1話 進路希望調査は白紙で出したけれど
一月、センター試験直前の朝。
張り詰めた冷気が、ブレザーの繊維を通り越して肌を刺す。
俺、風早歩瑠斗は、通学路の赤信号で白い息を吐きながら、ポケットの中で冷え切った手を握りしめていた。
周囲は参考書を読みながら歩く受験生ばかりだというのに、俺の頭の中を占めていたのは、今日の放課後に購買で買う予定の焼きそばパンのことだけだった。
将来の夢? 特にない。
行きたい大学? E判定が出ないところならどこでも。
俺は昔から、物語の主人公になりたいと思ったことがない。
世界を救う勇者も、誰かと熱烈な恋に落ちる悲劇のヒーローも、画面の中で見ているだけで十分だ。自分がやるには、あまりにコストパフォーマンスが悪すぎる。
適度に勉強し、適度に遊び、波風立てずに生きていく。それが、風早歩瑠斗という人間の生存戦略だった。
信号が青に変わる。
一歩踏み出した、その時だった。
キキーッ!! という鼓膜を引き裂くようなブレーキ音。
視界の端で、凍結した路面に足を取られ、制御を失ったトラックがこちらへ滑り込んでくるのが見えた。
スローモーションのような景色の中で、俺は冷静に思った。
あ、これ死んだな。
恐怖よりも先に、諦めが来た。走馬灯すら流れない薄い人生だ。ただ、一つだけ心喜びというか、心残りがあるとすれば。
あと二ヶ月で卒業式だったのに……。
小・中・高と、馬鹿みたいに無遅刻無欠席を貫いてきたのだ。
目立つ成績を残せたわけでもない。部活で表彰されたわけでもない。そんな俺にとって「皆勤賞で卒業証書をもらうこと」は、唯一の誇りになるはずだった。
ドンッ、と世界が反転し、強烈な衝撃と共に俺の意識は唐突にブラックアウトした。
***
ピッ、ピッ、という鳥のさえずりで目が覚めた。
目覚まし時計の電子音ではない。本物の鳥の声だ。
「……ん、ぅ……」
体を起こすと、背中から枯れ葉がパラパラと落ちた。
アスファルトの硬い感触ではなく、ふかふかとした土の感触。俺は目をこすり、周囲を見渡した。
「……ここ、どこだ?」
見渡す限りの森だった。
ただし、近所の公園や裏山とはわけが違う。見上げれば、首が痛くなるほど巨大な樹木が空を覆っている。その幹の太さは家一軒分ほどもありそうだ。木漏れ日の隙間から覗く空は、不自然なほど鮮やかな群青色だった。
俺は自分の体をぺたぺたと触って確認する。
手足はある。痛みもない。血も出ていない。
服装は、今朝家を出た時のまま。紺色のブレザー、チェックのズボン、履き慣れたローファー。傍らには通学カバンが転がっている。
「夢、だよな……?」
俺は立ち上がり、頬をつねってみた。
痛い。
夢にしては感覚がリアルすぎるし、空気の匂いが濃すぎる。土と緑の匂いに混じって、どこか甘い花の香りが漂っている。
カバンを開けて中身を確認する。
教科書、ノート、筆記用具。財布の中には千円札が一枚と、小銭が数百円。それと、駅前のラーメン屋のポイントカード。
どれもこれも、この大自然の中では無意味なガラクタばかりだ。
「スマホは……圏外か。そもそも電源が入らない」
画面が真っ暗なスマートフォンをポケットにしまい込み、俺はため息をついた。
じっとしていても始まらない。ここがどこかの山奥だとしても、道を見つけて下れば、そのうち民家かコンビニくらいは見つかるだろう。
そう思って歩き始めた俺の期待は、三十分もしないうちに裏切られた。
見たことのない植物が生えているのだ。
どう見ても発光しているキノコや、意思があるようにウネウネと動くツル。
極めつけは、空を横切っていった影だ。
鳥ではない。翼の生えた巨大なトカゲ。どう見てもファンタジー作品でお馴染みのドラゴンだった。
「はい、確定」
「異世界転移だこれ」
ラノベやアニメで見たやつだ。トラックに撥ねられて、気づいたら異世界。
王道すぎる。テンプレだ。
だが、俺には特典らしきものが何もなかった。ステータス画面も出ないし、神様からのメッセージもない。頭の中に声が響き渡ることもない。剣も魔法も持っていない。ただの男子高校生が、制服のまま放り出されただけだ。
「どうしろってんだよ……」
空腹を感じ始めていた。
購買の焼きそばパンが恋しい。このまま誰にも会えず、謎の植物を食べて腹を壊すか、さっきのドラゴンに食べられて終わるのか。
ひっそりと死ぬのは、前世の交通事故だけで十分だ。こんなワケの分からない場所で、誰にも気づかれずに野垂れ死ぬなんてご免だ。
そんなネガティブな想像をし始めた時だった。
ガラガラガラ……と、車輪が土を踏む音が聞こえた。
「音!?」
俺は弾かれたように顔を上げた。
音のする方へ藪をかき分けて走る。そこには、舗装はされていないが、確かに人の手で作られた街道があった。そして、一台の馬車がゆっくりと通りかかるところだった。
馬車だ。ただし、引いているのは馬ではない。ダチョウを巨大化させたような、二本足の巨大な鳥だ。
「おーい! 頼む、止まってくれ!!」
俺はなりふり構わず手を振って飛び出した。
御者台に座っていた人物が、驚いたように手綱を引く。
「おっと。どうどう」
鳥型の生物が足を止める。
御者台から顔を覗かせたのは、ローブを深く被った人物だった。フードの下から、長い金髪と、先端の尖った耳が見える。
エルフだ。本当にファンタジー世界に来てしまったらしい。
言葉は通じるだろうか。
俺は緊張しながら、できるだけゆっくりと日本語で話しかけた。
「すみません、道に迷ってしまって。近くに町はありますか?」
相手がキョトンとしたら、身振り手振りで伝えるしかない。そう覚悟を決めていたが、返ってきたのは流暢な日本語だった。
「なんだ、迷子か? 珍しい格好をしているな」
「……えっ、言葉、わかるんですか?」
「は? 何を言っている。お主が喋っているのは大陸共通語だろう?」
大陸共通語。それが日本語と同じ発音らしい。
ご都合主義万歳。これならなんとかなるかもしれない。
「俺、アルトっていいます。気づいたら森の中にいて……家も金もなくて、途方に暮れてたんです」
「ふむ……」
二十代くらいに見えるエルフの女性は、俺を値踏みするようにじろじろと観察した。
怪しい奴だと思われただろうか。彼女は俺の胸元あたりに視線を留めると、不思議そうに眉をひそめた。
「お主、マナの乱れを感じるが……ひどく不安定だな。ちょっとこれを持ってみろ」
彼女は懐から、ガラス玉のような小さな魔道具を取り出し、俺に放り投げた。
慌ててキャッチする。
「それに魔力を流し込んでみろ。……ああ、無意識でも触れていれば多少は光るはずだ」
俺は言われた通りにガラス玉を見つめた。
力を込める、と言われてもやり方がわからない。とりあえず念じてみるが、ガラス玉の中心で、ホタルの光よりも弱い、チカッという小さな瞬きがあっただけだった。
「……うん、やはりな」
「何か分かったんですか?」
「お主の魔力量だ。控えめに言って、赤子レベルだな。自覚はないのか?」
「魔力? 俺にですか? いや、そもそも今日初めてそういうのがあると知ったくらいで……」
「まあ、その程度の量なら日常生活で火を熾すくらいはできるかもしれんが……魔法使いとして大成するのは無理だな。平民の中でもかなり少ない部類だぞ」
どうやら俺には、ほんの少しだけ魔力があるらしい。
けれど「赤子レベル」で「大成するのは無理」。
つまり、チート能力はないということだ。
俺は少しホッとした。
変に強大な力を持って勇者に祭り上げられ、魔王討伐なんて命懸けのミッションを押し付けられるより、一般人として扱われる方が性に合っている。俺が望むのは平穏な人生であって、波瀾万丈な英雄譚ではないのだ。
「あの、もしよかったら、人がいるところまで乗せてもらえませんか? お礼は……この世界で価値があるかわかりませんが、これくらいしか」
俺は財布から、ラーメン屋のポイントカードを差し出した。
あとスタンプ一個で餃子が無料になる、俺の全財産だ。
彼女はそれを見て、ポカンとした後、くすくすと笑い出した。
「ふふっ、なんだそれは。紙切れ一枚で交渉とは、いい度胸だ。まあいい、乗りな。どのみち『学園都市』へ戻るところだったんだ」
「学園都市?」
「ああ。王立ルミナス魔法学園がある街さ。ここから馬車で一時間ほどだ」
俺は御者台の隣に座らせてもらった。
馬車が動き出す。揺れる景色を眺めながら、俺はミネルヴァさんと名乗った彼女からこの世界についての情報を集めた。
ここが「セフィロト」という世界であること。魔法は誰でも使えるが、まともに扱うには訓練と才能が必要なこと。
そして、これから向かう「王立ルミナス魔法学園」は、大陸中から優秀な若者が集まる超名門校だという。
「名門校……俺みたいな平民……いや、身分証すらない奴でも入れるんですか?」
「入学試験さえ突破できればな。ルミナスは実力至上主義だ。身分は問わん」
ミネルヴァさんは手綱を握りながら答えた。
「衣食住完備の全寮制だ。学生食堂は食べ放題だし、寮は個室。金のない苦学生のために、給付型の奨学金制度もある」
「全寮制……飯も出るんですか?」
「ああ。首席クラスになれば、王宮お抱えのシェフが作るコース料理が毎晩食えるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがカチリとハマった。
俺は今、無一文だ。家もない。知り合いもいない。
日雇いの仕事を探すにしても、身分証がないから怪しまれるだろう。野宿をすれば、さっきのドラゴンや巨大猪の餌食だ。
だが、学生になれば。
屋根のある部屋で眠れて、三食飯が食える。
しかも、俺は「高校生」だ。
前の世界でやり残したこと。あと少しで届かなかった「卒業」というゴール。
皆勤賞は無理かもしれない。けれど、ここでなら、その「卒業証書」を手に入れることができるんじゃないか?
「ミネルヴァさん。俺、その学園を受けたいです」
「ほう? 魔法使いになりたいのか? お主のその微弱な魔力で?」
「いいえ」
俺は即答した。
「俺はただ、雨風をしのげる安全な場所と、三食の飯と……卒業証書が欲しいだけです」
「……はっ、変わった男だ」
ミネルヴァさんは呆れたように笑ったが、嫌な顔はしなかった。
「いいだろう。町に着いたら願書の手配くらいはしてやる。実技は絶望的だが……筆記で満点を取れば、補欠合格くらいはできるかもしれんからな。その代わり、落ちても泣くなよ」
「ありがとうございます!」
馬車に揺られること一時間。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
そこにあったのは、巨大な城壁に囲まれた白亜の都市だった。
中央には、天を衝くような高い尖塔を持つ校舎がそびえ立っている。その周囲を、小さな光や、空飛ぶ絨毯のようなものが行き交っていた。
「すげぇ……」
ファンタジー映画のセットじゃない。
あそこで、人々が生活し、学び、生きているのだ。
馬車は城門をくぐり、賑やかな大通りを進んでいく。
屋台から漂うスパイスの香り。見たことのない果物。犬の耳を持つ獣人や、背の低いドワーフたちが談笑しながら歩いている。
そして、俺たちはついに、その場所へとたどり着いた。
王立ルミナス魔法学園、正門。
見上げるほど巨大な鉄の門扉には、剣と杖が交差した紋章が刻まれている。
門の奥には、美しく手入れされた庭園と、歴史を感じさせる石造りの校舎見える。
「着いたぞ。ここがルミナス魔法学園だ」
ミネルヴァさんが馬車を止めた。
俺は胸の高鳴りを抑えきれず、御者台から飛び降りた。
ここが、俺の新しい戦場だ。
魔王を倒すためでも、世界を救うためでもない。
ただ平穏に生き延び、今度こそ「卒業証書」を勝ち取るための場所。
今日からあの寮に入って、温かいベッドで眠るんだ。
「ミネルヴァさん、ここまで本当にありがとうございました。俺、絶対に入学してみせます!」
俺が深々と頭を下げると、ミネルヴァさんは腕を組んで、フッと意地悪な笑みを浮かべた。
「威勢がいいのは結構だが……アルトよ。お前、今夜はどうするつもりだ?」
「え? どうするって……今日からここの寮に入るんじゃないんですか?」
「馬鹿を言え。試験も受けていない馬の骨を泊めるほど、ルミナスは甘くない」
「……はい?」
「試験は三日後だ。今は試験準備期間中で、学園内は封鎖されている」
三日後。
その単語に、俺の思考はピタリと停止した。
「えっと……じゃあ、俺の今夜の寝床は……」
「金なし、宿なし、身分なし。試験までの三日間、その辺の路地裏で野宿でもするか? 最近は夜になると治安が悪いぞ。人攫いやら何やらが出るらしいし、夜盗は容赦なく身ぐるみを剥ぐからな」
彼女は脅しではない口調で、淡々と現実を突きつけてきた。
俺は崩れ落ちそうになる膝を必死に堪え、目の前の壮麗な学園を見上げた。
俺の異世界サバイバルは、まだ始まったばかりらしい。
お読みいただきありがとうございます。
ららさーどと申します。
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今後ともよろしくお願いします。




