エピローグ「光の庭と甘やかな束縛」
季節が巡り、神殿の中庭には暖かな陽光が降り注いでいた。
かつて黒い瘴気に蝕まれて枯れかけていた聖樹は、今では青々とした葉を豊かに茂らせ、その枝先には白く可憐な花がいくつも綻んでいる。
爽やかな風が吹き抜けるたびに、かすかな花の香りが鼻腔をくすぐった。
セレスティアルは聖樹の根元に置かれた白い長椅子に腰掛け、膝の上で開いた古い教典のページをゆっくりとめくっていた。
その姿に、かつてのような窮屈さは微塵もない。
胸を締め付けていた分厚いコルセットも、何層にも重ねられた重い純白のドレスも、そして肌を焼くようなあの偽装香も、すべては過去のものとなっていた。
今のセレスティアルがまとっているのは、生成り色の柔らかな麻の服と、動きやすい簡素な革靴だけだ。
男であることも、Ωであることも隠す必要がなくなり、ありのままの姿で太陽の光を浴びることができる。
それがどれほど尊く、奇跡のようなことなのかを、肌を撫でる風の温度が教えてくれる。
背後から、芝生を踏む静かな足音が近づいてきた。
振り返るよりも早く、深い森の雨を思わせる冷涼で甘い香りが、セレスティアルの身体をすっぽりと包み込む。
長椅子に座ったままのセレスティアルの背後から、ユリスの長い両腕が伸びてきて、細い肩を抱き込むようにして重なった。
「こんなところにいたのか。探した」
耳元に落ちる低い声には、神殿の最高権力者としての威圧感はなく、ただ番を見つけた安堵だけがにじんでいる。
ユリスはセレスティアルの首筋に顔を埋め、そこから立ち上る甘い花蜜のフェロモンを深く吸い込んだ。
「会議は終わったのですか。まだ日が高いですが」
「あぁ。長老たちの無意味な議論にはうんざりする。あなたの香りを補充しなければ、これ以上正気を保てそうになかった」
大真面目な声で語られるひどく甘い台詞に、セレスティアルは小さく息をついて苦笑した。
大瘴気が去り、二人の関係が公に認められてからというもの、ユリスの過保護と独占欲は隠されることなく堂々と発揮されるようになっている。
少しでも姿がみえなければこうして探しにやってきて、周囲の目などお構いなしにフェロモンを絡ませてくるのだ。
「ルミナから、手紙が届きました」
セレスティアルは教典の間に挟んでいた一通の封筒を取り出し、ユリスにみせた。
病床にあった妹は、あの日の浄化の光と王都の魔力循環の回復によって完全に健康を取り戻し、今では実家の領地で元気に走り回っているという。
手紙には、姉だと思っていた兄の秘密に対する驚きと、世界を救った二人への無邪気な祝福の言葉が便箋いっぱいに綴られていた。
「彼女の無事が確認できたのなら、もうこの神殿に未練はないのではないか」
ユリスの腕の力が、わずかに強くなる。
それは、セレスティアルが自分の元を去ってしまうのではないかという、彼の中に未だに眠るかすかな恐怖の表れだった。
セレスティアルは微笑みながら、肩に回されているユリスの大きく硬い手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「未練はありません。ただ、私が生きていきたい場所は、もうここしかないのです」
少しだけ首を傾けて見上げると、ユリスの深く澄んだ青い瞳が、痛いほどの熱を持ってこちらをみつめ返していた。
風が吹き抜け、聖樹の白い花びらが二人の周囲を雪のように舞い散る。
「私の命は、あなたが救ってくれた。だから……これからも、私をあなたの傍に置いてください」
セレスティアルが囁くように告げると、ユリスの瞳の奥で揺れていた不安の影が完全に溶け落ちた。
彼はセレスティアルの手を力強く握り返し、そのまま引き寄せるようにして深く長い口づけを落とす。
唇が触れ合うたびに流れ込んでくる温かな魔力と、互いを求め合うフェロモンの甘い調和。
もはやそこには一切の偽りもなく、ただ永遠に続く深い愛と盤石な庇護だけが、穏やかな光の庭を優しく満たし続けていた。




