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偽りの聖女と冷厳なる神官長【オメガバース】  作者: 水凪しおん


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第10話「譲れぬ決意とすれ違う執着」

 穏やかな午後の静寂は、空を切り裂くような耳障りな警鐘の音によって唐突に破られた。

 セレスティアルはベッドの上で身を跳ね起き、厚いカーテンの隙間から窓の外へと視線を向ける。

 神都を包み込んでいたはずの澄んだ青空は完全に消失し、不吉な赤黒い雲が天頂から地平線までを分厚く覆い尽くしていた。

 窓ガラスの隙間から室内に侵入してくるのは、泥と腐肉を煮詰めたような、肺の奥を直接焼くひどい悪臭だった。

 以前大回廊に現れた瘴気とは比較にならない、国そのものを呑み込もうとする途方もない死の気配が、肌の表面に鳥肌を立たせる。

 壁の向こう側から、神官たちの怒声と、逃げ惑う人たちの悲鳴が重なり合って聞こえてきた。

 王都全体を巻き込む、かつてない規模の大瘴気が発生したのだと、思考を介さずに本能が理解する。

 掛け布団を跳ね除け、冷たい石の床に裸足のまま降り立った。

 急いで上着を羽織ろうとしたそのとき、重厚な扉が乱暴な勢いで開け放たれる。

 漆黒の法衣の裾を激しく翻して部屋に踏み込んできたのは、息を乱したユリスだった。

 彼の深い青の瞳は、かつてみたことがないほどに暗く濁り、焦燥の炎を燃やしている。


「部屋から一歩も出るな」


 叩きつけるような低い声とともに、ユリスは背手のまま扉の鍵を厳重に掛けた。

 部屋の空気が一瞬にして凍りつき、雨上がりの深い森の香りが、刃のような鋭さを持ってセレスティアルの全身に突き刺さる。

 それは庇護の香りではなく、自らの所有物を外敵から隠し、縛り付けようとするαの剥き出しの威圧だった。


「ユリス様、外の空気がひどく淀んでいます。結界が、街の結界が破られているのではありませんか」


「案ずるな。私がすべて対処する」


 ユリスは大股で歩み寄り、セレスティアルの細い両肩を大きな手で力強く掴み込んだ。

 骨が軋むほどの強い力に、セレスティアルの顔がつらそうに歪む。


「あなたはここで私を待っていればいい。世界のすべてが腐り落ちようとも、この部屋にだけは決して瘴気を通しはしない」


 その言葉は、神に仕える最高位の聖職者としてあるまじき、狂気を孕んだ執着の告白だった。

 セレスティアルは小さく息を呑み、目の前に立つ男の顔を真っ直ぐにみつめ返す。

 ユリスは本気で、この国を見捨ててでも自分一人を守り抜くつもりなのだ。

 冷たい恐怖と同時に、胸の奥を締め付けるような切実な愛情が、セレスティアルの心を激しく揺さぶった。

 しかし、ここで頷くわけにはいかない。

 病床で苦しむ妹のルミナも、神殿で祈りを捧げる若い神官たちも、今この瞬間にも瘴気に喉を焼かれ、命を落とそうとしているのだ。

 偽物の聖女としてこの場所に身を置いた日から、自分の命は彼らを救うために使い切ると決めていた。


「離してください。私が行かなければ、誰もあの瘴気を止められません」


「行かせないと言っている」


 ユリスの声が地鳴りのように低く響き、掴む手にさらに強い力が込められる。

 至近距離から浴びせられる濃密なαのフェロモンが、セレスティアルの身体から力を奪い、本能のままに服従させようと押さえ込んでくる。

 膝から力が抜けそうになるのを、セレスティアルは唇を噛み破るほどの痛みを引き金にして必死に堪えた。

 口の中に広がる鉄の血の味が、かろうじて理性を繋ぎ止める。


「私は、妹の身代わりとしてここに来ました。この力は、誰かの痛みを引き受けるためにあるのです」


「あなたの命は私のものだ。私の許可なく、勝手に命を散らすことなど決して許さない」


 互いの視線が空中で激しく衝突し、譲れない感情が火花を散らす。

 ユリスの腕の力は強固で、このまま力で振り解くことは不可能だとセレスティアルは悟った。

 胸の奥で、小さく、しかし決して消えない決意の炎が燃え上がる。

 セレスティアルは身体の強張りを解き、自らユリスの広い胸へと身を委ねるように体重を預けた。


「……ユリス様」


 かすれた甘い声で名前を呼びながら、セレスティアルは自らの内に眠るΩのフェロモンを、抑制を解いて一気に解放した。

 熟れた果実と花蜜が混ざり合ったような濃密な香りが、部屋の空気を爆発的に染め上げる。

 それは、番であるユリスの理性を直接揺さぶり、本能の奥底に甘い痺れをもたらす誘惑の香りだった。

 ユリスの呼吸が一瞬だけ止まり、肩を掴んでいた手の力がわずかに緩む。


「お許しください」


 耳元で謝罪の言葉を囁いた瞬間、セレスティアルは自身の体内に残っていた魔力を一点に集め、両手のひらから目くらましの強烈な閃光を放った。

 白く鋭い光が室内を満たし、ユリスが反射的に目を細めて腕で顔を庇う。

 その一瞬の隙を突き、セレスティアルはユリスの腕の中から抜け出し、振り返ることなく重い扉の鍵を開け放った。

 背後から、怒りと焦燥に濡れた獣のような低い咆哮が聞こえた気がした。

 しかしセレスティアルは足を止めることなく、冷たい石の廊下を、瘴気が渦巻く外の世界へと向かって駆け出していった。

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