第3話「初めての浄化と甘い引力」
神殿の東棟にある中庭は、普段は誰も立ち入らない静寂に包まれた場所だった。
石畳の隙間から伸びる下草は枯れ果て、中央に植えられた古い聖樹の根元には、不吉な黒い染みがべったりとこびりついている。
瘴気だった。
国を蝕む厄災の欠片が、神聖な結界の綻びを縫ってここまで入り込んでいる。
セレスティアルは立ち止まり、ひどく淀んだ空気の中で眉を寄せた。
泥と錆が混ざったような悪臭が鼻を突き、胃の奥が嫌な形にせり上がる。
本来であれば、神官長であるユリスに報告し、正規の手順を踏んで処理すべき事案である。
しかし、このまま放置すれば瘴気は周囲の植物を枯らし、やがて神殿で働く人たちの身体を蝕んでいくだろう。
病の床で苦しそうに息を吐く妹の姿が脳裏を過る。
痛みを放置することは、セレスティアルにはできなかった。
「私が、やらなければ」
左右を見回し、誰の姿もないことを確認してから、聖樹の前に膝をつく。
教典で学んだばかりの祈りを心の中で反芻し、胸の前で両手を組み合わせた。
深く息を吸い込み、体内の奥底に眠る魔力の源へ意識を沈めていく。
冷たい熱が血管を逆流するような感覚。
それは、自らの生命力を削り出し、光へと変換する作業だった。
組んだ指先から淡い銀色の光がこぼれ落ち、淀んだ空気を切り裂いて聖樹の根元へ触れる。
光が黒い染みに触れた瞬間、反発する瘴気が牙を剥いた。
鋭い痛みが手首から腕、そして胸へと雷のように駆け抜ける。
「っ……」
喉の奥で悲鳴を噛み殺す。
血管の内側を無数の細かい針で引っ掻かれているような激痛に、視界が白く明滅した。
浄化の力は確かに働いている。
黒い染みは光に溶かされ、澄んだ空気へと還元されていく。
しかし、その代償として身体にかかる負荷は想像を絶するものだった。
呼吸の仕方を忘れ、冷や汗が背中を滑り落ちる。
最後の一欠片の瘴気を光が呑み込んだ瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れた。
熱の塊が頭蓋の奥で弾け、急激な悪寒が全身を襲う。
膝の力が抜け、身体が横へと大きく傾いた。
冷たく硬い石畳に顔を打ちつける。
そう覚悟して固く目を閉じたセレスティアルの身体は、しかし、地面に衝突することはなかった。
落ちる直前、背後から力強い腕が伸びてきて、細い腰をしっかりと抱き留めたのだ。
勢いのまま、分厚い布地で覆われた熱く硬い胸板に引き寄せられる。
「何をしている、愚か者が」
頭の上から降ってきた怒気を含んだ声に、薄れゆく意識の中でセレスティアルはかすかに息を呑んだ。
ユリスだった。
彼がどうしてここにいるのかを考える余裕はない。
瘴気の悪臭が消え去った空気に、深い森の雨を思わせるαのフェロモンが、奔流となって一気に満ちていく。
それは怒りによって輪郭を鋭くしているはずなのに、セレスティアルの身体にとっては、劇薬のように甘く優しい特効薬だった。
激痛に震えていた神経が、その香りに包まれた瞬間に嘘のように弛緩していく。
芯まで冷え切っていた身体が、彼から伝わる熱量によって内側から温められていく。
「ユリス、様……申し訳、ありませ……」
弁明をしようと唇を動かしたが、声はかすれて音にならなかった。
ユリスの腕がさらに強く腰を抱き寄せ、もう片方の手がセレスティアルの冷たい頬を乱暴なほどに、しかし傷つけない力加減で包み込む。
大きな掌の感触。
指先から流れ込んでくる、かすかな魔力の波。
それは、運命の番としての引き合う引力が、理性を置き去りにして本能のままに絡み合う瞬間だった。
「口を開くな。ひどい熱だ」
耳元で囁かれる声は、日頃の冷徹な神官長のものとは思えないほど低く、焦燥に濡れていた。
抗いがたい安らぎの波に呑み込まれ、セレスティアルの意識は完全にその温もりの中へと沈んでいった。




