23話 魔法禁止につき猫の勘で進みます
入学第三百二日。
名簿を見つけた教員室で六時間休み、俺たちは黒板の奥へ続く階段を下りた。
最初の異変は、ノアの光が消えたことだ。
「あれ?」
杖の先で光が瞬き、そのまま闇へ溶ける。
次にナビが俺の肩へ落ちた。
『外部魔力、低下。飛行機能ヲ、停止シマ』
最後まで言い終える前に、ナビは沈黙した。
「ナビ!」
慌てて拾うと、外装に傷はない。中央の光だけが消え、手のひらの上で冷たくなっていた。
後ろから、毛布を床へ落としたような音が続いた。
クラウド・シープだ。
雲の体は羊一頭分まで縮み、石段へ座り込んでいる。ストーム・ホークも飛べなくなってカイルの腕へ着地した。スカイ・ツナに至っては空中から落ち、ミィナが両手で受け止めている。
「ツナがただの大きい魚になったにゃ!」
「生きてる。鰓も動いてるわ」
エリスがツナの体を確かめる。
フェンリルの炎は消え、カーバンクルの額の宝石も暗い。それでも五体とも主人から離れず、召喚契約の感覚も残っている。
消えたわけではなく、魔法だけが使えなくなったのだ。
「帰還石も光らない」
カイルが石を握って青ざめた。
俺たちはすぐに階段を戻った。
十七段上がると、ナビの光が戻る。シープが膨らみ、ツナはミィナの腕から浮かび上がった。
一段下りれば、また止まる。
「境目があるね」
グレイが壁へ白墨で線を引いた。
「ここから先は地脈につながっていない。魔力を外から受け取る道が切られているんだと思う」
「科学なら使えるんでしょ?」
アリエスが期待する目を向けてくる。
「科学は、魔法の代わりに何でも出してくれる神様じゃない。動かす力がなければ、ただの説明書だ」
電池のない懐中電灯は光らず、燃料のない車も走らない。
仕組みを知っていても、必要なエネルギーまでは生えてこない。
「つまり?」
「俺も普通の役立たずになる」
『訂正ヲ要求シマス』
境界の上に置いたナビだけが反論した。
「そこだけ急に動くな。怖いだろ」
先へ進むか、それともここで引き返すか。
帰還石が使えない区画へ入れば、撤退手段を一つ失うことになる。
「私は行きたい」
最初に言ったのはアリエスだった。
「帰還石が使える場所までの道は残せる。危なくなったら、ここまで走って戻る。それじゃ駄目?」
「全員が戻れる目印と、魔法なしで明かりを作る方法が必要だ」
「それならあるよ」
グレイが調理道具から火打ち石を出した。
予備の布へ灯油を染み込ませ、短い木の棒へ巻く。火花を散らすと橙色の炎がついた。
「燃焼の三要素だ。燃える物、酸素、火をつける熱。この三つがそろえば、魔力はいらない」
地球の理科室で習った火の基本だ。
薪も蝋燭も、同じ仕組みで燃える。魔力で火球を作れなくても、油そのものが持つエネルギーは消えていない。
「ただし、狭い場所で燃やせば酸素を減らすし、煙も出る。決勝と同じことを、自分たちへやる危険がある」
「風が止まったら消すのね」
「一本道でも三十分ごとに戻り、壁へ縄を固定する。使い魔は抱えて運ぶ。これでどうだ?」
七人が頷いた。
ツナだけはミィナの腕の中で不満そうに尾を振った。
「今日は飛ばない方が楽ー!」
飼い主の方が喜んでいた。
***
階段の先は、湿った石の洞窟だった。
アリエスが先頭で松明を持ち、カイルとグレイが壁へ縄を固定する。エリスはカーバンクルを鞄へ入れ、ルナはシープを背負い、ミィナはツナを抱えている。
ホークはカイルの頭へ止まった。
「爪が痛い。せめて肩にしてくれない?」
ホークは聞こえないふりをした。
フェンリルだけは、自分の足で歩ける。炎を失っても大きさと牙は残っているため、前衛の仕事まで失ったわけではない。
俺はナビを胸の内側へ入れた。
「アルト、そこ暖かい?」
ルナが俺の胸元を見ている。
「ナビ用だ。お前は羊を背負ってるだろ」
「……交換する?」
「何と何をだよ」
答えを聞く前にアリエスに睨まれた。暗闇でも視線だけは熱い。
最初の分かれ道で松明の炎が左へ傾いた。
「空気が流れてる。左がどこかへつながってるな」
炎は、簡単な風向計にもなる。
だが二つ目の分かれ道では、両方の道から風が来て、炎が真っすぐ立った。
「右にも左にも出口があるの?」
「細い穴がつながってるだけかもしれない。風だけじゃ決められない」
科学の答えには、測れていない条件が必ず残る。
その時、ミィナの耳が左右別々に動いた。
「右は水の音! 左は羽虫がいっぱい! それに、右の空気の方が冷たいよ!」
「わかるのか?」
「猫を何だと思ってるの!」
「魚を追いかける人」
「それも正解!」
ミィナは胸を張り、右の道へ進んだ。
人間には同じ黒い穴にしか見えないが、彼女は壁の湿り気を嗅ぎ、遠くで落ちる水滴を聞き分けている。
さらに、足元の泥に混じった小さな虫の殻まで見つけた。
「この虫は外の森にもいる。地下だけでは増えない。風上に地上か、食べ物のある部屋がある」
俺の理屈より、猫の鼻の方がよほど役に立つ。
ミィナは分岐ごとに壁を引っ掻き、戻る道へ三本の傷を残した。
俺たちは念のため布も結ぶ。ところが四つ目の分岐で、さっき結んだばかりの布が前方から現れた。
また廊下と同じだ。
真っすぐ進んでいるつもりでも、洞窟の緩い曲がりに気づかず、一周している。
「右足と左足では歩幅が少し違う。暗い場所で目印がないと、同じ方へ曲がり続ける」
人間が目隠しをして歩くと、真っすぐ進めず、円を描くことがある。左右の足の長さや筋力だけでなく、わずかな地面の傾きまで積み重なるからだ。
俺の科学知識では、その現象へ理由をつけることしかできない。
もっとも、先に気づいたのはミィナだった。
彼女は布の匂いを嗅ぐと、まだ通っていない細い横穴を見つけた。
「こっちは新しい水の匂い!」
横穴の先は天井が低くなっている。
アリエスの松明が急に小さくなった。
「止まれ。火が消えかけてる」
風はあるのに、炎だけが弱い。
俺は長い棒の先へ小さな火を移し、低い場所へ差し込んだ。炎は膝の高さで消え、頭の高さでは燃えている。
「下に二酸化炭素が溜まってる。空気より重いから、窪みから抜けないんだ」
洞窟では、見えない気体が池のように溜まることがある。匂いも色もないため、人間が息を吸って確かめれば、その一回が最後になりかねない。
「燃焼に必要な酸素が足りない場所では、松明が先に警告してくれる。ただし人間より必ず先に消えるとは限らない。これだけを信じて入るのも危険だ」
俺たちは腰を低くせずに、来た道へ戻った。
ミィナが見つけた上側の割れ目を一人ずつ通る。ツナとシープは主人に抱かれ、フェンリルは腹を床へ擦りながら抜けた。
魔法がないと、強力な召喚獣も大きな荷物に近い。
それでも置いていくという意見は、誰からも出なかった。
三つの分岐を越えたところで、洞窟が揺れた。
「全員、壁から離れて!」
天井から石が落ちる。
フェンリルが体を張ってノアとエリスを庇った。俺は隣にいたミィナの腕を掴む。
床の一部が沈み、岩壁が横からせり出した。
視界が塞がれる直前、アリエスの手がこちらへ伸びる。
「アルト!」
指先は届かなかった。
轟音が止んだ時、俺とミィナは、残る六人と四体から切り離されていた。
正確には、ツナとナビもこちらにいる。
ただし魚は飛べず、案内板は胸の中で寝ていた。
「頼れるのはミィナだけだ」
「もっと敬っていいにゃ」
暗闇の中で猫の目だけが得意そうに光った。
***
松明は壁の向こうへ残した。
完全な闇の中で、ミィナが俺の手を取る。
「ボスは三歩後ろ! 尻尾を踏んだら噛むからね!」
「見えないのに三歩をどう測るんだ」
「ミィナの匂いを追えばいいよ!」
「難易度が高い」
右手は握られているので、匂いまで追う必要はない。
それでも足元の石へ何度もつまずき、狭い穴では四つん這いになり、前を進むミィナの尾が顔へ当たる。
「尻尾に顔を埋めたら噛むよ!」
「そっちから当ててるんだろ!」
「暗闇なら何をしてもばれないと思った?」
「思ってない!」
壁一枚向こうから聞こえているかもしれない。留年より先に社会的な命が危ない。
細い穴を抜けると、水の匂いが強くなった。
ミィナが俺を止める。
「前に深い穴があるよ! 石を落とすね!」
足元の小石を投げると、水音が返るまで二秒ほどかかった。
かなり深い。
落下距離は、重力加速度に時間の二乗をかけて半分にする。地球とほぼ同じ重力なら、およそ二十メートルだ。
ただし今の二秒には、水音が戻ってくる時間も混じっており、穴の形もわからない。計算は底を見せてくれる魔法ではなく、落ちたら無事では済まないと教える目安にしかならない。
「右の壁に細い道があるよ! ミィナが先に行く!」
「俺が先じゃなくていいのか?」
「見えない人が先に行って、何をするの」
正論だった。
俺は彼女の腰へ予備の縄を結び、自分の腰ともつないだ。
ミィナの足が滑れば俺が引き、俺が落ちれば、たぶん二人で落ちる。
安全策としては半分ほどしか役に立たない。
湿った壁へ体を押しつけながら、一歩ずつ進む。
途中でミィナが止まったため、俺の額が後頭部へ当たった。
「どうした?」
「今、少しだけ嬉しい」
「落ちそうなのに?」
「ボスがミィナだけを頼ってる」
声は暗闇の中で近かった。
「みんな、獣人を見ると足が速いとか耳が可愛いとか言う。アルトも最初は、猫がしゃべったって顔をしてた」
「それは否定できない」
「でも、授業では何ができるか聞いた。対抗戦ではツナと一緒に役目をくれた。今も、先を決めるのを任せてる」
結んだ縄が少しだけ引かれる。
「だから好き。ボスだからじゃない。アルトが男の子だから、好き」
足を滑らせかけた。
「今言うのか?」
「明るいと恥ずかしい」
暗闇のおかげで、告白まで俺の耳へ届かなかった。
返事を探すと、アリエスの袖を掴む手と、ルナの眠そうな顔と、ノアの細い光が浮かぶ。
誰にも嘘をつきたくない。
「ミィナ、俺は」
壁の向こうから、何かを引っ掻く音がした。
一回。二回。少し間を置いて三回。
「フェンリルにゃ!」
ミィナが耳を立てる。
「わかるのか?」
「お腹が空いた時の掻き方」
緊張感のない暗号だった。
音を追って進むと、細い壁の向こうからカイルたちの声が聞こえた。
ミィナが一番薄い場所を探す。こちらから石を叩き、向こうでは魔力を失ったフェンリルが前脚で岩を崩した。
穴が開いた途端、赤い髪が飛び込んでくる。
「アルト! 怪我は?」
「泥だらけなだけだ」
アリエスは俺の全身を確かめ、次に腰の縄を見た。
反対側はミィナの腰へつながっている。
「ずいぶん仲良く探検してたのね」
「命綱だ!」
「暗い穴で二人きりでしたから、必要ですよ」
ノアは笑っているのに目だけが笑っていない。
「……アルト、泥だらけ」
ルナが俺の胸へ指を滑らせる。泥を一筋取って、顔を近づけた。
「お風呂で洗わないと」
「そうね。背中は私が洗うわ」
「髪は私が洗います」
「耳の後ろはミィナが洗うー!」
「どうして四人で洗う前提なんだよ!」
「じゃあ僕が」
カイルが手を挙げる。
「それは遠慮する」
「僕だけ扱いがひどくない?」
エリスが小さく吹き出し、カイルの腕を引いた。
「カイルくんは、私とホークを洗うのを手伝ってください」
今度はカイルが返事を失った。
魔法が戻ったら洗い場の順番で戦争が起きそうだ。
幸いにも、再会した場所から十歩先に新しい境界があった。
一歩越えるとナビが起動し、ツナがミィナの腕から浮かぶ。シープはルナの背中で膨らみすぎ、天井へ挟まった。
『外部魔力、正常値ニ復帰』
「帰還石は?」
青い光が戻っている。
撤退できる。
安堵した直後、正面の扉に見慣れた文字が浮かんだ。
理科準備室。
日本の学校でしか見たことのない札だ。
扉の奥から、昨夜と同じ男の声がする。
「科学があれば魔法はいらない。そんな顔をしていた頃の俺に、よく似ている」
扉が内側へ開いた。
白衣を着た半透明の男が、黒板の前で俺たちを待っていた。
教卓には欠けたビーカーと錆びた天秤が並んでいる。どれも地球の理科室にあった物とよく似ていた。
迷宮の底で待っていたのは魔物ではない。
俺より先に卒業できなかった科学好きの留年生だった。




