2話 異世界の歴史を三日で詰め込むハメになった
「……試験は三日後だ。今は準備期間中で、学園内は封鎖されている」
森の出口、ルミナス魔法学園の巨大な正門前。
ミネルヴァさんから告げられた非情な現実に、俺の思考は完全に停止していた。
「な、なんですかそれ……聞いてないですよ」
「誰も今日から入れるとは言っていないだろう。『合格すれば』の話だ」
夕暮れの冷たい風が、俺のブレザーを吹き抜けていく。
全寮制だと聞いていたから、今日から屋根のある部屋で眠れて、温かいご飯が食べられると信じ切っていた。
だが現実は、門前払い。金なし、宿なし、身分なし。
振り返れば、ついさっきまで迷っていた鬱蒼とした森が、暗い口を開けて俺を待っている。
「さて、どうする? 試験までの三日間、その辺の路地裏で野宿でもするか? 最近は夜になると治安が悪くてな。夜盗は容赦なく身ぐるみを剥ぐし、運が悪ければスラムのゴロツキに臓器を抜かれるぞ」
脅しではない口調が、余計に怖い。
俺は頭を抱えた。この世界が、平和ボケした現代の高校生がソロで生き抜けるほど甘くないことは、思い知ったばかりだ。ここで見捨てられたら、異世界サバイバル・ホームレス編が始まってしまう。下手をすれば第二話で俺の人生は終了だ。
俺はちっぽけなプライドをかなぐり捨て、その場に崩れ落ちるように頭を下げた。
日本のサラリーマンが憑依したかのような、完璧なフォームのジャンピング土下座だった。
「……ミネルヴァさん。慈悲深く、そして誰よりもお美しいエルフの賢者様」
「なんだ、急に揉み手をして」
「助けてください。この通りです! 三日間だけでいいんです。雨風をしのげる場所を貸してください! 掃除でも洗濯でもなんでもします! 肩も揉みますし、靴も磨きますから!」
地面に額を擦りつけながら、必死に懇願する。なりふり構っている場合ではない。
ミネルヴァさんは俺のみっともない姿をしばらく見下ろしていたが、やがて「ふっ」と吹き出した。
「くっ、あはははは! よい心がけだ。プライドの高さだけが一丁前な貴族のガキより、よっぽど見込みがある。……ついてこい。私の『アトリエ』が街の隅にある。三日間だけなら置いてやる」
俺はバッと顔を上げ、女神を見るような目で彼女を拝んだ。
ありがとう、エルフ。ありがとう、ファンタジー世界。
***
ミネルヴァさんのアトリエは、学園都市の裏路地にひっそりと建つ、古びたレンガ造りの三階建てだった。
一階は埃っぽい倉庫になっており、二階が彼女の居住スペースと研究室を兼ねているらしい。
「適当に座れ。茶くらいは出してやる」
部屋の中は、控えめに言って「魔境」だった。
床には羊皮紙の束が散乱し、机の上には得体の知れない虹色の液体の入ったフラスコや、干からびたトカゲの尻尾。壁一面を埋め尽くす大量の魔導書。
彼女がただの旅人ではなく、相当に研究熱心な魔法使いであることが伺える。
「あ、ありがとうございます……」
俺が窮屈そうにソファの端に座ると、ミネルヴァさんは「ふぅ」と大きく息を吐きながら、着ていたローブのボタンに手をかけた。
「あー、やっぱり外歩き用の服は肩が凝るな」
バサリ、と重たげなローブが床に投げ捨てられる。
その下から現れた姿に、俺は思わず持っていたティーカップを落としそうになった。
ローブの下に着ていたのは、薄手のキャミソール一枚と、丈の短いショートパンツという、あまりにも無防備な部屋着だったのだ。
「ぶっ……! ちょ、ミネルヴァさん!?」
「ん? どうした。そんなに顔を赤くして」
どうしたじゃない。
彼女が首の後ろで髪を束ねるたび、豊かな胸の谷間がキャミソールからこぼれそうになっている。細く引き締まったウエストから、すらりと伸びた白い太もも。エルフ特有の神秘的な美貌と、だらしない部屋着というギャップが、健康な男子高校生の視覚にダイレクトなダメージを与えてくる。
「いや、あの……男の前でその格好は、ちょっと無防備すぎませんか」
「何を言っている。お主のようなひよっこを男として意識するわけがなかろう。それに、ここは私の家だぞ。嫌なら出て行ってもいいんだが?」
「す、すみません、俺が間違ってました! そのままで全く問題ありません!」
これ以上文句を言って追い出されたらたまらない。俺は視線を必死にテーブルの木目へと固定した。
ミネルヴァさんは湯気の立つカップを置き、俺の向かいに座った。ふわりと甘いハーブの香りが漂い、理性を揺さぶる。
「さて、アルトよ。状況を整理しよう」
彼女の瞳が、先ほどまでのふざけた色から、教師のような真剣な光へと変わった。
「お主の目標は『学園に入学し、衣食住を確保すること』。だが現状、お主の魔力はゴミ以下だ。まともに魔法を撃ち合えば、お主は一秒で消し炭になるぞ」
「厳しい現実ですね……。なんとしてでも、あそこに入らないと」
「そうだな。そこでだ。ルミナス魔法学園の試験には抜け道がある。配点は実技が五割、筆記が五割だ。そして実技試験には『足切り』がない。つまり、どんなに無様な魔法を見せても、マイナス点にはならん。筆記試験で満点を取れば、合計点で合格ラインの最下層に引っかかる可能性がある」
筆記満点。その言葉に、俺の死にかけていた瞳に光が戻った。
「出題範囲は?」
「魔法史、魔法理論、薬学基礎、そして一般教養だ。魔法使いを目指す者が幼少期から学ぶ十年分の内容を、お主は三日で詰め込まねばならんが。諦めるか?」
「やります。俺、前の世界では受験生だったんです。座学と暗記なら、誰にも負けない自信があります。異世界の偏差値の化け物を見せてやりますよ」
「ほう、いい目だ。……よし、乗りかかった船だ。私が家庭教師をしてやろう。宿代代わりだ」
そう言って、ミネルヴァさんは本棚から分厚い本を三冊抜き出し、ドンッ! とテーブルに積み上げた。
『はじめての魔導』『セフィロト歴史大全』『薬草100選』。
「死ぬ気で覚えろ。寝る間も惜しめ。合格したければな」
***
【一日目】
「違う! 初代国王が建国を宣言したのは『星降る夜』だ! 『月隠れの夜』はその五十年後の大厄災だ! 何度間違えれば気が済む!」
スパーン! と、丸めた羊皮紙が俺の頭にクリーンヒットする。
「すみません!」
俺は涙目になりながら、必死にノートにペンを走らせる。
異世界の歴史は、想像以上に複雑怪奇だった。年号の代わりに「星暦」という独特の数え方が使われており、星の配置によって時代が変わるため、「赤竜座の時代」とか、西暦のような規則性がない。
「おい、アルト。この『大賢者アインズベルン・フォン・シュバルツ・ローゼンクロイツ』の功績を三つ言ってみろ」
「名前なげぇよ!」
「口答えするな、覚えろ!」
ミネルヴァさんは容赦がない。だが、俺にも武器があった。
日本の受験戦争で培った、「テストに出るポイントを見抜く嗅覚」と、最強の暗記術である語呂合わせだ。
「えっと、『愛するシュウマイ、露店で食う』だから……功績は『転移魔法の確立』『王都結界の構築』、あと一つは『エルフ族との和平条約締結』です!」
「……正解だ。なぜ『シュウマイ』と呟いたのかは知らんがな」
ミネルヴァさんは怪訝な顔をしつつも、次々と問題を出す。
会話だけは、なぜか日本語と同じように通じる。だが、羊皮紙に並ぶ大陸共通文字は全くの別物だった。
初日に文字表を丸暗記し、今は一文字ずつ頭の中で日本語へ置き換えながら読んでいる。目も頭も痛くなるが、現代の日本史や英単語を数千語覚える苦行に比べれば、まだ耐えられた。
「……ほう。中々やるな」
夕食の時間。ミネルヴァさんが用意してくれたシチューを啜りながら、彼女が感心したように言った。
「お主、知識を体系化して紐付けるのが異常に上手いな」
「前の世界で、こればっかりやってましたから。生きるか死ぬかだと思えば、人間なんでも脳に叩き込めるもんですね」
「ふん。その意気だ。だが、明日は実技の対策もするぞ。魔法学園に入るのに『魔法が一回も使えません』では、入学後に間違いなくいじめられる。最低限、『私は魔法使いです』という顔ができる程度のハッタリは身につけておくべきだ」
「……ごもっともです」
***
【二日目】
二日目の朝。俺たちはアトリエの裏庭にいた。
朝の冷たい空気が、睡眠不足の頭をシャキッとさせる。
「いいかアルト。魔法とはイメージだ。自分の中にあるマナを感じ取り、それを血管のように巡らせ、指先という放出口へ誘導する」
ミネルヴァさんが手本を見せてくれる。
彼女が人差し指を立てると、そこにボッ! とテニスボール大の火の玉が現れた。
「お主の場合、マナの総量が極端に少ない。だから、放出する口を極限まで細くして、内圧を上げるイメージを持て」
「ホース……水圧……」
俺は目を閉じて集中しようとするが、どうもうまくいかない。どうしても「魔法」というオカルトチックな概念に、現代人の脳がストップをかけてしまうのだ。
「……力みすぎだ。もっと体の力を抜け。ほら」
不意に、背後から柔らかい感触が俺の背中に密着した。
ミネルヴァさんが俺の後ろに立ち、両腕を回して俺の下腹部にある丹田のあたりに両手をぴったりと押し当ててきたのだ。
「ひゃっ!?」
「変な声を出すな。ここに意識を集中させろ。人間の魔力の源はここにある」
耳元で囁かれる甘い声。吐息が耳にかかり、背中には彼女の豊かな胸の感触がはっきりと伝わってくる。
「み、ミネルヴァさん……近い、です……」
「馬鹿者、邪念を捨てるんだ。私の手のひらの奥にある、小さな熱だ。それを見つけろ」
「は、はい……ッ」
俺は必死に深呼吸をし、燃え上がりそうになる男子高校生の煩悩を強引に押さえつけた。
集中しろ。腹の奥にある熱源。豆粒のような、微かな温かさ。これか。
「よし、見つけたな。それを全身の回路に通して、指先へ集めろ」
彼女の手が俺の右手首をそっと握る。
俺は前の世界の物理法則を総動員した。
マナを流体として捉え、ベルヌーイの定理を応用する。流体は狭いところを通る時、流速が上がり、圧力は下がる。
全身の毛穴から漏れ出そうとするマナを、無理やり一本の極細の回路に押し込む。圧力を高め、一点に集中させる。
「……出ろ!」
プシュッ……!
ガスの抜けるような音と共に、俺の人差し指の先に、青白い光が灯った。それは、ライターの種火ほど小さく、けれどガスバーナーの先端のように鋭く尖った炎だった。
「はぁ、はぁ……で、できた……!」
全身からどっと汗が噴き出す。たったこれだけの炎を出すのに、全力疾走した後のような疲労感だ。
「……ほう」
ミネルヴァさんが俺から身を離し、目を見開いて俺の指先を凝視していた。
「驚いたな。魔力量は相変わらずゴミ同然だが……今の圧縮率はなんだ? あんな微量なマナで、これほどの密度を維持するとは」
「無駄遣いできない貧乏性なんで……効率と物理法則を重視しました」
「……面白い。お主のそれは、小さいが異様に鋭いな。出力は低いが燃費は最高だ。これなら、初級魔法を一発くらいは撃てるかもしれん」
「一発だけですか? 容量的に、二発撃てば魔力枯渇で気絶しそうですね」
「そうだな。だから本番では『一撃必殺』のつもりで撃て。外したら後がないと思え」
シビアな現実だ。俺はため息をつきつつも、指先の小さな青い炎を見つめた。これなら実技試験で最低限のハッタリはきく。
「よし、感覚を忘れるなよ。次は応用だ。その炎を維持したまま、計算問題を解いてもらうぞ」
「えっ、マルチタスクですか!?」
「試験中は何が起きるかわからんからな。集中力を鍛えるんだ。ほら、初代国王の好物は?」
「えっと、えっと……ドラゴンステーキ!」
「正解。次!」
鬼教官ミネルヴァさんのしごきは、日が暮れるまで続いた。
限界を遥かに超えた疲労の中、俺は明日への不安と期待を抱きながら、泥のような眠りへと落ちていった。




