20話 敗者だらけの祝勝会
クラス対抗戦決勝の翌朝。
入学第四十三日。
目を覚ました俺が最初に見たのは、旧第三学生寮の天井だった。
次に見えたのは、胸の上へ座るナビだ。
『おはようございます。睡眠時間、十一時間二十七分。肋骨ニ軽度ノ損傷。起床ハ推奨シマセン』
「それを言いながら胸へ乗るな。痛い」
『生存確認デス』
銀色の外装には昨日の傷が残っている。右側の飛行板は包帯代わりの布で固定され、いつもの高さまで浮けないらしい。
俺はナビを抱えて、一階の食堂へ下りた。
そこは、負傷者と魔獣で満員の野戦病院になっていた。
「アルト、起きたならこっち手伝って!」
足首へ包帯を巻いたアリエスが、肉の皿を抱えている。
フレイム・フェンリルは床の毛布へ伏せていた。焦げた背中は薬草で覆われている。重傷に見えても皿が近づくたび鼻だけは元気に動いた。
食欲があるなら大丈夫。人間も魔獣も、その点だけは同じだ。
「先生は三日安静って言ったのに、もう丸焼き鳥を二羽食べたわ」
「治すには栄養が必要だ。たぶん」
「三羽目を要求してる顔よ、これ」
窓際では、カイルがストーム・ホークの翼を添え木で固定していた。
「一週間は飛行禁止だってさ。こいつ、窓を見るたび飛ぼうとするんだ」
ホークが不満そうに鳴く。
「ご主人に似たんですね」
隣でエリスが笑ってカイルの右腕の包帯を結び直す。カイルは耳まで赤い。彼女の左手へ治癒薬を塗っていた。
「エリスさんも人のこと言えないよ。指、まだ痛むでしょ」
「カイルくんこそ。もう少しこちらへ腕を出してください」
「そっちが先」
「いえ、カイルくんが先です」
二人の間にある薬瓶が、妙に甘い空気を発生させている。
「あれは放っておこう」
「賛成」
グレイは割れた眼鏡を外してカーバンクルの宝石へ補修剤を塗っていた。亀裂は浅い。数日休めば塞がるという。
エリスの膝には、すでに本人がいるのに安心したカーバンクルが丸まっている。
ルナは萎んだクラウド・シープを枕にして眠っている。寝息で膨らませようとしているようだ。効果はないのに羊の顔は幸せそうだった。
ミィナはスカイ・ツナの焦げた尾へ薬を塗るたび、自分の舌でも舐めようとしてノアに止められている。
「薬まで舐めたら、お腹を壊しますよ」
「ツナが痛そう! ミィナも舐めたら早く治るかも!」
「痛いところは、優しく撫でるだけでも安心します」
ノアが尾の付け根を撫でると、ツナは空中で目を細めた。
焦げた尾が床を叩き、萎んだ羊が寝言で鳴き、宝石の亀裂が補修剤を弾いた。
傷ついて腹を空かせて、それでも六体とも主人のそばを離れようとしない。
召喚の日から増えた家族が全員ここにいる。それだけで、負けた悔しさより先に安堵が込み上げた。
包帯を取りに廊下へ出ると、後ろから小さな話し声がした。
振り向く前に、ナビが俺の口元へ飛行板を当てる。
『静粛ニ。恋愛観察ノ時間デス』
「お前、そんな機能まであるのか」
曲がり角の向こうでは、カイルとエリスが二人きりで向かい合っていた。
「昨日、僕が一発目を外した時さ。エリスさんがいなかったら、たぶん二発目は撃てなかった」
「私も、カイルくんが風を戻してくれなかったら防護膜を閉じられませんでした」
「だから、その。怪我が治っても、こうやって近くにいてほしいというか」
カイルが包帯の右腕を差し出す。
エリスは一瞬驚き、それから両手でそっと包んだ。
「はい。私も同じことを考えていました」
二人の顔が近づく。
廊下の角から見るには刺激が強すぎる。恋愛映画ならここで音楽が流れる場面だ。
その時にカーバンクルが俺の足元をすり抜けた。エリスの膝へ勢いよく飛びつく。
「きゃっ!」
エリスを支えたカイルまで倒れ、廊下で二人重なってしまう。
「ご、ごめん!」
「いえ、こちらこそ!」
起き上がるまでの間、二人はずっと手を握っていた。
『交際成立ノ確率、七十八パーセント』
「まだ言葉にしてないから、見なかったことにしよう」
『当機ハ記録済ミデス』
「消せ」
***
昼過ぎ、ミネルヴァ先生が大きな木箱を運んできた。
「準優勝祝いだ。正確には予算委員会からの支給品だがな」
蓋を開ける。治療薬に魔獣用の餌。新品の実験器具と教本に制服の布まで詰まっている。
その上には、正規予算承認と書かれた羊皮紙が載っていた。
「俺たちに予算が?」
「準優勝、観客評価一位。委員会も、これで一銅貨も出さなければ自分たちがけちだと宣伝するようなものだからな」
「つまり、世間体に勝ったのね」
アリエスの身も蓋もない言葉に、先生は笑った。
「使える理由は使え。来月から、Fクラスにも他クラスと同額の教材費が出る」
一瞬だけ食堂が静かになった。
正規予算という言葉は俺たちにとって上級魔法より珍しい。
最初に叫んだのはミィナだった。
「お肉が買えるにゃ!」
「教材費で肉を買うな!」
「魔獣生態学の実習で食べるー!」
「食べたら教材がなくなるだろ!」
グレイが箱の底から、小さな銀の杯を八個取り出した。
「準優勝記念だって。せっかくだから、今夜は祝勝会にしようか」
「負けたのに?」
カイルが空の杯を指で回す。
「全員帰ってきた祝いだよ。優勝しないと祝えないなんて決まりはない」
その夜、食堂の長机には普段より少しだけ豪華な料理が並んだ。
フェンリルには丸焼き鳥の三羽目。ホークには刻んだ果物。カーバンクルには好物の木の実を用意した。シープは柔らかな若草でツナは塩を振っていない川魚だ。
ナビの前にも油の小瓶を置いた。
『当機ニ食事機能ハアリマセン』
「お前だけ何もないと寂しいだろ」
『合理性ハ皆無デスガ、受領シマス』
俺たちは銀の杯へ葡萄ジュースを注いだ。
負傷者へ酒を飲ませるほど、先生も寮母も甘くない。
「それじゃ、準優勝と全員生還に」
「正規予算にも!」
「お肉にもにゃ!」
「最後のは違う! 乾杯!」
八つの杯がぶつかり、六体の声が重なった。
敗者の祝勝会は優勝者の宴より騒がしかったかもしれない。
負けた八人しかいないのに誰一人として反省会を始めない。それがFクラスだ。
***
皆が寝静まった夜、俺は寮の中庭へ出た。
決勝で最後まで戦ったことに後悔はない。
それでも胸の奥には引っかかるものがあった。もう一度やれば勝てたのではないかという考えだ。
「こんなところにいた」
声に振り返ると、アリエスが夜着の上へ外套を羽織って立っていた。
「足は?」
「歩くくらい平気よ。それより、あんたがまた一人で暗い顔してるってノアが心配してた」
俺の隣へ座り、アリエスはしばらく月を見ていた。
満月を過ぎた月は、少しだけ右側が欠けている。
「私ね、前なら負けた自分が許せなくて、朝まで壁を殴ってたと思う」
「壁がもたないな」
「でも今は、フェンリルがここにいる。あんたもいる。それで少しだけ、次でいいって思えた」
彼女の声が小さくなる。
「私の炎は、強すぎるせいで誰かを傷つけるだけだと思ってた。でも、あんたは熱にしたり、風を起こしたり、仲間を助けるために使ってくれた」
「使ったのはアリエスだ。俺は頼んだだけだよ」
「そういうところよ」
アリエスが俺の制服の袖を掴んだ。
「ありがとう、アルト。私、あんたのことが」
続きは聞こえなかった。
彼女の顔が近づき、俺も身を寄せる。
赤い髪から薬草と少し焦げた匂いがした。
あと指一本ほどの距離まで近づく。その瞬間に俺たちの間へ巨大な鼻が割り込んだ。
恋愛映画は上映開始前に打ち切られた。
「熱っ!」
フェンリルだった。
背中に薬草を載せたまま中庭まで来て、俺の頬を湿った鼻で押している。
「ちょっと! あんた安静にしてなさいって言ったでしょ!」
アリエスが立ち上がると、フェンリルは尾を振って逃げた。
追いかける彼女の背中へ、植え込みから三つの声が漏れる。
「惜しかったー!」
「もう少し静かに見ていればよかったです」
「……フェンリル、空気が読めない」
ミィナとノアとルナが順番に顔を出した。
「お前ら、いつからいたんだ」
三人は答えず、同時に俺から目を逸らした。
ミィナは自分の唇へ指を当てている。ノアは胸の前で両手を握っていた。ルナは俺の袖の反対側を掴む。
何かを言いたそうなのに、誰も言葉にしない。
俺にも、その沈黙の意味を考える勇気はなかった。
***
対抗戦が終わっても、学園の暦は待ってくれなかった。
入学第七十日。
俺たちは、回復した使い魔たちと森を走っていた。
課題は、六色の旗を一時間以内に持ち帰ること。
フェンリルは赤い旗を見つけ、旗が刺さっていた木まで燃やしかけた。ホークは青い旗を見つけたが、復帰したばかりの翼で雲まで上がり、カイルに怒鳴られている。
カーバンクルは旗より木の実を集め、シープはルナと昼寝を始めた。ツナは青い布を魚だと思ったらしく、立派な歯形を二つ残している。
「回復したら、全員いつも通りだな」
「そこまで安心しきった顔で言うこと?」
アリエスが、フェンリルの耳を引きながら睨んだ。
ノアは木々の間へ、旗と同じ色の光を伸ばしている。グレイは帰り道へ薬草と餌の匂いを残していた。
「僕たちに使い魔はいないけど、六体を外から見られるからね」
「全員の飼育係みたいだな」
「採血係なら、僕が喜んで引き受けるよ」
「よくない」
一時間後、旗は六枚そろった。
焦げ、歯形、木の実のおまけまでついていた。
担当教員は採点板と旗を交互に見て、ずいぶん長い間黙っていた。
「……旗の状態は、採点項目に書いていない」
合格だった。
次の学年から、項目が一つ増える気がした。
***
入学第百三十日。
中間試験の前夜、食堂の壁が古代王朝の年表で埋まった。
「第三王朝の次が第五王朝って、おかしくないか?」
「第四王朝は三日で滅んだから、後世の歴史家が数えなかったんだよ」
グレイは簡単に言うが、俺には納得できない。
「三日でも王朝は王朝だろ!」
「アルト! 第四はアジ王!」
隣では、ミィナが王の名前を魚へ置き換えていた。
「初代はサバ王! 次はイワシ王! その次がアジ王!」
「答案に魚を書くなよ」
「魚なら忘れないにゃ」
その自信だけは羨ましい。
翌日。
俺は六十一点、ミィナは六十点だった。
合格点は六十点。
「勝った!」
「ミィナも勝った!」
抱き合って喜んだ俺たちへ、九十八点の答案を持つアリエスが冷たい目を向けた。
「あんたたち、実技の時とは別人ね」
「人には得意分野があるんだ」
「胸を張る点数じゃない」
「お前には言われたくない!」
試験前にグレイから受けた恩は、干し魚一枚と実験器具洗い三日分で返すことになった。
干し魚一枚と俺の三日が同じ価値なのは、まだ納得していない。
***
入学第二百十日。
秋の収穫祭で、旧第三学生寮は魔獣喫茶になった。
フェンリルの焼き芋。ホークの果物配達。カーバンクルの膝乗り席。シープの昼寝席。
最後に、ツナとの空中遊泳がある。
「飲食店に遊泳は必要か?」
「お魚を見ると、お腹すくー!」
「その魚を食べようとするな!」
開店しても、最初の客はなかなか入ってこなかった。
窓の外では、Sクラスの生徒たちが遠巻きにこちらを見ている。対抗戦で暴れた魔獣が五体もいて、その上を銀色の案内板まで飛んでいるのだから、喫茶店より魔獣園に見えるのかもしれない。
最初に扉を開けたのは、腕を組んだイグニスだった。
「翼竜が、ここの焼き芋を食いたがっている」
「本人はどこだよ」
窓の外を見る。
巨大な翼竜が校庭へ伏せ、尻尾だけを期待するように振っていた。
アリエスとフェンリルが芋を一箱焼き、ミィナとツナが窓から運ぶ。
翼竜は一口で、箱まで飲み込んだ。
「箱は出せ!」
「無理だ。もう飲んだ」
「飼い主なら止めろよ!」
騒ぎを聞きつけ、客が集まった。
昼前には、寮の外まで列ができている。
対抗戦で戦ったクロウドたちは、ホークの配達速度を測り始めた。ガリックたちは、フェンリルの焼き加減へ妙に細かい注文をつけている。
少し前まで杖を向け合っていた相手が、今日は同じ机で芋を割っていた。
こういう変化なら、悪くない。
売り上げの半分は餌代へ消えた。
残り半分は、ミィナが味見と称して食べた。
「計算が合わないんだけど」
「思い出はお金で買えないにゃ!」
「その台詞で食い逃げを正当化するな!」
***
入学第二百九十五日。
対抗戦から八か月が過ぎ、演習場にはまだ雪が残っていた。
「次、右の杭だけ重くしろ!」
「……右、どっち」
「寝ながら聞くからだ!」
ルナの杖が動く。
左の杭が地面へ沈んだ。
「そっちは左だ!」
「……アルトから見たら右」
基準を先に決めなかった俺にも責任がある。
満月の前後数日だけ大技を使い、それ以外は小さな物を重くする。そう決めてから、ルナが訓練場で倒れることはなくなった。
ホークは低空飛行から空へ戻り、カーバンクルの宝石にも傷はない。フェンリルは炎を細く吐けるようになったが、本人は太く吐きたい顔をしている。
カイルとエリスは、相変わらず互いの包帯を結べる距離にいた。
ただし、交際という言葉だけはまだ出ていない。
アリエスも、あの夜の続きを口にしなかった。
聞こえなかった言葉は、聞かなかったことになっている。
なっているはずなのに、時々こちらを見る赤い目と合うと、胸だけが勝手に続きを考えた。
「一年Fクラス。全員そろっているな」
演習場の入口に、ミネルヴァ先生が立っていた。
手には、黒い封蝋で閉じられた通知書が八通。
嫌な手紙ほど、見た目だけは立派だ。
「五日後、年度末進級試験を行う」
先生は俺たちへ一通ずつ渡した。
「場所は未踏迷宮アビス・ホール。課題は、最深部にある賢者の証を持ち帰ることだ」
さっきまで雪玉を投げ合っていた全員が止まる。
「未踏って、まだ誰も一番下まで行ってないって意味ですよね?」
カイルの声が一段低くなる。
「その通りだ」
「失敗したら?」
「Fクラスは、八人全員が留年となる」
風が吹き、手の中の黒い封が揺れた。
異世界まで来て、一年目から留年の危機。
卒業証書は、まだ一枚も見せていない。
それなのに留年通知だけは、ずいぶん早く俺を迎えに来た。




