第4話「過保護な領域と罪の重さ」
深い泥の底から引き上げられるように、ゆっくりと感覚が周囲の輪郭を捉え始めた。
最初に認識したのは、肌を包み込むシーツの異常なまでの滑らかさだった。
最高級の絹が擦れるかすかな音が、耳元で優しく鳴っている。
セレスティアルは鉛のように重いまぶたを、時間をかけて押し上げた。
視界を覆うのは、見慣れた質素な天井ではなく、複雑な幾何学模様が施された重厚な天蓋だった。
呼吸をするたびに、胸の奥で鈍い痛みが脈を打っている。
しかし、その痛みを和らげるように、部屋中には濃密な香りが充満していた。
雨上がりの深い森を思わせる、冷涼でありながらひどく甘い香り。
αのフェロモンだった。
ここは自分の部屋ではないと、本能が警鐘を鳴らすよりも早く理解する。
首だけをわずかに動かして周囲を見渡すと、高い窓から差し込む夕暮れの光が、豪華な絨毯の模様を赤く染め上げていた。
部屋の隅に置かれた大きな黒曜石の机や、壁一面を埋め尽くす書棚の重厚さが、この空間の主が誰であるかを無言で告げている。
神殿の最高権力者である神官長、ユリスの私室だった。
なぜ自分がこのような場所に寝かされているのか、混乱した思考が答えを探して空回りする。
記憶に残っているのは、中庭の聖樹に巣食う瘴気を払い、その反動で身体が崩れ落ちた瞬間のことだった。
冷たい石畳に顔を打ちつける直前、誰かの力強い腕に抱き留められた記憶がかすかに残っている。
身体を起こそうとシーツを握りしめたが、指先にはまったく力が入らなかった。
浄化の反動による魔力枯渇が、全身の筋肉から熱を奪い去っている。
かすかな衣擦れの音を立てて身じろぎしたそのとき、重厚な木製の扉が音もなく開かれた。
現れたのは、漆黒の法衣をまとったユリスだった。
彼は銀の盆を片手に持ち、ベッドの上に横たわるセレスティアルを一瞥する。
その深い青の瞳は、夕陽の赤を弾き返すように冷たく澄んでいた。
「目が覚めたか」
静かに響く声には、普段の張り詰めた威圧感は鳴りを潜めていた。
ユリスは足音を立てずに歩み寄り、ベッドの脇に置かれた小テーブルに盆を置いた。
「ここは……ユリス様の、お部屋ですか」
乾ききった喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどひどくかすれていた。
ユリスはベッドの傍らに置かれた背もたれの高い椅子を引き、静かに腰を下ろす。
「そうだ。あなたを医務室へ運べば、無用な詮索をする者が出る」
淡々と事実を告げる声が、室内の静寂に溶けていく。
身元も怪しい聖女が、神官長の私室に運び込まれることの異常さを、彼はまったく気にかけていないようだった。
「あの程度の瘴気は、本来ならば高位の神官が数人がかりで処理するものだ」
ユリスの眼差しが、セレスティアルの蒼白な顔を真っ直ぐに射抜く。
「それを、なぜたった一人で、しかも無防備な状態で実行した」
怒りというよりは、純粋な疑問と、かすかな焦燥が入り混じった声音だった。
セレスティアルは視線を落とし、シーツの縁を弱々しく握りしめる。
「放っておけば、被害が広がると思いました」
「自己犠牲を尊ぶのは教典の中だけで十分だ」
冷ややかな言葉とともに、ユリスの手がゆっくりと伸びてくる。
大きな掌が、熱を持ったセレスティアルの額に触れた。
びくっと肩が跳ねる。
分厚い皮膚の感触と、そこから伝わる涼やかな体温が、熱に浮かされた頭を心地よく冷やしていく。
しかし、それ以上に、至近距離から降り注ぐフェロモンが厄介だった。
男Ωとしての本能が、ユリスの接触を喜んで腰の奥に甘い痺れを生み出している。
偽装香はまだ機能しているのだろうか。
汗をかいたことで本来の匂いが漏れ出していないか、恐怖で心臓が早鐘を打ち始めた。
「ユリス、様……私に、触れないでください」
震える声で拒絶の言葉を口にすると、ユリスの動きがぴたりと止まった。
額に乗せられていた手が、名残惜しむような間を置いて離れていく。
その途端、得体の知れない喪失感が胸をえぐるように掠めたが、セレスティアルは必死に顔を背けた。
「……すまない。熱を測ろうとしただけだ」
ユリスの声は、少しだけ硬い響きを帯びていた。
彼は銀の盆からガラスの杯を手に取り、セレスティアルの口元へ差し出す。
「飲め。魔力の枯渇を補う霊薬だ」
セレスティアルは上体を起こそうとするが、やはり背骨に力が入らない。
それを見かねたユリスが、長い腕をセレスティアルの背中に差し入れ、強引に身体を抱き起こした。
背中越しに伝わってくる、厚い胸板の硬い感触と、規則正しい鼓動のリズム。
逃げ場のない密着状態に、セレスティアルの呼吸が浅く乱れる。
杯の縁が唇に触れ、冷たくて苦みのある液体が口内に流れ込んできた。
飲み下すたびに、ユリスの体温が法衣越しに伝わり、内側から身体を焦がしていくようだった。
「他の者には、あなたが祈りの修行で倒れたと伝えてある」
空になった杯をテーブルに戻し、ユリスは再びセレスティアルをベッドへ寝かせた。
「当面の間、あなたの世話は私が直接行う」
「そんな……神官長様に、そのような真似をさせるわけにはいきません」
「これは決定事項だ」
反論を一切許さない鋭い語気だった。
しかし、毛布を首元まで引き上げてくれる手つきは、恐ろしいほどに丁寧で優しい。
セレスティアルは深く目を閉じた。
ユリスのこの過保護な優しさは、自分に向けられたものではない。
病弱な妹であるルミナという、本物の聖女に向けられるべきものなのだ。
自分は彼を騙し、神殿全体を騙し続けている。
この温もりに安堵し、本能のままに甘えたいと願ってしまう自分が、ひどく醜く思えた。
嘘を重ねる罪悪感が、鉛のように胃の底に沈み込んでいく。
同時に、部屋を満たす冷涼で甘い香りが、反抗する理性を優しく撫でつけ、セレスティアルの意識を再び深い眠りへと引きずり込んでいった。




