座り、深呼吸をした。
「これより、王立ルミナス魔法学園、入学試験を開始する!」
壇上に立った試験監督の厳めしい声が響き渡る。
最初の関門。筆記試験だ。
***
***
【筆記試験】
配られた問題用紙は、羊皮紙十枚に及ぶ分厚いものだった。
制限時間は九十分。
周囲から「うげっ」「こんな量、無理だろ……」というため息が漏れる。
俺は静かに羽ペンを手に取り、最初の一問目に目を落とした。
『問一:セフィロト創世神話において、世界樹がもたらした三つの恩恵を答えよ』
やったところだ。
俺の脳内で、ミネルヴァさんの怒声が再生される。
「違う! マナ、精霊、そして寿命だ! 食料じゃない!」というミネルヴァさんの怒声が脳裏に響いた。
俺は迷わずペンを走らせる。
『問五:以下の魔法陣の欠陥を指摘し、正しい術式に修正せよ』
図形問題だ。
複雑な幾何学模様が描かれているが、昨日ミネルヴァさんとやった通り、俺にはそれが「電気回路図」や「流体の配管図」に見える。
ここが断線している。ここ抵抗が大きすぎる。
論理的に考えれば、マナの流れが滞る場所は一目瞭然だ。
俺は定規も使わずに、フリーハンドで修正線を引いていく。
『問十五:森でポイズンスパイダーに噛まれた際の応急処置を記述せよ』
毒は酸性。だからアルカリ性の『解毒草』の根をすり潰して塗る。決して吸い出してはいけない、口内が爛れるから。
ミネルヴァさんが見せてくれた、グロテスクな写実画が脳裏をよぎる。
完璧だ。
回答がスラスラと出てくる。
周囲からは、カリカリというペンの音に混じって、焦りの気配が伝わってくる。
試験官の声と共に、俺はペンを置いた。
手応えはある。
満点とは言わないが、九割……いや、九割五分はいったはずだ。
少なくとも、筆記試験だけで言えば、俺は上位層に食い込んでいる。
だが、本当の地獄はここからだった。
***
***
【実技試験】
昼休憩を挟んで、午後。
受験生たちは屋外の闘技場へと移動した。
すり鉢状の観客席には、在校生や教師らしき人影も見え、異様な熱気に包まれている。
実技試験の内容はシンプルだった。
闘技場の中央に設置された「魔法吸収人形」に向かって、各自が得意な魔法を放つ。
その威力、精度、そして属性によって採点される。
「受験番号001番!」
トップバッターは、金髪の貴族風の少年だった。
彼は自信満々に前に出ると、宝石のついた杖を掲げた。
「我が名はイグニス! 焼き尽くせ、フレア・バースト!!」
ドォォォォン!!
彼が詠唱と共に杖を振ると、巨大な火球が生まれ、ダミーに着弾して大爆発を起こした。
熱風が観客席まで届く。
ダミーは黒焦げになり、一部が溶けている。
「おおっ!」
「いきなり上級魔法か!」
「さすがは名門、バーンシュタイン家の嫡男だ」
会場がどよめく。試験官も満足そうに頷き、手元の用紙に何かを書き込んでいる。
その後も、天才たちのオンパレードだった。
雷を落とす者。氷の槍を十本同時に放つ者。地面を隆起させてダミーを押し潰す者。
ここは怪獣大決戦の会場か何かか?
俺は列の後ろで、胃が痛くなるのを耐えていた。
いや、比べてはいけない。俺の目的は「勝利」ではなく「合格」だ。
足切りはない。0点でなければいい。
「次、受験番号486番! カザハヤ・アルト!」
ついに、俺の名前が呼ばれた。
俺は震える足を叱咤し、闘技場の中央へと進み出た。
視線。
数百人の視線が、俺に突き刺さる。
そして、そのほとんどが「誰だあいつ?」「魔力を全然感じないぞ」という疑問と侮蔑の色を含んでいた。
俺はダミーの前に立った。
俺は人形の前に立ち、樫の木の杖を構えた。
「……始め!」
俺は目を閉じ、深呼吸をした。俺には彼らのような膨大な魔力はない。できるのは、あの一点突破のみだ。
イメージしろ。ミネルヴァさんの手が腹に触れていた時の、あの熱。タンクの水量はコップ一杯だが、出口を針の穴より小さく絞り、圧力を極限まで高めれば、鉄をも溶かす熱線になる。マナを流体として捉え、無理やり一本の極細の回路に押し込む。流体の流速を極限まで高めるイメージだ。
「……出ろ!」
ヒュッ。
爆発音ではない、空気を切り裂くような極細の風切り音。杖の先から放たれたのは、長さ数センチほどの青白い針のような炎だった。それは一直線に飛び、人形の胸元へと吸い込まれた。
それだけだった。爆発も起きず、人形は倒れることもなくただ立っている。やがて、クスクスという失笑が波紋のように広がっていった。
「……終了」
試験官が呆れたように告げ、俺は一礼してその場を去ろうとした。その時、試験官たちが人形に近づいて目を見開いた。
「おい、これを見ろ。胸部装甲に、極小の穴が開いているぞ」
「ただ、針を通したように綺麗に貫通している。位置も完璧だ。そして内部の魔導回路が熱で溶け落ちているな」
「破壊力評価は1点だが、この魔力制御評価は……」
試験官たちがボソボソと話し合っているが、観客席には「ショボい魔法で失敗した落ちこぼれ」としか映っていない。俺は肩を落とし、待機列へと戻った。
***
聞き覚えのある声。
顔を上げると、いつの間にか横にミネルヴァさんが立っていた。
ただし、いつものラフな格好ではない。
黒いローブを纏い、胸元には学園の紋章が入ったバッジをつけている。なんだか、すごく「ちゃんとした魔法使い」に見える。
「ミネルヴァさん!? どうしてここに? 関係者以外は立ち入り禁止じゃ……」
「シーッ。声が大きい」
彼女は人差し指を口元に当て、ウィンクした。
「少しコネがあってな。……見ていたぞ、お前の実技」
「……あはは、見られちゃいましたか」
俺は力なく笑った。
「笑われましたよ。豆粒みたいな炎だって」
「そうだな。派手さは皆無だった。あんな地味な魔法、ここ十年で初めて見た」
彼女は淡々と言った。
やっぱり、ダメだったか。
俺が俯きかけた時、彼女の手がポンと俺の頭に乗った。
「だが、狙いは完璧だった。あのダミーの装甲を一点突破で貫いたのは、今日はお前だけだ。……私の教えをよく体現したな」
「……え?」
「威力はない。範囲も狭い。だが、お前は自分の手持ちのカードで、最適解を選んだ。……私は、嫌いじゃないぞ」
その言葉だけで、胸のつかえが少し取れた気がした。
結果はどうあれ、この師匠だけは認めてくれた。それだけで十分だ。
その時、講堂の照明が落ちた。
壇上にスポットライトが当たり、一人の老人が現れた。
長い白ひげ。三角帽子。絵に描いたような「学園長」だ。
「これより、第百五期、入学試験の合格者を発表する!」
ざわめきが消え、張り詰めた静寂が場を支配する。
壇上の巨大な水晶板が光り輝き、そこに文字が浮かび上がり始めた。
合格者の受験番号。
上から順に、成績優秀者の番号が羅列されていく。
001番、045番、102番……。
会場のあちこちから、「やった!」「あったぞ!」という歓声が上がる。
俺の番号は、486番。
真ん中あたりにはない。下の方か?
スクロールしていく文字を目で追う。
ない。ない。ない。
もう、リストの最後だ。
……落ちた、か。
目の前が暗くなった。
やはり、筆記だけじゃダメだったんだ。
俺はガクリと項垂れ、席を立とうとした。
その時。
「続いて、特別枠の発表を行う!」
学園長の声が響いた。
水晶板の表示が切り替わる。
そこには6つの番号が表示されていた。
その一番下に、見慣れた数字があった。
そこには、俺の受験番号である四八六番が確かに刻まれていた。
「……え?」
俺は目をこすった。
幻覚じゃない。間違いなく、俺の番号だ。
「あ、あった……」
全身の力が抜け、その場にへたり込む。
合格。特別枠だろうがなんだろうが、合格は合格だ。
「……ふん。心臓に悪い受かり方をしおって」
隣でミネルヴァさんが呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟いた。
「おめでとう、アルト。これでお前は、今日からルミナス魔法学園の生徒だ。……私直轄の『特別クラス』のな」
「特別クラス……?」
俺が首を傾げると、ミネルヴァさんはニヤリと、獲物を狙う肉食獣のように口角を吊り上げた。
「通称『掃き溜めのFクラス』。落ちこぼれと問題児だけを集めた、学園の最底辺だ。……安心しろ。私がたっぷりしごいてやる」
平穏な学園生活への切符を手に入れたはずが、なぜか背筋に強烈な悪寒が走った。
俺の異世界生活は、どうやらそう簡単にはいかないらしい。




