第1話「偽りの聖女と冷厳なる神官長」
登場人物紹介
◇セレスティアル
病弱な双子の妹の身代わりとして「聖女」を演じている男Ω。
自己犠牲の精神が強く、他者の痛みを和らげるためなら自らの身を削ることもいとわない。
強い浄化の力を持つが、その代償として身体に重い負荷を負う。
◇ユリス
神殿を統べる若き神官長。
周囲を威圧する強大な魔力と影響力を持つα。
常に厳格で隙がないが、セレスティアルに対しては過保護なまでの包容力と、強い独占欲を垣間見せる。
冷たい石造りの床を擦る純白の裾が、ひどく重たく感じられた。
神都の中央にそびえ立つ大神殿の最奥へと続く回廊は、日の光を拒絶するように薄暗く、静まり返っている。
歩みを進めるたびに、何層にも重ねられた豪華な布地が脚に絡みつき、見えない鎖のように行く手を阻んだ。
胸元をきつく締め上げるコルセットが肺を圧迫し、呼吸をひどく浅くさせる。
しかし、その息苦しさ以上にセレスティアルを苛んでいたのは、肌の表面にべったりと張り付いている鋭く刺激的な匂いだった。
本来の甘い香りを抑え込み、第二性であるΩの気配を完全に消し去るための偽装香である。
鼻の奥を焼くような薬草の匂いを吸い込むたびに、自分が犯している罪の大きさが輪郭を持って迫ってくるようだった。
病に倒れた双子の妹ルミナの身代わりとして、この神聖な領域に足を踏み入れた。
男であり、しかもΩであるという事実が露見すれば、単なる追放では済まない。
一族の破滅と、何より妹の命を奪う結果に直結する。
震えそうになる指先を祈るように組み合わせ、長く垂らした純白のヴェールの下で、セレスティアルは唇を強く噛み締めた。
視界の先、重厚な彫刻が施された大扉が、鈍い軋みを上げて左右に開かれていく。
流れ込んできたのは、祭壇に灯された無数の蜜蝋燭の熱気と、それを一瞬にして凍りつかせるような冷涼な空気だった。
祭壇を背にして立つ長身の男の姿が、逆光の中に浮かび上がった。
『この方が、若くして神殿のすべてを統べる神官長様です』
案内役の神官が恭しく頭を下げる横で、セレスティアルは歩みを止める。
漆黒の法衣に銀の刺繍をまとったその男は、静かな夜の湖面を思わせる深い青の瞳で、歩み寄る偽りの聖女を射抜いていた。
彫刻のように整った顔立ちには一切の感情が浮かんでおらず、ただそこに存在するだけで周囲の空気を重く沈み込ませている。
神官長、ユリス。
その名とともに彼が一歩前へ踏み出した瞬間、セレスティアルの全身の産毛が逆立った。
「よくぞ参られた。我々はこの日を待ち望んでいた」
低く、耳の奥から直接脳髄を震わせるような響きを持つ声だった。
同時に、偽装香の刺激臭をやすやすと突き破り、鼻腔を満たした香りがある。
雨に濡れた深い森の木々を思わせる、冷たくて、ひどく甘い香り。
αのフェロモンだった。
それも、これまでに街の片隅ですれ違ったいかなるαとも比較にならない、濃密で純度の高い香りである。
ヴェールの下でセレスティアルの目が大きく見開かれ、呼吸が不規則に乱れる。
薬で眠らせていたはずのΩの本能が、その香りを感知した途端に熱を持ち、下腹部の奥からじわりと甘い痺れを這い上がらせてきた。
膝から力が抜けそうになるのを、足の指を硬い革靴の底に食い込ませて必死にこらえる。
「顔を上げなさい」
命令の形をとったその言葉には、決して逆らうことのできない引力を孕んでいた。
セレスティアルはかすかに肩を震わせながら、ゆっくりと顎を上げる。
透けるヴェールの向こう側で、ユリスの青い瞳が、細部まで観察するようにこちらを見つめ下ろしていた。
その視線が首筋から胸元、そして組み合わされた指先へと滑り落ちるたびに、見透かされているのではないかという恐怖で背筋が凍りつく。
だが、ユリスの表情は冷徹なまま動かない。
「長き旅路、大儀であった。今日よりここはあなたの家となり、私があなたの盾となる」
誓いの言葉は厳かで、冷たい石の壁に美しく反響していく。
しかし、その言葉の裏側で渦巻くαの濃密な気配に、セレスティアルの心臓は肋骨を内側から叩き割るほどの勢いで跳ね続けていた。
ここは安息の地ではない。
本能を狂わせる猛獣の檻の中へ、自ら鍵をかけて閉じこもったのだと、肌を刺すような冷気の中で悟るしかなかった。




