第2話「祈りの代償と近づく距離」
神都の気候は常に冷涼であり、高い天井を持つ大書庫の空気はとりわけ冷え込んでいる。
幾千もの古い蔵書から放たれる紙とインクの匂いが漂う中、セレスティアルは分厚い教典に視線を落としていた。
「そこは息の継ぎ方が違う。光を呼び込むには、言葉の形よりも体内を巡る魔力の循環を意識するのだ」
頭上から降ってくる容赦のない指摘に、セレスティアルは姿勢を正して小さく息を吸い込んだ。
聖女としての役目を果たすため、神殿に伝わる浄化の祈りを習得しなければならない。
指導の任に就いたのは、他でもない神官長ユリスだった。
多忙を極めるはずの最高権力者が、なぜ一介の聖女の教育を直接行っているのか。
疑問を差し挟む余地は一切なく、毎日この静寂に包まれた書庫で、息の詰まるような個人指導が続いている。
「申し訳ありません。もう一度、最初から読み上げます」
声が高く上擦らないよう、喉の奥を意識的に開いて発声する。
女性であるルミナの声を模倣するのは容易だが、そこに微かな震えが混じってしまうのは、すぐ背後に立つユリスの気配が濃すぎるからだった。
教典の文字をなぞろうとした瞬間、視界の端に黒い袖が入り込んでくる。
「ここの段落だ。古代の記述は文脈が複雑に絡み合っている」
言葉とともに、ユリスが背後から身を乗り出すようにして、長くて節立った指で古ぼけた羊皮紙の一部を指し示した。
その瞬間、セレスティアルの肩が大きく跳ね上がる。
耳のすぐ横を、ユリスの低い声と、微かに温かい吐息が通り抜けた。
それだけではない。
距離が縮まったことで、彼が常にまとっている雨上がりの森の香りが、逃げ場のないほどの密度でセレスティアルを包み込んだ。
きつく焚き染めた偽装香の匂いが、まるで意味をなさないかのように打ち消されていく。
血液の温度が一気に上がり、指先から感覚が抜け落ちていくような甘いめまいが襲いかかってきた。
Ωとしての本能が、強大なαの接近を歓喜をもって迎え入れようと、体内で熱を帯びて暴れ回る。
抗わなければならない。
理性で蓋を押さえつけ、呼吸を細く長く吐き出しながら、セレスティアルは教典から顔を背けるように身をよじった。
「あの、ユリス様。少し、近すぎます」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど湿って頼りない音を立てた。
しまった、と後悔したときには遅かった。
ユリスの指の動きが止まり、ゆっくりと顔がこちらに向けられる。
至近距離で交差する視線。
冷酷なまでに澄んだ青い瞳の奥に、得体の知れない暗い炎が揺らめいたようにみえた。
「近い、か」
低くつぶやかれた言葉には、責めるような響きはなかった。
むしろ、その事実を確かめるように、あるいは獲物の反応を楽しむように、わずかに声のトーンが下がっている。
ユリスはすぐには身を引かなかった。
それどころか、椅子の背もたれに置かれた彼の手が、逃げ道を塞ぐようにセレスティアルの肩のすぐ横へと移動する。
背中越しに伝わってくる大きな身体の熱が、厚い法衣の生地を通して肌を焦がすように染み込んでくる。
「聖女よ。あなたはひどく怯えているようにみえるが、私に何か不満でもあるのか」
「そ、そのようなことは……ただ、その、教典の文字が、影になって読みにくく」
苦し紛れの言い訳を口にしながら、セレスティアルは視線を宙に彷徨わせた。
心臓の音がうるさすぎて、自分の声が正しく出せているのかすら分からない。
沈黙が降りた。
永遠にも思える数秒間の後、ユリスはゆっくりと身体を離した。
覆い被さっていた熱と香りが遠ざかり、肺に冷たい空気が流れ込んでくる。
「……そうか。ならば、自ら声に出して反復を続けなさい」
足音が遠ざかり、ユリスが書庫の窓辺へと歩いていく。
セレスティアルは教典の上に両手を置き、小刻みに震える指先を隠すように強く握りしめた。
これでは駄目だ。
彼に近づかれるたびに、身体の奥が融けそうになる。
身代わりの任務を終えるまで、この狂おしい本能の疼きを隠し通さなければならない。
しかし、背中越しに感じるユリスの視線が、いつまでも射抜くように自分を捉えて離さないことを、セレスティアルの肌は確かに感じ取っていた。




