22話 地図にない教室から聞こえる声
落下は、ずいぶん長く続いた。
暗闇の中で誰かの手が離れ、悲鳴が遠ざかる。
「シープ、全員を軽くしろ!」
白い雲が膨らんだ。
クラウド・シープの体が俺たちの間へ広がり、落下する八人を下から受け止める。人を乗せすぎた羊は縦に潰れ、巨大な座布団のようになった。
「……重い」
「ルナ、今だけは羊に同意するな!」
まだ落ちている。
ナビの光が下を照らし、石床が迫っているのが見えた。
「エリス!」
「カーバンクル、下へ膜を!」
透明な防護膜が床との間に生まれる。
最初にスカイ・ツナが膜へ飛び込み、尾びれを大きく振って空気を横へ逃がした。ストーム・ホークも傷の治った両翼で逆風を起こす。
膜がたわみ、羊が潰れ、俺たちはまとめて床へ投げ出された。
「全員、返事!」
「生きてるわ!」
「右腕も動く!」
「ツナが下敷き!」
「……シープも、ぺたんこ」
アリエス、カイル、ミィナ、ルナの声が続く。
ノアとグレイはエリスを起こし、フェンリルは床に挟まったツナの尾をくわえて引き抜いた。カーバンクルも、膜を解くと主人の肩へ戻る。
六体ともいる。
荷物も、一つを除いて残っていた。
「にゃあぁぁ! ボクの干し魚袋がない!」
「それは落ちる前から空だっただろ」
「迷宮に食べられた」
迷宮に濡れ衣を着せるな。
『現在時刻、入学第三百一日、午前零時四分』
「零時?」
地下十階へ着いたのは午後二時過ぎだった。扉を調べている間に十時間も経った覚えはない。
『落下開始カラ着地マデ、当機ノ計測デハ十一秒。シカシ時計ハ九時間五十二分進行シテイマス』
時間まで地図から外れたらしい。
***
周囲を照らすと、そこは迷宮ではなかった。
長い木造の廊下。
片側には窓が並び、もう片側には教室の扉が並んでいる。天井から吊られた魔力灯は消え、窓の外には校庭ではなく真っ黒な壁がある。
「学園の旧校舎?」
エリスが扉の札へ積もった埃を拭う。
一年Fクラス。
隣も、その隣も、全て同じ札だった。
「教室が何個もあるのに、全部Fクラスって変じゃない?」
「同じ場所の違う年代を、横に並べてるのかもしれない」
グレイが廊下の柱を調べる。右側の教室ほど木材が古く、左へ進むほど新しい建築になっていた。
「歴代のFクラスを保存してるってこと?」
アリエスの声が廊下へ響く。
返事の代わりに、一番近い教室から椅子を引く音がした。
全員が身構える。
扉が開き、制服姿の少年が出てきた。
半透明の体。顔は霧がかかったように見えない。
「また八人も来たのか」
少年は俺たちを通り抜け、廊下の中央へ立った。
「最初だけだよ。どうせ半分は辞める。残った奴も、自分が足を引っ張ったと気づいていなくなる」
「幻影ね。相手にしないで進むわよ」
アリエスが言った途端、少年の顔が彼女と同じ赤い髪へ変わった。
「お前の炎は仲間を焼く」
アリエスの足が止まる。
「制御できたつもりか。たまたま死人が出なかっただけだ。次はフェンリルごと焼くぞ」
「黙りなさい!」
火球が飛ぶ。
少年の胸を通り抜け、奥の壁だけを焦がした。
「やっぱり危険だ。Fクラスを辞めろ」
同じ声が、全ての教室から聞こえた。
扉が一斉に開く。
数十人の半透明な生徒が廊下へ溢れた。
「実体はない! 攻撃しないで!」
俺が叫ぶより早く、幻の一人がカイルの前へ立った。
「二発目がなければ何もできない。お前はいつも、誰かに時間を稼いでもらうだけだ」
別の幻はエリスへ顔を寄せる。
「守れたのは運がよかったからだ。膜が一度割れれば、お前の後ろにいる全員が死ぬ」
カーバンクルが歯を剥いた。けれど幻へ飛びかからず、エリスの足へ体を押しつける。
幻には主人の怖いものが見えても、使い魔は惑わされていない。
「あいつらに任せろ! 声じゃなくて、使い魔を見るんだ!」
フェンリルがアリエスの外套をくわえた。ストーム・ホークはカイルの肩へ降り、カーバンクルはエリスの靴を前脚で叩く。
ルナはクラウド・シープへ抱きついた。
「……お前が起きていれば、もっと早く勝てた」
幻が耳元で囁く。
「……知ってる」
「ルナ!」
「でも、シープは言ってない」
羊は短い脚で幻を踏もうとして、床だけを蹴った。ルナはその間の抜けた姿を見て、ほんの少し笑う。
スカイ・ツナもミィナの頭へ尾びれを載せた。
「獣人は教室に座るものじゃない。餌をもらって喜んでいればいい」
「ツナよりは上手に座れるもん!」
比較する相手が魚でよいのかは疑問だが、ミィナの耳は立ち直った。
使い魔のいないノアとグレイの周りには、幻がさらに集まっている。
「弱い光で何ができる」
「薬を作るだけなら教室の外でやれ」
「契約されなかった半端者」
ノアが杖を握りしめた。グレイは割れていない眼鏡を押し上げようとして、指が空振りする。対抗戦で壊れた眼鏡はまだ修理中だった。
「あまり聞くと、本当のことに思えてくるね」
「本当でも、全部ではありません」
ノアは小さな声で答えた。
その足元へ細い光が伸びる。明るさは蝋燭にも負ける。幻を消す力もない。
だが光は床板の隙間を走り、俺たち八人の靴へ順番につながった。
「私の光は弱いです。でも、誰がどこにいるかは見えます」
顔を上げると、幻の群れに隠れていた仲間の位置がわかった。
ノアの光は六体の足元も通っている。十四個の小さな輪が暗い廊下へ並んだ。
「誰か一人でも輪から外れたら、すぐに止まりましょう」
「それなら僕も役に立てる」
グレイは鞄から中和香を取り出し、火をつけずに砕いた。苦い薬草の匂いが廊下へ広がる。
「幻に匂いはない。仲間と使い魔の匂いだけを追えばいい」
俺たちはノアの光とグレイの薬草を頼りに、幻の間を進んだ。
目と耳は信用できない。それでも足裏の光と鼻へ入る苦味は嘘をつかなかった。
俺の横にはナビがいる。
『心拍数、上昇中』
「わかってる」
まだ俺へ話しかける幻はいない。
順番を待っているようで、それが一番怖かった。
先頭の幻が振り返った。
今度の顔は俺だった。
異世界の制服ではない。事故に遭った日に着ていた、地球の学生服だ。
「お前はこの世界の生徒じゃない」
心臓を直接掴まれた気がした。
「他人の知識を答えのように話しているだけだ。卒業証書を取ったら、こいつらを捨てて帰るんだろ」
言い返せなかった。
卒業することばかり考えてきた。その先を、俺は一度も決めていない。
「アルト」
左手をアリエスに掴まれた。
反対の袖はルナが握っている。ノアの光が俺の両足を囲み、ミィナは幻と俺の匂いを嗅ぎ比べた。
「こっちのアルトは汗臭い! 本物!」
「もっと他に見分け方があるだろ!」
思わず声が出た。
幻の俺が眉を寄せる。だが俺の隣にいる四人は、誰も手も光も離さなかった。
「卒業した後のことは、出てから八人で決めればいいわ」
アリエスの言葉に、ようやく一歩進めた。
ナビが幻の俺を調べ、すぐにこちらへ向き直る。
『偽物ハ発汗シテイマセン』
「お前までそこを基準にするな」
***
同じ札の教室を七つ通り過ぎた。
廊下の先は何度歩いても最初の階段へ戻ってくる。ナビの地図では一本の直線なのに、実際には輪になっていた。
『歩行距離、四百十二メートル。推定廊下長、九十六メートル』
「四周以上してるってこと?」
「途中で曲がってないのに、どうやって戻るのよ」
アリエスが壁を蹴る。古い板が震え、天井の埃が落ちた。
俺は廊下へ落ちた埃を見た。
全員の足跡がある。その隣に、フェンリルの大きな足跡とツナの尾が擦った跡も続いていた。
ただし、教室から出てきた幻の足跡は一つもない。
「こいつらは床へ触れてない。なら、扉を隠すための映像かもしれない」
「映像?」
「暗い窓へ部屋の中が映るだろ。向こうが見えているようでも、実際は手前の光を見てる」
夜の窓へ顔を近づけると、外より自分の顔がよく見える。光は真っすぐ進むが、透明な板の表面でも一部が反射するからだ。
舞台でも斜めの板へ別の場所の光を映し、そこに人がいるように見せる仕掛けがある。
「ここの幻も、どこかにある記憶を廊下へ映してる。映してる光を見つければ、本物の壁がわかるはずだ」
「でも、こんなに暗いのに光なんて」
カイルが言いかけ、ノアの足元を見た。
弱い光の筋が幻の足を通るたび、ほんの少しだけ折れている。
「光を広げます。目を閉じてください」
ノアが杖を両手で持つ。
以前のように大きな光球は作らなかった。床すれすれへ薄い光を広げ、朝霧のように廊下全体を満たしていく。
幻の輪郭が白く浮かぶ。
光は全ての幻を通り抜け、同じ方向へ細く曲がっていた。
「右から来てる!」
曲がった光を逆へたどる。
教室の一つ、その黒板の上に小さな水晶が埋め込まれていた。
「カイル、撃ち落とせるか?」
「一発目から当てるよ」
幻に言われた言葉を、そのまま踏み台にしている。
ホークが羽ばたき、カイルの風が金属弾を運ぶ。
水晶へ当たる直前、弾は横へ逸れた。
「外したじゃない!」
「違う。あそこにも透明な板がある!」
カイルは二発目を撃った。最初の弾が曲がった角度を見て狙いをずらす。
金属音と一緒に水晶が砕けた。
廊下にいた幻の半分が消える。
だが全員ではない。
「仕掛けが複数ある。さっきの説明には続きがあるんだ。反射は見る角度で変わる」
正面から見えなくても、場所を変えれば映るものがある。
そして透明な板が汚れていれば光は散り、元の像までぼやける。
万能な見破り方ではない。
「十四方向から見ればいいにゃ!」
「魚も数に入れるのか?」
「ツナだって一人前だよ!」
そこは否定できない。
八人と六体は廊下へ散り、ノアの光が曲がる場所を探した。
フェンリルは壁の高い位置。ホークとツナは天井近く。カーバンクルは机の下へ潜り、シープは床を転がる。ナビが全員の報告を地図へ重ねる。
水晶は全部で四つあった。
最後の一つをアリエスが細い火で焼き切る。
幻の生徒たちは声を失い、古い光の粒になって消えた。
ずっと続いていた廊下も形を変える。
行き止まりだった壁に、一枚だけ札のない扉が現れた。
***
扉の先は、小さな教員室だった。
机も棚も埃に埋まり、壁の時計は針をなくしている。
グレイとエリスが怪我を確認し、俺たちはようやく荷物を下ろした。
経過時間は地上の時計で二時間。ナビの内部時計では二十三分だった。どちらを信用すればよいのかわからない。
「食料は?」
「封を開けたのは一日目の分だけです」
エリスが全員の袋を確認する。
「帰路は?」
カイルが開けた扉を見る。廊下は残っている。ノアの光の線も入口まで続いていた。
撤退条件には、まだ触れていない。
ただし帰還石が第零層でも働く保証はなかった。
「証拠を探したら戻ろう。ここを最深部だと報告できるものがあれば、試験になるかもしれない」
机の引き出しは空だった。
棚には、歴代一年Fクラスと書かれた背表紙が並んでいる。
一冊ずつ年代が違う。途中で脱退、転科、休学と書かれた名簿も多い。
卒業欄が全員埋まっている年は、ほとんどなかった。
「これ、何十年分あるのよ」
「一番古いのは、学園創立の翌年だ」
グレイが震える紙を慎重にめくる。
五十六年前の名簿で、俺の手が止まった。
七人の名前は大陸共通文字で書かれている。
八人目だけ、違う。
九条真。
縦に並ぶ四つの文字を、俺は読めた。
「アルト、それは何て書いてあるの?」
「クジョウ、マコト。俺のいた国の文字だ」
名前の横には入学日がある。出身地は空欄。生年月日も空欄だった。
そして卒業欄だけが、紙を削り取ったように白い。
俺は自分の受験票を取り出した。
未完了の卒業記録という文字は消えていない。
「俺より前にも、ここへ来た日本人がいる」
その瞬間、止まっていた壁の時計が一つだけ鳴った。
針のない時計から、男の声が流れる。
「また来たのか。卒業できなかった同郷人が」
ナビが時計へ解析光を向ける。
誰も触れていないのに、教員室の奥にある黒板が横へ滑った。
その向こうから、さらに深い階段が現れた。




