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偽りの聖女と冷厳なる神官長【オメガバース】  作者: 水凪しおん


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第9話「恐れと独占欲の境界線」

 窓から差し込む朝の光が、自らの両手を照らし出している。

 セレスティアルはベッドの上で膝を抱え、ひび割れたように乾燥した自分の指先をじっとみつめていた。

 大回廊を埋め尽くしていた、あの底知れぬ瘴気の海。

 それを一瞬にして消し去った強大な光が、この細く頼りない腕から放たれたという事実が、未だに現実のものとして受け止めきれずにいる。

 妹の身代わりとして用意されただけの、空っぽの器であるはずの自分。

 なぜ自分の中にこれほどの力が眠っているのか。

 そして、この力はいつか、取り返しのつかない形で暴走し、周囲を傷つけてしまうのではないか。

 得体の知れない恐怖が、足元からじわじわと這い上がってくる感覚に肩を抱きしめた。

 扉が開く音がして、反射的に顔を上げる。

 黒曜石のような漆黒の法衣をまとったユリスが、静かな足取りで部屋の中央へと進み出てきた。

 彼は一瞥しただけで、セレスティアルの身体を強張らせている不安の正体を見抜いたようだった。

 足音を消してベッドの脇に立つと、躊躇うことなく長い腕を伸ばし、セレスティアルを毛布ごと深く抱き寄せる。


「何を怯えている」


 頭の上から降ってくる声は、大気を震わせるように低く、そしてどこまでも穏やかだった。

 ユリスの胸板に頬を押し付けられ、雨の森の香りが肺の奥まで浸透していく。


「……怖いのです。私が放ったあの光は、本当に私自身のものなのでしょうか。ルミナの身代わりである私が、こんな力を持っているなんて、何か恐ろしいことの前触れのように思えて」


 絞り出すような吐露に対して、ユリスはセレスティアルの背中に回した手に力を込めた。


「身代わりなどではない。あの光は、あなたの魂そのものから発現した力だ。あなたが自らの意思で、命を削って人々を救ったのだ」


 断言する言葉には一切の迷いがない。

 その揺るぎない肯定の響きに、セレスティアルの胸の奥で固く結ばれていた不安の糸が、少しずつほどけていった。

 そのとき、部屋の重厚な扉の向こうから、遠慮がちなノックの音が響いた。


「神官長様。西棟の神官より、大回廊の復旧状況に関するご報告と、聖女様のご尊顔をひと目拝して感謝を伝えたいとの申し出が……」


 扉越しに聞こえてきた高位神官の声に、ユリスの身体がはっきりと硬直した。

 瞬間、部屋の空気が一変する。

 優しく包み込んでいた雨の森の香りが、突如として凍てつくような吹雪の冷気を帯び、肌を刺すような鋭い威圧感へと変化した。

 αの剥き出しの敵意と、縄張りを荒らされた猛獣のような激烈な排他性。

 セレスティアルは息を呑み、思わずユリスの法衣を強く握りしめた。

 ユリスはセレスティアルをベッドに残し、音を立てずに扉へと向かう。

 扉をわずかに数センチだけ開け、その隙間から外にいる神官を見下ろした。


「聖女は現在、神聖な治療の最中にある。何人たりともこの部屋に近づくことは許さないと言ったはずだ」


「し、しかし、皆が聖女様の無事を案じておりまして……」


「その安い感傷で、彼女の平穏を乱す気か。二度と同じ言葉を私の前で口にするな」


 氷の刃のような宣告とともに、重い音を立てて扉が完全に閉ざされる。

 扉の向こう側から、神官が逃げるように走り去る足音が遠ざかっていった。

 ユリスは扉に背を向けたまま、深呼吸を繰り返している。

 部屋の中に充満した濃密なフェロモンは、彼がどれほど強烈な嫉妬と独占欲を抑え込んでいるかを明確に物語っていた。

 ゆっくりと振り返り、ユリスが再びベッドへと近づいてくる。

 その瞳の奥には、冷徹な神官長の仮面を脱ぎ捨てた、一人のαとしての暗く熱い炎が揺らめいていた。


「……誰も近づけさせない」


 かすれた声でつぶやきながら、ユリスはベッドの上に身を乗り出し、セレスティアルを逃げ場のないように腕の檻の中へと閉じ込める。


「あなたのその自己犠牲も、光も、香りも、すべて私のものだ。世界の誰にも、指一本触れさせはしない」


 それは狂気にも似た執着だったが、今のセレスティアルにとっては、どんな神の言葉よりも甘く確かな救済だった。

 これほどの情熱を向けられて、正気を保っていられるはずがない。

 セレスティアルは震える両腕をゆっくりと持ち上げ、ユリスの広い背中へと回す。

 彼の熱に焼かれ、すべてを委ねるように深く目を閉じると、ユリスの腕の力がさらに強く、骨が軋むほどに締め付けられた。

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