24話 理科準備室には先客がいる
白衣の男は、黒板へ名前を書いた。
九条真。
名簿で見た文字と同じだった。
「読めるか?」
「はい。九条さんですよね」
「五十六年ぶりだ。俺の名前を正しく呼んだ奴は」
男は満足そうに笑い、白墨を教卓へ置いた。
見た目は三十歳前後で、白衣の下にはこの学園の古い制服を着ている。半透明の体越しに、黒板の文字が透けて見えた。
生きている人間ではない。
「あなたが名簿にいた日本人?」
「そうだ。昭和の終わりに大学の研究室から飛ばされた。今は九条真の記憶と魔力を写した思念体だ。本人の肉体はとっくに土へ還っている」
昭和。
地球の年号まで知っている。
ところが、俺以外の七人は九条の言葉を普通に聞いていた。
「ショーワって何?」
「アルトの国の王朝かな」
グレイが欠けた天秤を覗き込む。
「王朝じゃない。話す言葉はわかるのに、固有名詞までは説明されないんだな」
「お前も気づいていたか」
九条が教室の棚を指す。
中には、物理、化学、生物と書かれた本が並んでいた。地下書庫で見つけた攻略本と同じ日本語だ。
「転移の際に、会話だけは互いへ意味が通るようになる。口の動きと音は違っても、頭の中で意味へ置き換わるらしい。だが文字は別だ」
九条が物理の本をグレイへ渡す。
「読めるか?」
「見たことのない文字だね。図なら、振り子を描いたものだとはわかるよ」
「俺には読めます」
「だから地下書庫の本も、お前だけが読めた」
ずっと、都合のよい翻訳魔法だと思っていた。
実際に働いていたのは、会話だけを互いの意味へ置き換える転移現象だった。
俺が大陸共通文字を一から覚えさせられた理由も、これで説明がつく。
「質問は後だ。まず授業を始める」
九条が指を鳴らす。
教室の奥から、半透明の箱が床を滑ってきた。高さは俺の胸ほどあり、中には銀色の鍵が浮いている。
「この部屋を出る鍵だ。箱を壊して取り出せ」
「いきなり実技ですか?」
「理科は手を動かして覚えるものだ」
その意見には賛成だが、箱の厚さは指二本分もある。
ナビが表面へ解析光を当てた。
『材質、魔晶硝子。耐衝撃、耐火、耐冷却ノ術式ヲ確認』
「全部耐えるって書いてあるぞ」
「科学で解け。魔法は間違った答えだ」
九条は腕を組んだ。
この人は、初対面の同郷人へも、ずいぶん面倒な宿題を出す。
***
まずミィナが殴った。
教室中へ大きな音が響き、本人は拳を抱えてうずくまる。
「にゃあぁ!? 硬い!」
「科学で解けって言われただろ!」
「最初に殴って硬さを調べた!」
ずいぶんな言い換えだ。
カイルの金属弾も傷一つつけられず、フェンリルが噛むと、牙の方を心配する羽目になった。
グレイは箱の四隅へ薬液を一滴ずつ垂らした。変色も泡も出ない。エリスとカーバンクルが防護膜で挟んでも、表面は曲がらなかった。
ルナが重くすると床板の方が悲鳴を上げる。
「……下の部屋へ落とす?」
「鍵まで落ちるだろ。あと建物を壊すな」
ノアは光を当てて内部を調べた。
均一に見えた箱の中には、細い魔力の線が格子状に走っている。傷を受けた場所へ周囲から魔力を集める構造らしい。
「殴った場所だけを直すのではありません。箱全体で傷を支えています」
俺は一度、全員を箱から離した。
わからない物へ思いつきを順番にぶつけても、道具と体力を減らすだけだ。
観察した事実を紙へ書く。
硬い。曲がらない。傷を直す。炎と冷気の両方へ耐性があり、衝撃は床へ逃げている。
完全に壊れない物などなく、壊れる条件へ届いていないか、壊れた分より速く直っているだけだ。
「ずいぶん慎重だな」
九条が退屈そうに言う。
「昔、一回しか使えない術式を試し撃ちして怒られたので」
「科学者なら失敗を恐れるな」
「失敗した理由を記録できる範囲で失敗します。全壊したら二回目を試せません」
九条の口元から笑みが消えた。
この人が期待していたのは、もっと無謀な答えだったのかもしれない。
俺は箱の角へ触れた。
相手が硝子なら、試せる方法が一つある。
「アリエス、同じ場所をゆっくり熱してくれ。シープは水を用意。エリスは飛び散らないよう防護膜を頼む」
「魔法は間違いじゃなかったの?」
「熱を作る道具として借りるだけだ」
アリエスは指先に細い炎を出した。
箱の中央が赤く光るまで温める。表面の術式は熱を逃がそうとしたが、フェンリルも反対側から炎を当て、加熱が放熱を上回った。
十分後、ルナがシープの雲から冷たい雨を落とす。
甲高い音が鳴り、表面へ白い筋が一本走る。
「割れた!」
「熱衝撃だ」
熱した硝子へ冷たい水をかけると、外側だけが先に冷えて縮もうとする。内側はまだ熱く、膨らんだままだ。
一つの物の中で、縮む部分と膨らむ部分が引っ張り合い、耐えられなくなると亀裂ができる。
熱い硝子の器へ急に冷水を入れると、割れることがある。冬の窓へ熱湯をかけるのが危険なのも、同じ理由だ。
「なるほど。もう一度やれば砕けるのね」
「待て。何にでも効くわけじゃない」
金属のように変形して力を逃がす物もある。耐熱硝子は温度差ができにくく、同じやり方では割れにくい。何より、この箱には耐冷却の術式がある。
白い筋はすぐに薄くなり、魔力が亀裂を内側から埋めている。
「失敗だな」
九条が鼻で笑った。
「術式が熱を逃がす量より速く熱し、修復するより速く冷やす。それを繰り返せば」
「一人でか?」
返事に詰まった。
アリエスとシープを使っておきながら、一人で科学を使ったような顔をしていた。
九条の言葉が俺ではなく、昔の自分へ向いている気がした。
「アルトさん。亀裂が消える前なら、私の光で追えます」
ノアが箱へ弱い光を当てた。
内部で反射した光が、白い筋の先端だけを青く浮かび上がらせる。
「面白いねぇ。僕が修復を遅らせる薬を作るよ。魔晶硝子も結晶なら、隙間へ異物を入れれば元通りには並びにくいはずだ」
グレイが冷却用の塩と細かな炭を混ぜ始める。
「カーバンクルの膜で、水を一点へ押し込めます」
「ホークで表面の熱い空気を飛ばすよ。冷える速さを上げられる」
「ツナも水を運べる!」
「……亀裂だけ、重くする」
七人が順番に役目を口にした。
ナビは全員の位置と温度を測り、フェンリルが加熱を補う。
俺一人でできることなど、開始と停止の合図くらいだった。
「もう一度やろう。次は八人と六体で」
アリエスとフェンリルが箱を熱する。
ナビの温度表示が目標へ届いた瞬間、カイルとホークが熱気を払った。
シープの冷たい雨をカーバンクルの膜が細い水刃へ変える。ツナが尾で水圧を加え、最初の亀裂へ叩き込んだ。
グレイの炭が割れ目へ入り、修復の光を内側から濁らせる。
ノアの青い線を目印に、ミィナが金属の楔を打つ。
ルナが楔の先だけを重くした。
箱の中央へ、蜘蛛の巣のような亀裂が広がる。
「全員、下がって!」
エリスとカーバンクルの膜が破片を包んだ。
次の瞬間、魔晶硝子は内側へ崩れ落ちた。
銀の鍵だけが膜の中へ残る。
ミィナが飛びつくより先に、俺は鍵を掴んだ。
「これは食べ物じゃないからな」
「噛んで確かめるだけだよ!」
「それを食べるって言うんだよ」
九条はしばらく黙っていた。
やがて、透明な両手で一度だけ拍手した。
「合格だ。俺には最後まで出せなかった答えだよ」
砕けた箱は、床へ落ちるより先に、光の粒へ変わった。
授業用の仕掛けだったようだ。
ミィナは痛めた拳へ息を吹きかけている。カイルは使った金属弾を拾い、グレイは残った薬を瓶へ戻した。
アリエスとフェンリルは水を浴びて湯気を立てていた。シープは冷たい雨を出しすぎて半分ほどに萎んでいる。ツナがその周りを泳ぎ、ホークは濡れた翼を振った。
派手に壊した後の片づけまで含め、いつものFクラスだった。
「科学は同じ条件なら同じ結果を出す。そのための考え方だ」
九条が割れた場所を見下ろす。
「だが条件を作ったのは魔法で、亀裂を見つけたのは仲間だ。お前はそれを不都合だと思わないのか?」
「使える物を使って再現できれば、それでいいです。卒業証書は純粋な科学だけを使えなんて書いてませんから」
「目的が小さいな」
「世界の真理より、まず進級したいので」
九条は呆れた顔をした。
九条には不評だった。だが俺は、世界を救うために入学したわけではない。
***
銀の鍵で開いたのは、出口ではなく奥の書庫だった。
壁一面には、日本語の本が詰まっている。
力学、電磁気学、材料工学。大学の専門書に混じり、魔力回路や詠唱構造という言葉もあった。
「地下書庫の本も、あなたが?」
「半分ほどはな。他にも何人か、この世界へ流れ着いた者がいる。時代も国も違う。自分の知識を残し、卒業できないまま消えた」
「卒業できない?」
九条は黒板へ大きな木を描いた。
根の下へ出生、幹へ入学、枝へ履修、先端へ卒業と書く。
「この学園の卒業印は、世界樹の学籍簿へ刻まれる。生まれた時に根へ名前が入り、入学時に幹へ移り、必要な授業を終えると枝がそろう」
「普通の卒業記録じゃないのか?」
「国が違っても、偽名でも、世界そのものが同じ人間だと確かめる仕組みだ。だが俺たちは、この世界で生まれていない」
九条は出生と書いた場所へ線を引く。
「根がない。だから、どれだけ枝を伸ばしても卒業印を押せない」
喉が乾いた。
迷宮の冷たい空気が、急に薄くなったように感じる。
卒業できないなら、俺は、何のために授業へ出てきたのだろう。
古代王の名前を徹夜で覚え、暴発する魔法から逃げ、硬いパンを噛み、実験器具を洗ってきた。
ナビを直し、七人と六体で決勝まで戦った。
全部が無駄だったとは思いたくない。それでも目的地だけが最初から存在しないと言われれば、足は動かなかった。
「あなたは、三年間の授業を全部終えたんですか?」
「ああ。単位は足りていた。卒業試験も一人で突破した。それでも式の日、俺の証書だけ白紙だった」
九条の姿が一瞬揺れる。
「俺は科学で全てを説明できると思っていた。魔法を迷信と呼び、仲間の警告も無視した。最後の試験では、自分の計算だけを信じて七人を危険へ巻き込んだ」
九条の最後の試験は、地下水路の水門を閉じることだった。
水深と門の面積から圧力を計算し、必要な支柱の太さを決めた。地球の値をそのまま使い、仲間が調べた水の魔力密度を誤差だと切り捨てたという。
支柱は耐えなかった。
水門が外れ、七人のうち二人が濁流へ流された。全員で救い上げて生還したが、一人は卒業式まで杖を握れなかった。
「公式が間違っていたんですか?」
「違う。測るべき条件を、俺が勝手に無視した。式が正しいほど、自分まで正しい人間になった気でいた」
科学は観察から始まる。
目の前の結果が予想と違えば、世界の方を間違いと呼ぶのではなく、自分の仮定を疑う。
九条は一番初めのところで、それを忘れた。
黒板の前に、八つの小さな人影が描かれる。
一つだけが離れていた。
「全員生きて帰った。だが卒業後、俺の隣に残った者はいなかった。正しい答えを出すことと、一緒に進むことは別だった」
九条が壊れた箱を見る。
「お前は同じ失敗をしなかった。だから教える。卒業印を得る方法は、俺にも見つけられなかった」
「そんな」
一年目を終えるために、ここまで来た。
地球で届かなかった卒業証書を、今度こそ手に入れるために三百二日休まず通った。
なのに、最初から俺の名前を書く場所がない。
アリエスが俺の肩へ手を置く。
「ないなら作ればいいでしょ」
「そんな簡単な話じゃ」
「魔晶硝子だって、壊せないって言われたわ」
ノアも俺の反対側へ立った。
「九条さんの時は、一人だったんですよね。今は八人です」
「六体もいるよ!」
ミィナが訂正する。
足元ではツナが銀の鍵を口へ入れようとしていた。
「だから食べるな!」
取り上げると、九条が声を上げて笑った。
「五十六年待った甲斐はあったかもしれないな」
九条は書庫の奥にある一枚の扉へ手をかけた。
「先へ進む前に、一つだけ聞く。お前は卒業できないとわかっても、こいつらを連れてきたか?」
答えるより先に、背中へミィナが飛びついた。
「連れてこられたんじゃないよ。ミィナたちが勝手についてきたにゃ!」
「……アルト一人だと、すぐ無茶する」
ルナまで制服の裾を掴む。
ノアは頷き、アリエスは呆れたように腕を組んだ。
「今さら一人で行けって言われても困るのよ。こっちは十二日分の荷物まで背負ってるんだから」
「着替えは四日分だけどな」
「今は荷物の話じゃないでしょ!」
九条はしばらく俺たちを見ていた。
「そうか。俺には、そこから教える相手がいなかった」
半透明の手が扉を押す。
上には、大陸共通文字で短い注意書きがあった。
答案用紙は八人で一枚。
俺が読んだ横から、七つの顔が同時に文字を覗き込む。
卒業欄には俺一人の名前を書く場所すらない。
それでも次の答案だけは、最初から八人分の場所が空いていた。




