番外編「神意より深く、世界より重く」
◇ユリス視点
あの日、冷たい石造りの大扉が開いた瞬間のことを、ユリスは今でも鮮烈に記憶している。
祭壇の前に立ち、無数の蜜蝋燭の熱気に包まれながら振り返った彼の視界に飛び込んできたのは、純白のヴェールに身を包んだ華奢な姿だった。
『この方が、若くして神殿のすべてを統べる神官長様です』
案内役の神官の言葉など、もはや耳に入っていなかった。
足を踏み入れたその人物がまとっているのは、鼻の奥を激しく焼くような、質の悪い偽装香の強い刺激臭。
女性の聖女として迎え入れられるはずのその身体の骨格、筋肉のつき方、そして歩の進め方をみれば、彼が男であることは一目瞭然だった。
しかし、ユリスを激しく動揺させたのはその事実ではない。
刺すような薬草の匂いの奥底に、絹の糸のように細く、しかし決して無視することのできない強烈な甘い香りが潜んでいたのだ。
熟れた果実と、夜に咲く花蜜を煮詰めたような、脳髄を直接痺れさせるような匂い。
それまでどれほど優れたΩとすれ違っても微動だにしなかったユリスのαの本能が、その瞬間、急激な歓喜の咆哮を上げた。
見つけた。
魂の奥底で欠けていた半身を、ようやく見つけ出した。
全身の血液が一瞬にして沸騰し、今すぐにその細い首筋に牙を立て、誰の手にも触れさせないよう深い森の奥深くに閉じ込めてしまいたいという獰猛な独占欲が、理性の堤防を食い破りそうになる。
「顔を上げなさい」
声が震えないよう、喉の奥の筋肉を硬く引き締めて発した言葉だった。
ヴェールの向こう側からこちらをみつめ返してきた瞳は、怯えた小動物のようにひどく揺れ動き、今にも逃げ出しそうなほどに強張っている。
自分を騙せると本気で思っているのだろうか。
あまりにも稚拙な偽装と、その裏に隠された切実な悲壮感。
病に倒れた妹の身代わりとして、自らの命を切り捨てる覚悟でこの死地に足を踏み入れたのだと、彼に関する事前の報告書と目の前の事実を照らし合わせれば容易に想像がついた。
愚かで、ひどく脆く、そして狂おしいほどに愛おしい。
ユリスは表情筋を氷のように凍りつかせ、冷徹な神官長の仮面を顔面に張り付けた。
今、この場で彼を抱きしめ、番としての印を刻むのはたやすい。
しかし、そんな真似をすれば、この怯えたΩは恐怖で完全に心を閉ざしてしまうだろう。
彼を守らなければならない。
神殿の厳格な掟からも、彼を罰しようとする冷酷な世界からも、そして何より、彼自身のその愚かな自己犠牲の精神から。
「長き旅路、大儀であった。今日よりここはあなたの家となり、私があなたの盾となる」
それは建前などではない。
魂の底から絞り出した、生涯をかけた揺るぎない誓いだった。
それからの日々は、ユリスにとって甘美な拷問のような時間だった。
書庫で隣に並んで座るたび、中庭で彼が倒れ込むのを抱き留めるたび、偽装香の下から漏れ出す甘い香りに理性が千切れそうになる。
彼が他の神官とわずかでも言葉を交わすだけで、内臓を素手で握り潰されるような黒い嫉妬が渦を巻いた。
大回廊で彼が限界を超えて光を放ち、その香りを全神官の前に晒したとき、ユリスは怒りよりも先に、これでようやく彼を自分の私室に完全に隔離できるという暗い歓喜に震えていた。
傷ついた彼をベッドに寝かせ、フェロモンを直接注ぎ込むときの、あの震える指先の感触。
彼のすべてを己の手で支配し、もう二度と手の届かない場所へ行かせないように縛り付ける。
大瘴気の空の下、彼の力が尽き果てて倒れ込んできた身体を抱き留めた瞬間、ユリスの長かった葛藤はようやく終わりを告げた。
神託という形を借りて世界が二人の結びつきを認めたことは、単なる結果論に過ぎない。
たとえ神が否と告げようと、世界が彼を拒もうと、ユリスはこの腕の中に落ちてきた運命の半身を、決して手放すつもりはなかった。




