21話 留年を賭けた未踏迷宮十二日間
雪の残る校庭で、俺たちは未踏迷宮アビス・ホールの入口を見下ろしていた。
入学第三百日。一年次の通常授業最終日。
黒い岩盤へ開いた縦穴は朝だというのに底が見えない。周囲には救護班の天幕が並んでいた。教師たちは帰還用の魔法陣を点検している。
年度末試験の会場が底なし穴という時点で教育機関として何かを間違えていた。
「最終確認をする」
ミネルヴァ先生が、八枚の受験票を順番に手渡した。
「これは一年次の年度末進級試験だ。最深部から賢者の証を持ち帰れば、全員そろって二年生へ通常進級。失敗すれば全員、一年生を再履修する」
「退学じゃないんですよね?」
カイルが受験票を両手で握る。
「ああ。命を捨ててまで合格しろとは言わん。ただし、留年すれば来年度も一年Fクラスだ」
胸の奥が冷えた。
地球では小学校から高校まで、一日も休まず通った。
あと二か月で卒業証書へ手が届くはずだったのに、凍った道路を滑ったトラックが全てを奪った。
この世界へ来てからも三百日間ずっと授業を休んでいない。
熱を出した朝はエリスに治してもらった。ダンジョン実習の翌日はカイルに背負われて教室へ行く。大雨で道が川になった日はツナに運ばれた。
そこまでして守った皆勤記録を迷宮一つへ台無しにされてたまるか。
あと一つだ。
この試験を終えれば、今度こそ次の学年へ上がれる。
「アルト、顔が怖いわよ」
アリエスが肘で小突いてくる。
「留年したくないだけだ」
「私だって嫌。でも、あんた一人で卒業するわけじゃないでしょ」
後ろを見る。
七人と六体が、冬用の装備を身につけて並んでいた。
もう卒業証書は、俺一人だけの目的ではなくなっていた。
試験の通知を受けた翌日から、食堂の長机は食事をする場所ではなくなった。
図書館から借りた調査報告書が、八人分の皿より高く積まれている。
「生還した調査隊が十七組。最長で九日。帰れなかった隊は、記録にあるだけで四組だね」
グレイが読み上げるたび、固焼きパンが固くなる気がした。
「強い魔物に負けたの?」
「空腹で判断を間違えた班が一組。仲間を捜して、食料を全部持った荷物係まで見失った班が一組」
「それ、捜す人数を増やしてるだけじゃない」
捜索者を増やして、遭難者まで増やしては意味がない。
「撤退を一日延ばして、帰り道を塞がれた班もいるよ」
俺はその頁へ赤い印をつけた。
強い魔法より、失敗した判断を覚える。
少なくとも、報告書を書けなかった班と同じ失敗だけは避けたかった。
装備を床へ並べると、別の問題も見つかった。
「ミィナ。干し魚が十二枚足りない」
「入る前に軽くしておいた!」
「胃袋へ移しただけだろ!」
残った魚は、一日分ずつ袋へ入れて封をした。
アリエスの鞄には、着替えより火炎薬が多く入っていた。エリスに見つかり、本人ごと食堂の隅へ座らされている。
「迷宮で服が燃えたらどうするんですか?」
「火炎薬があれば、寒くないわ」
「服がなければ別の意味で困ります」
迷宮より先に、荷造りで脱落者が出そうだった。
残り二日は、目隠しをしたまま帰還石を取り出す練習と休養に使った。
準備しすぎて困ることはない。
迷宮で一番危険なのは、俺の思いつきを、俺自身が正解だと思い込むことだ。
先生は迷宮の断面図を地面へ広げた。
「地下一階から十階までは、過去の調査隊が帰還している。そこから先は地図がない。制限時間は十二日。帰還用の石は一人一個、砕けば入口へ戻れる」
「一人だけ戻ったら、試験はどうなるんですか?」
エリスの問いに、先生は表情を変えず答えた。
「一人でも帰還石を使った時点で、全員失格だ」
「ずいぶん厳しいね」
「全員進級か、全員留年。それがお前たち自身で選んだFクラスの戦い方だろう」
逃げる時まで一緒ということだ。
学校の班行動としては連帯責任が重すぎる。
俺は受験票を内ポケットへしまった。
「行く前に、俺たちの撤退条件も決めておきたい」
「失格になるのに?」
ミィナが耳を伏せる。
「留年なら来年やり直せる。死んだらやり直せない」
俺は指を三本立てた。
「動けない怪我人が二人出た時。食料が三日分を切った時。帰路を確保できなくなった時。どれか一つで、迷わず全員の石を砕く」
アリエスが何か言いかけ、昨日まで元気だったフェンリルの焦げ跡へ目を向けた。
「わかったわ。勝手に残るのも禁止ね」
「もちろんだ」
全員が同意するのを待ち、ミネルヴァ先生が開始の鐘を鳴らした。
***
開始の鐘が鳴っても、すぐには穴へ下りられなかった。
十二日分の食料に水、薬草、寝袋、縄、予備の外套。
そこへ、五体分の餌とナビの補修道具が加わる。
フェンリルの干し肉、ホークの木の実、カーバンクルの魔力石。シープには圧縮した牧草があり、ツナには人間用より高価な干し魚がある。
「ミィナ。それはツナの分だからな」
「まだ一枚しか食べてない!」
「口から魚の尾が出てるぞ」
初日どころか、一歩目から食料管理が危ない。
全員の荷物は、出発前に二度量った。
一番力のあるミィナとアリエスでも、体重の四分の一まで。縄も照明石も一つの鞄へ集めず、三人へ分けている。
「一本なくしたら、残り二本。二本なくしたら?」
「三本目は絶対に大事にする!」
「最初から全部大事にしろ」
水袋には、日付と名前を書いた。
誰か一人が我慢しても、反対に飲みすぎても、黙っていれば気づけない。夕食のたび、残りを全員で見ることにした。
グレイは薬と調理器具。エリスは治療具と護符。カイルは金属弾。ノアは照明石を持つ。
ルナのシープには、何も載せていない。
「空いてるなら、干し魚をもっと入れるー!」
「駄目だ。怪我人を運ぶ場所だ」
「お魚だって怪我するよ!」
「その時は、お前が背負え」
ミィナはツナを見た。
百二十キロある魚を見て、黙って自分の鞄を閉じた。
「遠足みたいですね」
ノアが笑う。
「行き先が未踏迷宮で、失敗したら留年する遠足だけどな」
「おやつは三百銅貨までにゃ?」
「ツナの餌をおやつに数えるなら、もう超えてる」
『正確ニハ、地図作成ハ当機ノ担当デス』
「俺はお前を落とさない担当だ」
『重要任務ト認定シマス』
入口から地下一階へ下りる石段は、途中で日光が届かなくなった。
ノアが弱い光を天井へ浮かべる。
以前なら洞窟全体を昼間のように照らしていた。今は必要な範囲だけを明るくできる。魔物へこちらの位置を教えず味方の目も焼かない。
地下一階から三階までは、骨の兵士が徘徊する墓所だった。
フェンリルが前衛で盾を受け止める。アリエスは鎧の留め革だけを焼いた。倒れた骨はミィナとツナが通路の端へ片づける。カイルとホークは後方から来る群れを風で押し戻した。
十か月前なら大惨事になっていた顔ぶれが今では流れ作業で骨を片づけている。人間は成長するものだ。
三階の大広間では、四本腕の骨騎士が出口を守っていた。
右の二本に剣。左の二本には盾。フェンリルが一枚を噛んでももう一枚で体を守る。ミィナが横へ回れば二本の剣が別々に追ってきた。
「頭を壊せば止まる?」
「首なしでも動いた個体の記録がある。魔力の核は胸だ!」
グレイが叫ぶが、胸元は二枚の盾で隠れている。
「だったら腕を増やした弱点を使う。カイル、四本全部に風を当ててくれ!」
ストーム・ホークが天井近くで翼を広げ、カイルの風が四方向から骨騎士の腕を押した。
骨騎士は四本の腕を広げ、別々の風へ踏ん張った。
「ルナ、今だ!」
「……まとめる」
ルナが四本の剣と盾だけを重くした。
広げた腕が重さに負け、剣と盾ごと床へ落ちる。露出した胸の核へノアが細い光を当てた。狙う場所が一目でわかる。
ミィナはツナの背から跳び、拳ではなく帰還標識用の木槌を叩き込む。
核が割れ、骨騎士は崩れた。
「これなら帰りに復活しても、胸の場所がわかる」
ミィナは砕けた骨を壁際へ並べ、胸の骨だけ赤い紐で結んだ。
片づけにも、少しずつ知恵がついている。
「今日は壊すより、片づけてる方が多いよ!」
「帰り道で踏んだら危ないからな」
競技場で身につけた連携は、点数のない迷宮でも役に立った。
第四階は、腰まで水につかる地下水路だった。
スカイ・ツナが先行して水中に沈んだ横穴を探す。ミィナはツナの尾へ命綱を結んだ。合図が三回返るたび俺たちを呼ぶ。
二つ目の合図を待っている時、水面の下で長い影が動いた。
「ツナ以外に何かいる!」
カイルが縄を引くと、大口を開けた水蛇がツナの後ろから現れる。
炎も雷も、水の中では仲間を巻き込みかねない。
「エリス、蛇の口へ膜を!」
カーバンクルの防護膜が透明な球となって水蛇の牙を内側から包んだ。口を閉じられなくなった蛇の頭へシープが浮力を与える。
巨大な体が水面へ持ち上がった。
グレイが眠り薬を染み込ませた布を膜の隙間へ投げ、ノアの光で蛇の目を覆う。
やがて水蛇は力を抜き、水面へ浮かんだまま眠った。
「倒さなくても通れますね」
「帰りに起きてるかもしれない。地図へ寝床を書いておこう」
ナビが青い蛇の印を加える。
見つけた迂回路をカーバンクルの膜で水から守り、一人ずつ通り抜ける。
第五階へ下りた途端、森が光った。
正確には、木ではない。
俺の腰より大きな茸が、青や紫の光を出しながら、通路の奥まで生えていた。
「綺麗ですね」
ノアが傘へ手を伸ばす。
その指を、グレイの杖が止めた。
「それは、触ると三日笑い続ける」
「こっちは?」
「眠り茸」
「では、この白いものは」
「声が出なくなる」
ノアの手が、ゆっくり胸元へ戻った。
「どうして全部知ってるの?」
「調査報告を読んだからだよ」
グレイは楽しそうだった。
知識が役立つ場所と、本人の目が光る場所が一致しているのは、少し怖い。
中和香を焚き、カーバンクルの膜で胞子を押し返す。
ミィナだけは、笑い茸を食べれば楽しく進めると言い張った。三人で止めたが、口の端から小さな欠片が見えている。
「食べたか?」
「食べてないもん!」
「じゃあ、何で笑ってる」
「アルトの顔がおもしろい!」
毒か普段通りか、判断がつかなかった。
第六階の砂地はホークが上空から道を選び、第七階の低い岩穴はミィナが匂いで出口を見つけた。
***
第八階は、底の見えない縦穴だった。
ホークが先に降り、壁の足場を確かめる。カイルが、その位置へ縄を渡した。
シープは一人ずつ背へ乗せて運ぶ。
ルナは目を閉じたままだが、上から落ちてくる小石だけを重くして、壁際へ逸らしていた。
「寝ながらできるようになったのか?」
「……起きてる。目を閉じてるだけ」
「それを世間では、寝てるって言うんだ」
第九階で待っていたのは魔物ではなく、勝手に動く石壁だった。
四十七秒ごとに、通路の形が変わる。
迷路が自分から模様替えをするのは、反則ではないだろうか。
『次ノ変形マデ、十二秒。右ノ交差路ヘ進ンデクダサイ』
「全員、走れ!」
最後尾のエリスが通り抜けた直後、背後の壁が閉じた。
通ってきた道は、もうない。
「帰りも同じ形になるの?」
アリエスが、閉じた石壁を叩く。
「周期が同じなら、ナビの記録で戻れる」
「違ったら?」
「帰還石を使う。条件の三つ目だ」
俺が答えると、アリエスは一度だけ頷いた。
進級したい。
卒業証書は、今でも喉から手が出るほど欲しい。
それでも、紙一枚のために七人と六体を置いていくなら、そんな卒業は俺が欲しかったものではない。
***
地上を出てから六時間後。
地下十階の安全区画へ到着した。
既知の地図は、ここにある円形広間で終わっている。
壁際には過去の調査隊が残した焚き火跡と学園の帰還標識が並んでいた。未踏区域を探すのは明日の朝からにする予定だった。
俺たちは標識を一本ずつ確認した。
標識には日付と人数がある。負傷者と残り食料まで記録されていた。
最後の標識は二年前のものだ。八人で到着して七人で帰還したとある。一人は第九階で帰還石をなくした。救助するため、全員で徒歩の帰路を選んだらしい。
「その人、今は?」
エリスが小さく尋ねる。
「報告書では全員生還してる。試験は失敗したけど、翌年に進級したそうだ」
失敗しても、その先はある。
壁の記録は、先生の言葉より静かにそれを教えてくれた。
「今日はここで野営だ。食べたら見張りを決めて休もう」
「まだ夕方にもなってない」
「地下では時間がわからなくなる。ナビの時計に従う」
『現在時刻、十四時十二分。全員ノ疲労度カラ、休息ヲ推奨シマス』
荷物を下ろした時、ストーム・ホークが低く鳴いた。
広間の奥、地図では壁になっている場所へ向かっている。
カイルが近づき、石壁の隙間へ手を当てた。
「風が流れてる。向こうに空間があるよ」
フェンリルが前脚で壁を掻くと、積もった埃が剥がれた。
そこにあったのは、黒い扉だった。
取っ手も鍵穴もない。表面には一本の白い線と大陸共通文字が刻まれている。
「卒業できなかった者だけが、この先へ進める」
エリスが読み上げる。
「どういう意味かしら。留年した人だけが開けられるってこと?」
「でも、年度末試験の途中です。私たちはまだ進級も留年も決まっていません」
ノアの言う通りだ。
ナビが扉を調べるが、白い線の向こうを読み取れない。
『材質、年代、術式、全テ解析不能』
「なら、今日は触らない」
俺は全員を下がらせた。
「地図にない扉なんて、罠だと思った方がいい。先生へ持ち帰って報告する」
その時、内ポケットの受験票が熱を持った。
取り出すと、俺の名前の下へ見覚えのない文字が浮かんでいる。
未完了の卒業記録、一件。
地球の高校のことだと、なぜかわかった。
あと二か月だった。
卒業式を待つだけだった。
それでも俺は、卒業できなかった者だ。
黒い扉の白線が光り、俺の胸へ伸びてくる。
「アルト、離れて!」
アリエスが俺の腕を掴んだ。
彼女をミィナが掴んだ。ミィナはカイルが掴む。ノアとエリスとグレイにルナまでがつながった。召喚獣たちも主人の服や荷物へ噛みつく。
撤退条件は決めた。だが謎の扉に全員で落ちる場合の規則までは決めていない。
「全員、手を離せ! 俺だけなら」
「勝手に残るのは禁止って言ったでしょ!」
扉が音もなく開く。
向こうにあったのは通路ではなく、星一つない暗闇だった。
床が消える。
八人と六体は一本の鎖になったまま、地図に存在しない第零層へ落ちていった。




