第8話「秘密の共有と確固たる庇護」
大瘴気の襲来から数日が過ぎても、セレスティアルはユリスの私室から一歩も出ることを許されていなかった。
神殿内では「聖女は大瘴気を浄化した反動で深い眠りについており、神官長自らが結界を張って治療に当たっている」と公式に発表されているらしい。
あの回廊で漏れ出したΩの香りについても、ユリスが強権を発動して口封じを行い、奇跡の代償として生じた聖なる香気という名目で無理やり事実を歪めてしまったのだという。
世界で最も厳格であるべき神官長が、一人の偽物のために神殿の規則を根底から覆している。
その事実がもたらす重圧と、与えられる優しさの落差に、セレスティアルの心は絶えず揺れ動いていた。
昼下がり、分厚いカーテンが半分だけ引かれた薄暗い部屋の中で、セレスティアルはベッドの背もたれに身を預けていた。
扉が静かに開き、銀の盆を手にしたユリスが足音もなく入ってくる。
「少しは食欲が戻ったか」
日常の挨拶のように紡がれる言葉には、かつての冷徹な響きは微塵も残っていない。
ユリスはベッドの脇に腰を下ろすと、盆の上から温かな湯気を立てるスープの器を手に取った。
匙で丁寧にすくい、軽く息を吹きかけて熱を逃がしてから、セレスティアルの口元へと差し出す。
「ユリス様、手は動きますから、自分で……」
「これは治療の一環だ。口を開きなさい」
有無を言わせない静かな圧に気圧され、セレスティアルは観念して小さく唇を開いた。
滋味豊かな温かいスープが舌に触れ、空っぽの胃袋へとゆっくり落ちていく。
ユリスの深い青の瞳が、その飲み込む動作を一つひとつ確かめるようにみつめているのが分かり、顔に不自然な熱が集まっていくのを止められない。
「なぜ、最初からご存知だったのですか」
数口のスープを飲み込んだ後、セレスティアルはずっと胸の奥につかえていた疑問を口にした。
ユリスの匙を持つ手がかすかに止まり、彼は器を盆へと戻す。
「偽装香は完璧だった。視覚も、魔力の波長も、すべてが妹君の記録と一致していた」
ユリスは静かに告げながら、長い指でセレスティアルの頬に落ちた後れ毛を耳にかけた。
指先が肌に触れるたび、かすかな電流のような快感が背筋を駆け上がる。
「だが、私の本能だけは騙せなかった。初めて祭壇であなたと対峙した瞬間、私の中のαが、見つけた、と叫んだのだ」
運命の番。
知識として教典の隅で読んだことのある、魂の奥深くで結びついた運命のつがい。
まさかそれが自分と、この神都の頂点に立つ男との間に存在しているなど、到底信じられる話ではなかった。
しかし、ユリスから放たれる香りが、そして自身の奥底でうずく甘い熱が、それが紛れもない事実であることを証明している。
「あなたは魔力を酷使しすぎた。失われた生命力を補うには、番である私の魔力とフェロモンを直接注ぎ込むしかない」
ユリスはそう言うと、セレスティアルの細い右手を取り、自身の両手で包み込むように握りしめた。
厚い法衣越しではなく、素肌と素肌が直接触れ合う。
硬い剣だこのある掌から、とてつもない熱量と、清冽な魔力の奔流が流れ込んできた。
フェロモンの調和と呼ばれる行為だった。
雨上がりの深い森の香りが濃度を増し、セレスティアルの頭の芯を甘く痺れさせていく。
呼吸が自然と深くなり、肺を満たすユリスの香りに酔いしれるようにまぶたが落ちる。
「あっ……ユリス、様」
「力を抜け。すべて私に委ねればいい」
かすれた声で名前を呼ぶと、ユリスは組んだ手をそのまま自身の唇へと引き寄せ、セレスティアルの指先に深く、祈るように口づけを落とした。
その敬虔で、同時にひどく官能的な動作に、胸の奥が締め付けられるように痛む。
自分は罰を受けるべき罪人なのに、どうしてこんなにも甘やかされ、大切に扱われているのだろうか。
これほどまでに盤石な庇護の下に置かれてしまえば、二度と元の孤独な世界には戻れなくなってしまう。
それでも、セレスティアルはユリスの手を振り払うことができなかった。
心地よい熱と香りに包まれながら、張り詰めていた心の壁が音を立てて崩れ落ちていくのを、ただ静かに受け入れることしかできなかった。




