28話 鏡よ鏡よ余計なものまで映すな
二年生の制服へようやく体が馴染んだ頃、生徒会から黒い封筒が届いた。
入学第三百五十五日。
授業が始まって二十五日。俺たちは地下へ続く扉を三つ通り、鍵を七本開け、第七資料室へ連れてこられた。
鏡一枚を見るだけなのに、宝物庫へ泥棒に入るような手順だった。
「封筒には、鏡を見るとしか書いてありませんでした」
ノアの問いへ、ヴィクトリア会長は最後の鍵を回しながら答えた。
「ただの鏡なら、生徒会で封印しない」
部屋の中央には、黒い布をかけられた姿見があった。
高さは二メートルほどあり、縁には世界樹の枝と八枚の葉が彫られている。
誰も使っていないはずなのに、鏡の前だけ埃がなかった。
「これは真実の鏡と呼ばれている。ただし名前ほど親切ではない」
「真実を映すんじゃないの?」
カイルが黒い布の端を覗き込む。
「今の選択から生まれる未来を映す。問題は、一つに決めてくれないことだ」
ヴィクトリア会長が黒い布を外す。
銀色の面は、目の前の部屋を何も映していなかった。
ナビを近づけても、銀色の案内板さえ出てこない。アリエスが手を振っても、向こう側には手どころか赤い髪一本映らなかった。
普通の鏡へ息を吹きかければ水蒸気で曇る。この面には白い跡一つ残らない。
鏡という名前だけを信じるなら、ツナだって空を飛ぶ立派な魚だ。
硝子かどうかから疑った方がよさそうだった。
「言葉より見た方が早い」
会長が先に鏡の前へ立つ。
銀色の面へ、十年ほど後の生徒会室が映った。
未来の会長は教員章をつけ、今より厚い書類の山と戦っていた。
紙の山が崩れ、映像まで白く埋まる。
次に現れた会長は、大陸を巡る馬車の御者台へ座っていた。剣を腰へ下げ、学園の制服は着ていない。
その景色も消え、今度は王城の会議室になった。
机へ突っ伏した会長の横には、徹夜七日目という札が立っている。
「最後のは悪い未来ですね」
「最初も似たようなものだ」
会長は無表情だが、書類の山から目を逸らした。
胸の生徒会章を外す。
三つの映像が消え、雪山で竜を追う会長と、港で魚を売る会長が現れた。
章を戻すと、また教員室へ戻る。
「章を外しただけで?」
「外す時に、学園へ残らない道を考えた。鏡は小さな選択を大げさに広げる」
気温や風向きを少しずつ変え、何通りもの明日を計算する天気予報がある。
半分が雨で、半分が晴れ。
そう言われても、最後に傘を持つか決めるのは本人だ。
一つだけを当たる未来だと思うより、どの計算にも残る雲を探す方が役に立つ。
困ったことに、この鏡は起こりやすい順へ並べてくれない。
今なら絶対に選ばない未来まで、本命と同じ顔で映してくる。
「見たことで本人の選択が変われば、未来も変わる。証拠にも命令にも使えない」
「それなら、何を確認するんですか?」
「世界樹の学籍簿に記録がない者も、未来へ存在できるかどうかだ」
会長の視線が俺へ向く。
第零層の報告を受け、学園長とヴィクトリア会長が古い資料を調べた。異世界人の卒業印を直した記録は見つからなかった。
代わりに、この鏡だけが学籍簿を通さず人の可能性を読むという。
「俺が何にも映らなかったら?」
「世界樹の記録とは別の問題がある。先に七人を映し、最後に君を試す」
何通りも映ると聞いた後でも、何もないよりはましだと思った。
***
最初はグレイだった。
銀色の面に、小さな診療所が現れる。
白衣を着た未来のグレイが、薬草をすり潰していた。隣には大きな温室があり、見たことのない花が並んでいる。
「僕の店かな」
扉が開き、患者らしい老人が入ってくる。
未来のグレイは老人より先に、肩へ止まった珍しい虫を瓶へ入れた。
老人が怒って帰った。
「治療する相手を間違えてる」
「興味深い虫だったんだよ」
「未来まで同じ言い訳をするな」
映像が揺れる。
次のグレイは旅商人になり、荷車いっぱいの解毒薬を売っていた。看板には三王国出入り禁止と書かれている。
三つ目では学園の薬草園を管理していたが、立入禁止の柵の中から生徒を追い払っていた。
「どれが本物?」
ミィナの耳が左右へ傾く。
「全部、今の僕なら選びそうで困るね」
少なくとも薬草だけは、どの未来でも手放していない。
次はカイルとエリスが並んだ。
一つ目の未来では、カイルが王国軍の飛行隊を率いていた。
大人になったホークが空を飛び、その下でカイルは金属弾を百発続けて的へ当てる。
観客は歓声を上げた。
ただし隣にエリスはいない。
机の引き出しには、封を切っていない手紙が何十通も積まれていた。
差出人は全部エリスだった。
「これは嫌だな」
カイルがすぐに言った。
映像が変わる。
今度は山の救護所だった。エリスが防護膜を屋根の代わりに広げ、カイルが吹雪の中から怪我人を運んでくる。
二人は同じ部屋にいるが、食卓の上には退職届が二枚ある。
三つ目ではエリスが町の防災隊長で、カイルは隣町の射撃教師だった。二人の間をホークが手紙を運んでいる。
「一緒になったり離れたり、忙しいですね」
「鏡に決めてもらうことじゃないよ」
カイルはそう言って、隣にいるエリスの手を握った。
エリスも離さない。
「今の選択だけは、はっきりしています」
鏡より本人たちの方が信用できそうだった。
***
アリエスが立つと、炎に包まれた王立鍛冶場が映った。
未来のアリエスは巨大な炉へ魔力を注いでいる。火力計の針は赤い限界線を越え、壁の石が膨らんで割れ始めていた。
「止めろ! その壁はもう熱を持ちすぎてる!」
俺が鏡へ叫んでも届かない。
未来のフェンリルが外套を噛んで引く。次の瞬間、炉の天井が崩れた。
銀色の面が赤く染まり、別の未来へ切り替わる。
そこでは未来のアリエスが小さな店で鍋を作っていた。
炎を細く絞り、金属の温度を測る。壁には熱膨張率の表と、金属ごとの色見本が貼られている。
売っているのは武器ではない。焦げつきにくい鍋と、煙の出にくいかまどだった。
「こっちは地味ね」
「さっきより何百人も助かる仕事だぞ」
未来の店へ誰かが水を運んできた。
男か女かもわからない。顔へ銀色の靄がかかり、見るたび背の高さまで変わる。
「余計なところだけ隠すのね!」
「見えたら余計なものって怒るだろ」
「誰が怒るのよ!」
怒っている本人に聞かれても困る。
ルナの鏡には、村中の家が眠る未来が映った。
朝なのに誰も起きない。窓も扉も閉じたまま、煙突から煙も出ていない。
村の中央で、未来のルナとシープだけが眠っている。
「睡眠魔法を広げすぎたのか」
「……起こす人がいない」
「そこを反省してくれ」
次の未来では、ルナが山頂の観測塔で月を見ていた。
机には重力と潮位の記録。地面へ置いた小さな玉を浮かせ、月の位置との変化を何年分も測っている。
三つ目では寝具店の店主になっていた。
店の名前は、起きなくていい枕。
「一番危険な未来だな」
「……予約は三年待ち」
ルナは少し誇らしそうだった。
ノアの未来は戦場から始まった。
未来のノアが放った光は、敵も味方も区別なく視界を奪う。防護膜の内側で、兵士たちが目を押さえて倒れた。
ノアの指が震える。
カーバンクルがその手へ頭を押しつけた。
映像は夜の学校へ変わった。
未来のノアは弱い光を机ごとに分け、昼に働く子どもたちへ文字を教えている。
最後は海辺の灯台だった。遠い船へ光を送るが、隣にいる人物の顔はまた銀色に消えている。
「強い光が正解とは限らないんですね」
「今のノアが知ってることを、鏡が大げさにしただけかもしれない」
「それでも、忘れないようにします」
悪い未来は当たらなくても、避ける目印にはなる。
ミィナの一つ目の未来には、閉じられた森が映った。
未来のミィナは族長の椅子へ座り、人間を入れるなと命じている。森の外には魚と薬を持った商人が待っていたが、門は開かない。
「これ、やだ!」
尻尾が下がった。
二つ目では市場で焼き魚を売っていた。ツナが客の皿から魚を取り、未来のミィナが代金を二倍にしている。
「こっちは好き! お魚もある!」
「客は嫌いだと思うぞ」
三つ目では巨大なツナの背へ荷物を積み、空を渡る運送屋になっていた。
森も学園も見えない。代わりに知らない国の旗が何本も立っている。
「族長にならない未来もあるんだ!」
「選ばない道が映るからな」
会長が二枚の記録紙を重ねる。
ミィナは少し考え、閉じた森の映像だけを記録紙から折って隠した。
見なかったことにはならない。
だが辿らないと決めることはできる。
鏡が出した答案から、正解へ丸をつける試験ではない。
落とし穴が見えたなら、今の足を少し横へずらす。それくらいに使う方がよさそうだった。
***
七人を映した間、ナビは鏡の周りを調べていた。
『通常ノ反射光ヲ検出デキマセン』
「鏡なのに?」
『表面ヘ当タッタ光ハ吸収サレ、別ノ魔力像トシテ放出サレテイマス』
普通の鏡は、表面で光を反射する。
平らなら入ってきた角度と同じ角度へ返すため、自分の目まで戻った光を像として見る。
この鏡は違う。
俺たちの光を返さず、魔力で作った映像を一方的に見せている。
角度を変えても未来の景色は同じだった。裏へ回っても鏡板はなく、黒い靄しかない。
「本当に未来を映している証拠はないな」
「本人の記憶と願望から、それらしい話を作る魔道具かもしれない」
ヴィクトリア会長はあっさり認める。
「過去には本人も知らない災害を先に映した例もある。全てを信じることも、全てを嘘と決めることもできない」
使える範囲を決めて見るしかない。
「では、アルト」
七人と六体の視線が背中へ集まる。
俺は銀色の面の前へ立った。
最初は何も映らない。
胸の奥が冷える。
世界樹に出生記録がない。鏡にも未来がない。そんな答えを覚悟した。
やがて白い光が中央へ集まった。
学園の大講堂。
少し古びた制服を着た俺が、壇上で紙を受け取っている。
「卒業証書?」
アリエスの赤い髪が、鏡へ一歩近づく。
文字が見える直前、紙だけが真っ黒に染まった。
場面が変わる。
三十歳ほどの俺が、同じ制服で一年Fクラスの席へ座っていた。机には留年十六回目と彫られている。
「悪意があるだろ、この鏡!」
さらに変わる。
日本の駅前だった。
未来の俺は背広を着て、一人で人混みを歩いている。手にはこの世界の杖があるが、誰にも見えていない。
次は学園の実験室。
白髪になった俺が生徒へ熱膨張を教えていた。教卓には八人の写真がある。ところが俺以外の顔は、指でこすったように消えている。
王城で魔道具を作る俺。
名前のない町で井戸を直す俺。
第零層の書庫で九条と同じ椅子へ座り、誰かが来るのを待ち続ける俺。
どの未来にも卒業印は見えない。
隣に立つ人がいても、顔も名前も銀色の靄に隠されている。一人の時もあれば、何人もの時もある。七人全員がいる未来さえ、次の瞬間には俺だけになった。
「何一つ答えになってない」
「未来の数だけなら、一番多い」
グレイが慰めにならない慰めをくれた。
鏡の中で、何十枚もの景色が細かく割れる。
卒業する俺。留年する俺。日本へ帰る俺。この世界へ残る俺。
全部が違う。
どれが俺の未来なのかと鏡へ聞いても、答える口はない。
ただ一つ、同じものがあった。
どの空にも細い黒線が走っている。
地面から伸び、学園の方向へ魔力を運ぶ管だった。
「止めてください」
ノアが俺の袖を強く掴む。
会長が布をかけると、未来は消えた。
***
ヴィクトリア会長は記録紙を床へ並べた。
グレイの診療所。カイルの飛行隊。アリエスの鍛冶場。ルナの眠る村。ノアの灯台。ミィナの森。そして俺の大講堂。
辿るはずのない未来まで、全部に同じ黒線がある。
「未来の景色はばらばらなのに、管だけ変わらない」
「鏡が未来を当てているなら、どの分岐にも影響する物だ」
会長が地図を広げる。
「願望から映像を作っているだけでも、八人が知らない同じ管を混ぜた理由がある」
どちらにしても、調べる価値はある。
黒線の始点は、学園から南西にあるラグナ村と重なった。
「二年生の課外実習先で、魔力が突然なくなった村だ。準備が整い次第、八人に調査してもらう」
「卒業印の手がかりもありますか?」
「保証はできない。だが管の行き先は学園だ」
鏡より慎重な答えだった。
資料室を出る前、俺は黒い布を振り返る。
俺に未来があることだけはわかった。
卒業できるか。誰といるか。日本へ帰るか。
肝心な部分は全部わからない。
「もう一回見れば、卒業証書の文字まで映るかも」
カイルが俺の受験票を指差す。
「留年十七回目に増えたらどうする」
「一回見た分だけ増えるの?」
ミィナが布へ手を伸ばしたので、俺は急いで押さえた。
「余計な未来はもう十分だ!」
黒い管だけを調べればいい。
俺の三十歳の制服姿は、全員で辿らない未来に決めた。




