第6話「大瘴気の襲来と暴かれる香」
静寂に包まれていた神殿の空気が、突如として鳴り響いた重苦しい警鐘の音によって切り裂かれた。
ベッドの上でまどろんでいたセレスティアルは、跳ね起きるようにして目を見開く。
部屋の外から、神官たちが慌ただしく廊下を駆け回る足音と、切羽詰まった怒声が重なり合って聞こえてきた。
「結界が破られたぞ」
「大回廊に応援を回せ。息をしている者が倒れている」
断片的に聞こえてくる言葉に、セレスティアルの血の気が一気に引いた。
ユリスは数時間前に公務のために部屋を出たきり、まだ戻っていない。
壁に立てかけられていた上着を羽織り、ふらつく足に力を込めて重い扉を押し開ける。
廊下に一歩踏み出した瞬間、鼻腔を強烈な悪臭が突き刺した。
泥と錆、そして腐敗した肉が混ざり合ったような、肺を塞ぐほどの死の匂い。
瘴気だ。
それも、以前中庭で浄化したものとは比較にならない、濃密で巨大な闇の塊が、神殿の内部に直接湧き出している。
セレスティアルは壁伝いに歩き、悲鳴が上がる大回廊へと向かった。
角を曲がった先に広がる絶望に、無意識のうちに喉が引きつり、足が縫い止められた。
大回廊の白い大理石の床を、黒いタールのような瘴気が意志を持っているかのように這い回っていた。
逃げ遅れた若い神官たちが喉をかきむしりながら倒れ伏し、空気の代わりに絶望を吸い込んでいる。
「駄目だ、近づくな」
後方から駆けつけてきた年配の神官が叫んだが、セレスティアルの耳には届かなかった。
妹の身代わりとして、偽りの聖女としてここにいる自分にできる唯一のこと。
それは、この呪われた力を使って誰かを救うことだけだ。
セレスティアルは大回廊の中央に向かって走り出した。
瘴気の海に足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような激痛が全身を駆け巡る。
それでも立ち止まらず、倒れている人たちの中心に辿り着くと、その場に強く両足を踏みしめた。
深く息を吸い込み、胸の前で両手を強く組み合わせる。
祈りの言葉は必要ない。
体内の魔力回路を全開にし、命の炎を燃料にして極大の光を練り上げる。
「消え、なさい」
堰を切ったように、セレスティアルの身体から純白の光の奔流が急激に広がった。
光の波は黒いタールを瞬時に呑み込み、焼き尽くし、澄んだ空気へと還元していく。
しかし、その代償として体内から凄まじい熱が噴き出した。
血管の中を沸騰した鉛が流れているかのような激痛に、骨が軋む音を立てる。
全身の毛穴から吹き出した汗が、肌に塗り込められていた偽装香の成分を容赦なく洗い流していく。
瘴気が完全に霧散し、大回廊に光が戻った瞬間、セレスティアルの限界が訪れた。
張り詰めていた糸が切れ、操り人形のように床へと崩れ落ちる。
「聖女様」
遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。
しかし、セレスティアルの意識は激しい消耗によって薄れかけている。
ただ一つ、致命的な変化が起きていることだけは、本能がはっきりと理解していた。
偽装香の効果が完全に消失したのだ。
男Ωとしての、甘く熟れた果実のような、むせ返るほどの花蜜のフェロモン。
それが、堰を切ったようにセレスティアルの身体からあふれ出し、大回廊の空気を染め上げていく。
周囲にいた神官たちが、突如として充満したΩの香りに当てられ、動揺してざわめき始めた。
「なんだ、この匂いは」
「甘い……まさか、聖女様から」
隠し通してきた最大の秘密が、白日の下に晒されてしまった。
恐怖で呼吸が止まりそうになったそのとき、廊下の奥から地を這うような重い足音が近づいてきた。
周囲の空気が一瞬にして凍りつき、冷気と威圧感が回廊を支配する。
現れたのは、漆黒の法衣を乱したユリスだった。
彼の深い青の瞳は、床に倒れ伏すセレスティアルを捉え、そして空気中に漂う濃密なΩのフェロモンを敏感に感知していた。
ユリスの顔から一切の表情が消え落ちる。
交差する視線。
それは、偽りの終わりと、後戻りできない運命の始まりを告げる、残酷なほどに静かな瞬間だった。




